さいごのひ | ナノ

枕元に何かを置く音に、意識がゆっくり浮上する。
水を張った桶、だろうか。布を絞る音が続く。

「……ぜんぽうじ、せんぱい?」

一瞬、音が止まった。柔らかい笑い声が続く。

あぁ、と人違いを悟った。この声は、

「らいぞう」
「そうだよ、なまえ。目は開くかい?」

穏やかな声のどこを探したって、無理をしている様子はなかった。いつもの雷蔵だ。
つまらないミスをして、毒を飲むハメになった。どんどん具合が悪くなっていく身体を同級の仲間たちに支えられてなんとか帰ってきたところまでは、記憶が繋がっている。
そのあとは起きたり眠ったり。新野先生の懸命な声を何度も聞いた気がした。

腫れぼったい瞼を無理やり押し上げるように目を開ける。

「……なんか、すごい、まぶた、腫れてる?私の顔、浮腫んでるんでしょう」
「うーん、少し浮腫んでるかも」

雷蔵は穏やかな顔で、私に濡れた手ぬぐいをむけた。額や首筋を拭ってくれるのが、冷たくて気持ちがいい。

「喋れるなら、喉は大丈夫そうだね。善法寺先輩が、気道を心配していたけれど」

気道を。そこまで、私の容態は悪かったのか。確かに、深夜に目が覚めたとき、私の身体は横を向いていた。舌根沈下を防ぐために、新野先生か善法寺先輩の指示でそうされたのだろう。

みず、と言葉にしようとして口を開いた瞬間に、すい口が差し出される。雷蔵らしい、少し大雑把な仕草で、口に押し込まれた。

「頼みがあるの」
「うん」

水を飲んで一息ついて、雷蔵を見上げる。平素と同じ穏やかな表情は、慈愛に満ちていた。

「部屋を片付けたくて」
「わかった、くのたまの長屋に入る許可を貰っておくね」

あぁ、どうして伝わってしまうのだろう。どうして新野先生も保健委員もこの部屋にいないのだろう。
どうして、今ここにいるのが雷蔵なのだろう。八左ヱ門だって、三郎だって良かったはずなのに。

「私の部屋、後輩達よりかなり離れた場所だから」
「うん。山本シナ先生も許してくださるよ、きっと」

今欲しいものはあるかい、と優しい声が続く。いつもと同じ、優しい声だ。

「……いま、ほしいもの?」
「そう。部屋のもので」

私は考えた。教科書も、忍具も、今の私には必要ない。着飾る必要もないし、変装の道具だって、……あぁ、そうだ。

「私のじゃなくていいから、紙。書き留めてほしいかもしれない」
「言ってごらん」
「変装の道具、三郎に、あげようかと思って」

雷蔵は眉をあげた。

「高かったんだろう?三郎はどうせ自分で買うさ」

相変わらずぞんざいな言い方に、笑い声がでて、そして、むせた。気道が完全に塞がることはなかったけど、だいぶ狭くはなっているらしい。

「ほら、お水」

水を、お水と丁寧に呼ぶこの人が、たまらなく好きだ。そんなことを思いながら、差し出されたすい口で水を飲む。

「いいの、紅、欲しがってたから」
「つけあがらせるだけだ」
「髪の油、八左ヱ門にあげてね」

雷蔵はなにか言おうとして、黙った。わずかに首が上下する。頷いてくれた。

「やすり。兵助、忍具の手入れ、サボるから」

雷蔵はもうなにも言わなかった。黙ったまま、再び私の首筋を冷たい布で拭う。気持ちいい。ありがたい。好きだ。寂しい。

「あと、筋トレの道具、結構あるから……」

雷蔵はなにかに迷っているようだった。困った顔は、見慣れたものだ。いつでも、迷っている人だから。

「勘右衛門に」

優秀なこの人は、メモをとらなかったけれど、全部覚えてくれただろう。最後にダメ押しをしようとして、でも、私より先に雷蔵が口を開いた。

「……渡しておく。約束するよ」
「ありがとう」
「それで、僕には」

答えはわかっているだろうに、聞いてくれるのもこの人の優しさのひとつだ。たくさんの優しさと迷いを抱えて生きていく人。

「ぜんぶ」

私は微笑もうとして、おそらく失敗したのだろう。顔の筋肉が、まったく動かない。

「あの部屋のもの、なんでもあげる。たいしたものはないけど、雷蔵が欲しいもの、なんでも持ってってね」

だから、なんでもあげるから、だから、

「だから、今は、ここにいてくれたら嬉しい」

雷蔵が、きゅっと私の手を握った。ひどく浮腫んでいるらしく、皮膚の感触は遠かったけれど、なんとか雷蔵の体温は感じ取れる。

「ずっと一緒だよ、今だけじゃない」

迷いの残る声だった。

「ずっと、一緒だよ」

いつもと同じ、優しい声だ。だからこの人が選ばれたのだ、とどこかで悟る。私の同級のうち、いっとう演技の上手い人。

いつもと同じ優しさ、いつもと同じ表情、いつもと同じ声で、叶わない約束をしてくれる。
雷蔵を、大切なこの人を、連れていくつもりは毛頭ないけれど。
たくさんの「いつも通り」に安心して、今は少し眠ろう。


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