木の葉のさざめきに目を向ける。春の終わり、夏の訪れを告げる音だ。……本当にそれだけかしら?なにか別のものも、
まさか、
「また来たの、兵助!」
庭と反対側、襖に目を向ければ静かにそこに座る影に、驚いて大きな声がでる。
布で口元を覆った暗い人影が、目元だけで笑った。
「驚くのはそこなのか」
「気づいたらそこに座ってるのは、もういつものことでしょう」
庭から来た方がびっくりするだろう。この人がうちに忍び込むのはいつものことだ。
「昼間に来るなんて珍しいね。初めてなんじゃない?仕事は?」
「今朝終わったところだ」
「寝てなくていいの?」
「しっかり寝たよ」
どうやら兵助は、忍者の仕事をしているらしかった。というか、忍者だ。出で立ちも気配もそのもの。
詳しいことはよく知らない。詳しいことを知らなくとも、私はこの人のことが好きだ。
「ちょっと待ってね、今なにかおやつでも、」
布団から立ち上がった途端に、派手に咳き込む。
兵助が膝をついて支えてくれた。咳がとまらなくてとまらなくて、呼吸がうまくできなくて、だんだん頭がぼうっとしてくる。
身体の力が抜けて、兵助の腕に沈みこんでしまう。背中をさすってくれる手があたたかい。
「大丈夫だ」
なにも根拠のないこの言葉が、私の気持ちを落ち着ける。とまらない咳に、せりあがってくるものを感じて、慌てて兵助の腕を振り払った。
私の手のひらと口の間、わずかな隙間に、布が押し込まれる。
「やめ、待っ、ッゴホ」
咳がとまらなくて、うまく喋れない。兵助が私の口に布を押し付ける。
やっと咳がおさまった頃には、その布は真っ赤に染まっていた。……白い手ぬぐいだった。
「……水を汲んでくる。湯を沸かして、お茶でも淹れよう」
井戸はこの部屋から庭へ降りて、東へ回り込んだ先だ。説明などしなくとも、この忍者はどうせ、初めて訪れたその日からわかっているだろうけれど。
「お客様、なのに」
「曲者だよ。なまえは布団にいて」
涼やかな目線を残して、音もなく軽やかに消える。私はぼうっと、汚してしまった手ぬぐいを見下ろした。
当然、私のものではない。兵助の手ぬぐいだ。
彼の前で血を吐くのは初めてだった。でも、きっと、知っていたのだろう。
「曲者が淹れてくれるお茶を飲むなんて、滅多にない経験かもしれない」
ぼんやりと呟く。
兵助はすぐに、やはり音もなく戻ってきて、土間で竈に火を入れていた。私のつぶやきに返答がある。
「しかも、今日は曲者お手製の手土産がお茶請けだ」
「ほんとうに!?」
大きな声をだしたら、また軽い咳がでた。ヤカンの様子を見ていたはずの兵助が、何故か近くにいて、また背中をさすってくれる。移動がはやすぎる……。
「そんなに喜ぶなよ」
声は、多分に笑いを含んでいた。
「俺の豆腐を喜ぶのはなまえくらいだ」
「だって、本当に美味しいもの。本当は忍者じゃなくて、お豆腐屋さんなんじゃないの?」
「残念、忍者だよ。学生時代に少し凝っていたんだ。豆腐料理も得意だよ」
兵助が穏やかに言う。
「学生時代に凝っていた?……豆腐に?」
「豆腐に」
またヤカンの様子を確かめて、戸棚から湯のみや茶葉を取り出しながら、彼が豆腐小僧と呼ばれた由来を聞く。
「……それで、本当に豆腐が好きになっちゃったの?」
「やってみると、これがまた、奥が深くて」
「凝り性なのね」
「よく言われる」
お茶を淹れる背中を見つめる。
「誰によく言われるの?学園の仲間?」
「とか」
「ふうん」
兵助はいつでも黒い装束で、口元も布で覆っていて、顔は目元しか見えなくて、でも、私の目に見えるものは意外に多い。
髪の毛を大切に伸ばしていること。とても線が細い身体付きであること。でも、その背中は意外に広いこと。
「そういえば、今朝まで仕事だったんでしょう?怪我はしてない?」
「忍者の仕事って、斬った張ったばかりじゃないんだよ」
「へー、そうなの」
「うん。今朝まで俺はとある城のお女中だった」
湯のみをふたつとお皿をひとつ、お盆に乗せて兵助が戻ってくる。
私は首をかしげた。おじょちゅう……?
