さいしょのひ | ナノ



「死んだかと思った……」
「俺もちょっと思った」
「いや信じててよそこはさ」
「ちょっとだけだよ」

八左ヱ門が朗らかに笑う。
私の面会禁止も解けて、保健室の空気は穏やかだ。

「他のみんなは?」
「授業中だ」

じゃあ、八左ヱ門は授業を抜けて会いに来てくれたのか。
彼もまだ頭に包帯を巻いていた。痛々しい……と思ってしまうけれど、全身包帯まみれの私の方が痛々しい。

「新野先生が知らせに来てくれたんだ」
「なるほどね、それで」

八左ヱ門が開け放してくれた扉から、学園の庭を眺める。お昼前は六年生以外どの学年も授業中なので、忍たまの声は聞こえなかった。遠くから七松先輩らしいいびきも聞こえる。昨日の深夜実習はろ組だったらしい。

「新野先生、なんか言ってた?」
「竹谷くんが1番心配してるでしょうってさ。あとまぁ……いろいろ聞いた」

八左ヱ門がそっと、床に投げ出された私の左手に触れた。多分。左手には包帯は巻かれていないけれど、触れられた感触はない。

新野先生が何度も触れて確かめた。数馬や善法寺先輩が何度もリハビリしようとしてくれた。けれどもう、私は半ば諦めている。腕だけじゃない、足もだ。私の左半身はもう動かない。

「わかんねぇのか、これも?」
「うん、まぁ」
「……そっか」
「生きてるだけで御の字だよ」

生きて帰ってこれた、それだけでありがたい。
あの場に打ち捨てられていたら確実に死んでいた。走馬灯もたくさん見た。

八左ヱ門は諦めなかった。私の記憶が途切れるその瞬間まで、彼は私を支えて学園に向かって歩き続けていた。

「いやほんと……死んだと思ったよ……」
「いや俺もほんと……なまえどんどん冷たくなってくし、もうダメかと思ったよ……新野先生と保健委員に感謝だな」

八左ヱ門がぐしゃりと私の頭を撫でる。
なんとなくくすぐったくて、私は変な笑顔になった。こうやって八左ヱ門と話している現実が不思議だ。
連れてきちゃったのかな、とも思ってしまうくらい。でも、今朝まで保健委員と新野先生が付きっきりだった。私と八左ヱ門だけじゃなくて、彼らまで死んでしまうわけはないし、これは現実だ。

「これから先はどうなるかわかんないけど……とりあえずは生きてて良かったと思ってるんだよ、本当に」

そう言えば八左ヱ門は、少し複雑な顔をした。私の言葉の意味がわかったのだろう。
身体が駄目になってしまったので、私が忍者になる未来は断たれた。誰の目にも明らかだ。
しかも不幸なことに私は女なので、この先を生きていく方法は限られてきてしまう。もしかしたら、あの時に死んでおいた方が幸せだったと、将来後悔することもあるかもしれない。

でも、現時点では、私は後悔していない。

「……間に合わなくて、済まなかった」

八左ヱ門は床に手をついて、頭を下げた。慌てて右手を伸ばす。

「やめてよ!八左ヱ門、本当にありがとう。八左ヱ門が連れて帰ってきてくれたから、私こうして喋ってられるんだよ」

先生方も皆言っていた。竹谷八左ヱ門がいなかったら、と。その先の言葉はなかったけれど、ひとつしかないだろう。

八左ヱ門は頭をあげない。私はその肩を揺らした。やめてほしい、本当に、私の命の恩人なのに。

「本当だったらね、八左ヱ門は命の恩人だから、一生かけてその恩を返していきたいの。私はそういう気持ちでいるの」

八左ヱ門はなにも言わない。思いつめてほしくなかった。責任感の強いこの人のことだから、言っても無駄かもしれないけれど。

「でも、ごめんね、私こうなっちゃったから、八左ヱ門に何がしてあげられるか、今すぐにはわからないんだけど。でも、この感謝の気持ちは忘れないよ。絶対、恩を返すよ」

目が覚めてからずっと考えているけれど、どうやって恩返ししたらいいのか、まだわからない。わからないけれど、それでも私は八左ヱ門に恩を返したいのだ。

八左ヱ門は保健室の畳を睨みつけたまま、ゆっくりと口を開いた。

「……恩とか、そんなもん、いいから」

えっいいの、と私はショックを受ける。私からの恩返しなんて要らないってことなの……?
心臓が大きく跳ねて、嫌な痛み方をした。血液が急に、ドンドンと音を立てて流れ始める。

「もう二度と、死にそうになったりしないでくれ。……肝が冷えた」

八左ヱ門がぽつりぽつりとおとす言葉は、重力に従って畳にぶつかり、そこから波紋を描いて広がっていく。そして私の、床に投げ出したままの左手に到達し、麻痺しているはずのそこからじんわりと私に染み込んでいく。

「……う、ん、まぁ、もう忍者っぽいことはしないし……」
「そうじゃなくて」

八左ヱ門が顔を上げる。ひどく真剣な表情で、また心臓が大きく跳ねた。

焦りと、緊張と、よくわからない様々な感情が入り交じったなにかとで、今の私は絶対に顔が真っ赤だろう。

「今後はずっと、俺の目の届く範囲にいてほしい。俺に恩を返すってんなら、一生俺の傍から離れるな」

八左ヱ門の言葉が畳におちて、順繰りに広がって私の中に浸透するまで、やはり時間はかかった。

頭の中で何度も今の言葉を繰り返す。

えっいや……えーっと……どういう意味……?

「返事は」
「あっうんごめん、いやその、えーと。今の言葉は……」
「聞こえなかったか?ならもう1度言うけど」
「……お願いします」

聞こえなかったなんてことは、全然、ないけど。かなり遠くから七松先輩らしいいびきが聞こえる以外は、人の声はほとんど聞こえない。外は静かで、そして室内も静かだ。

わかっているのに繰り返そうとする八左ヱ門。布団の上に腕を伸ばして、動く方の私の手を取った。

「あー、その、比喩表現だな」
「……うん」
「四六時中ずっとって意味じゃなくな?今後はずっと、俺の隣にいてほしい」
「うん」
「なまえが本気でくのいち目指してたのもわかってる。すぐには決められないとは思う」
「うん」
「俺もまだ学生だし。けど、なまえ、帰る家も嫁に行く宛もないだろ?」
「……まぁ、それは」

言葉を濁すしかない。こんなにはっきり言われたのも久々だ。
相手を傷つけようという明確な悪意でもない限り、私を目の前に口に出す事実でもないから。

「だから、問題はないだろ?」
「……ん?問題?」
「そう、だから、その、帰る家があるわけじゃないんだから」

八左ヱ門の顔を見つめる。……目を逸らされた。
耳が少し赤い、ような……?これは、まさか……?

「ん……?」
「……あー!だから!」

八左ヱ門が突然大きい声をだすもんだから、ビクッとする。右手をギュッと握りこまれた。

「俺の嫁になっても問題ないだろ!?」
「あっ、え、うん、そりゃ、まぁ」

私はぱちくりと目をしばたく。問題?は、おそらくないけど……。

八左ヱ門の嫁?

……八左ヱ門の、嫁!?

ボフンと、顔が爆発した。

「……恩返しとか、どうでもいいんだけど、俺はもうなまえが心配でたまらないので、今回の件でそれがよくわかったので。……どうしても恩を返したいってなら、俺の、嫁、に、なってください」

体温があがりすぎて、くらりと目眩がした。
どうしよう。この人が、すきだ。



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