「えっ女の子だったの?兵助が?」
「そう。誰にも言うなよ」
「言う相手なんてひとりもいないよ」
私は胸のあたりが悪いので、二間しかないこの離れにひとりで生活している。
胸の病は治らない。その上、空気を介して人にうつるのだ。
「兵助、女の子になれるの?どうして?男の人でしょう?」
「なまえは純粋で可愛いなぁ」
「馬鹿にしてるでしょう!」
兵助はくすくすと笑いながら、お盆を床に置いた。私が握りしめていた手ぬぐいを、そうっと取り上げる。
「あ、それ、あの、ごめんなさい」
「謝ることはないだろ。俺が勝手にやったことだ。俺の手ぬぐいだし」
軽やかな言葉だった。兵助らしい、重力のない言葉だ。この人はよく、こういう物言いをする。どこか、浮世離れしているような。
兵助は真っ赤になった手ぬぐいを軽くたたんで、畳に血がつかないように脇へ置いた。
静かに湯のみを差し出される。先ほど血を吐いた喉に、熱いお茶が心地よい。
「……ありがとう」
「ほら、豆腐も」
「うん、いただきます」
ひとさじ救って口にいれる。今日の豆腐は甘みが強かった。口の中でふわりと溶ける。これは、まるでスイーツだ。
「豆腐なのに……」
「うん」
「スイーツだ……」
「わかるか」
兵助の目元がほころぶ。嬉しそうだ。
「うん、美味しい」
「もっと栄養が多い方がいいかとも思ったんだけど、こういうのも好きかなと」
「すごい……すごいよ兵助、どうして豆腐屋さんにならなかったの?」
さらにすくって口にいれる。口の中でとろける食感、見た目も味も豆腐そのものなのに、どうしてだろう、これではデザートだ。
美味しい美味しいと食べていたら、なんだか視界が滲んできた。
「……こんなに美味しいお豆腐、なにか、お礼をしなきゃね」
「え?いいよ、そんなの」
兵助が目を丸める。私は首を横に振った。その衝撃で目から雫が落ちてしまう。
兵助は傍の手ぬぐいを取ろうとして、それから、自分の指だけを私の頬に向けた。
白くて細くて長い、繊細な指先が私の頬を滑る。手ぬぐい、血まみれだもんね……思いとどまってくれてよかった。
「兵助、今日、すごいタイミングだったんだよ」
「そう?昼間に来たのが?」
「そう。狙ってたんだね、やっぱり」
それには兵助はなにも言わなかった。この人はおそらく、私に嘘はつかない。忍者なのだから、嘘をつくのは簡単なはずなのに。いつも、うまく話題をすり替えたり、わざとらしく言葉を濁したり、こうして黙ってしまったりするのだ。
そうすることで、私に信頼されようとしたのだろうか。
私は忍者じゃないし、忍者のことはよく知らないのでわからない。わからないままでいいと決めたのも私自身だ。
「欲しいものがあるんでしょう?必要なもの、なのかな」
とまらない涙はそのままに、美味しいお豆腐の最後のひとくちを食べる。美味しかったなぁ。最後に食べるものが、兵助のお豆腐で良かった。
兵助は黙って頷いた。私も頷く。
「時間をかけてくれてありがとう」
「……なんの話だ」
「私、病気なのに、何度も来てくれたよね。うつるの怖くなかったの?」
兵助はある日突然現れた。曲者としての兵助としか、私は交流がない。
「怖くはないよ」
「……うつったりしないって、わかっていたのね」
「そうじゃない、いや、それもあるけど」
兵助は困ったように指先で頬をかいた。
それから、口元を覆う布を外す。……初めて見た兵助は、なんというか、ひどく美しい男だった。
「きれいな人……」
「それは、初めて言われた、かな」
私は首を振る。これは嘘だろう。
「どうせ死ぬんだから、別にひとりでも良かったの」
「嘘をつくなよ」
「本当だよ。でも兵助がたくさん会いに来てくれて、すごく嬉しかった。私のこと覚えてくれてる人がいるって、最高ね」
また軽い咳がでて、会話がとまる。兵助は私の咳がおさまるまで、黙ってゆったりと背中をさすってくれた。
「今夜が最後だから、もう、持っていっていいよ」
父がこの部屋に隠したもの。きっと忍者の兵助の狙いはそれで、もうとっくにその在り処を突き止めているのだろう。
病がうつるから、近寄らない方がいい。そうして隔離されたこの部屋は、ものを隠すにはぴったりだった。
「……俺はこう見えても強欲でね」
兵助はお茶をすすってから、のんびりと言葉を返してきた。考えながら話しているかのように、ゆっくりと、しかし軽やかに喋る。
「欲しいものはひとつだけじゃないんだ」
兵助が笑顔をこぼす。笑う時に、少し前歯が覗くんだ。初めて知った。ちょっと幼く見える。案外、思っていたよりは若いのかもしれない。
「なにが欲しいの?」
兵助が笑うと息が詰まる。また咳がでそう。
「なにがいいかなぁ」
「なに、その言い方。決まってるんじゃないの」
「なまえのね」
兵助が、穏やかに私を見つめる。
「なまえの想い出になるものが欲しいんだ」
やだ、顔からでるもの、全部でそう。
「……どうして、今。……今日!そんなことを言うの」
「誰もなまえを忘れたりしないよ」
兵助はさらり、さらりと言葉を続ける。
「大丈夫だ」
私は、軽く咳き込んで、そして兵助がいつものように、私の背を抱き抱える。
死ぬなら今がいいと、切実に思ってしまった。今夜を待てない。今がいい。
この人の腕の中で死んだら、きっとこの人は生涯、私を覚えていてくれるのだろう。
忍者を生業にしている男相手に、何故か確信する。