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きっかけなんて些細なことで。
やってしまったと思えば既に手遅れ。
なんとか取り繕おうとするんだけど。
私の言葉は届かなくって。
そして、私は今日もまた。
優しい君に恋をする。


恋愛中毒。


なまえって、男運ないよね。
あの時友達に言われた言葉は、今でも私を縛るようついてまわる。
「別れよう」
五年付き合った彼氏にそう告げられながら、なまえはどこか遠くからそれを聞いていた。呼び出された彼の家、数分前まで飲んでいた空き缶、ベッドの前の指定席。それら全部を俯瞰するように見据えながら、ああまたかと。なまえはたった今まで彼だった人の目をぼんやり見ていた。

誠実な、優しい人だったと思う。どこか抜けていて、でも優しさだけは充分すぎるほど持っていて。そう、優しすぎたのだと思う。なまえは駅の階段を下りながら帰途についていた。ぼんやりと見上げた空には星ひとつ無い。いや、本来ならあるはずの光は、街の光に打ち消されて届かないのだ。
こんな時、涙の一つでも出れば女の子らしいのかもね。
空を見上げても霞みさえしない自分の視界は、いつもと変わらずクリアに見えた。別れ際、彼だった人の家を去る時に言われた言葉が蘇ってくる。
「早く、君が君自身を。本当の君を見せてもいいと思える人に、出会えるといいね」
マンションの玄関で、履きなれたヒールを鳴らしたなまえに彼は言った。背中越しに告げられた言葉では、表情は読めない。不思議に思って振り返ってみると、彼は何とも言えない顔で笑っていた。あんな表情、私は知らない。
五年も付き合ってまだ知らない表情があったのかと思うと同時に、なまえはそれだけ彼のことを知らなかったのかと気づかされた気がした。五年一緒にいても、まだ知らない彼がいたのは、彼が一面を見せなかったからか。それとも。彼の大きな手が私の頭を撫でる。
「これで最後だよ」
温かく染み込んでくるような体温。私に触れる手の優しさ。これだけはキライじゃなかったと本当に思う。


「・・・バイバイ」

人通り少ない路地で一人呟く。この声は彼には届かない。どんな言葉も、どんな思いも、もう彼には届かない。そんなもんだ。人生なんて。そんなもんだ、恋人なんて。
ようやくほんの少しだけ目頭が熱くなった気がした。泣けるか。よし泣け。ここで泣けたら女の子っぽいぞ。泣け。泣け。泣いてみろ。ほら、泣けって。
涙は出ない。

「ちぇ」

それ以上残念がることもなくなまえは足を早めた。さっさと家に帰りたい。家に帰ったら掃除して、洗濯をして。適当に冷蔵庫の中身を整理して胃袋を埋めるのだ。いつもと同じ生活。いつもと変わらない毎日。唯一つ違うのは、この五年間続いていた彼が消えたことだけだ。目の前に見慣れたマンションが見えてくる。住宅街の端にある一番古びたマンションだが、それでも使い心地はいい。場所は2LDKの三階の奥部屋。隣は空き部屋で気を使う必要もない。なまえはボタンが磨り減ったエレベーターに乗って、部屋の鍵を鞄から取り出す。それを家のドアノブに差し込んだところで、違和感に気が付いた。
おかしい。鍵が開いている。

もしかして、閉め忘れた?余りの無用心さが信じられない。仕方なくもう一度鍵を回して鍵を開けると、反対側から扉を開けられた。

「おかえり」
「・・・は?」

開いたのは内側から。もちろん自分は開けていない。扉を開けた張本人は嫌でも顔をよく知っている男だった。目の前には相変わらずの黒髪に整った顔立ちの幼馴染。正直今一番会いたくなかった部類に入る男だ。

「・・・・・・なんでいんの」

ようやく絞り出した言葉が宙に浮く。しかし男は、不思議そうに首を傾げた。

「何でって・・・今日からルームシェアする約束、忘れたのかい?」
「ルームシェア?」

なんのことだと問い返そうとしたが、その言葉は喉まで来て止まった。そういえばこの間。めったに電話などしてこない母からの電話があったのを思い出した。

「どうしたの、急に」
「あのねえなまえちゃん。あんたココくんって覚えてる?」
「・・・覚えてるけど」

というより、忘れるはずが無い。あの毒舌イケメン性質悪男。それ以前に幼馴染の顔を忘れるほど頭も夏バテしていない。なまえの反応に気をよくしたのか、電話口で母は軽い口調で続けた。

「それでねえ、アンタの部屋、一個余ってたでしょ。文献だかなんだかの部屋にするからって物置にして。この不景気に娘一人2LDKは私も色々思うところがあってねえ」
「・・・何が言いたいの」

勿体ぶった口調は昔からの母の癖だ。どうせ今頃、電話のコードを指に絡ませてにやけているに違いない。なまえが苛立ちを隠さずに言うと、流石と言うべきか何なのか。母は勢いよく話を切り出した。

「だからね、ココくん、アンタんちに住まわせることにしたから」
「・・・は?」

しれっとした態度で言われた言葉が上手く飲み込めない。今なんて言った?住まわせる?誰を?ココを?は?

「なまえ。全部漏れてるわよー」
「・・・どういうこと」

どうやら全部口に出ていたらしい。どんだけ動揺してるんだ自分。なまえは口を押さえながら、話の続きを促した。電話先で母は笑いながら続ける。

「だーからねー。ココくんがあんたんとこの大学院に進むって言うから。じゃあウチに住んじゃなさいよ、どうせ一人暮らしだからってことで話がまとまったの」
「まとまった!?ちょっと待ってお母さん、なんでそんな自分ちみたいな感じで話まとめてんの!」
「あらー、だって家賃もまだ私が仕送りしてんだしー?私が選択権持ってたっておかしくないと思うんだけどなー」
「それにしたって私にも知る権利ってもんが」
「ない!」
「コラ!」

つい語調が荒くなる。まったくこの母親ときたら、この飄々とした性格はいったいいつになったら衰えをみせるのか。表情は見えないというのに、頭の中に笑顔で言い切った母の顔が浮かんで消えた。

「じゃあそういうことだから、あんた一つ部屋開けときなさいねー!じゃねー!」
「あ!ちょ・・・っ!」



ということがあった気がする。

完っ全に忘れてた・・・。
なまえは額に手をやり滲んできた汗を拭う。嫌だなそうだ、ああなった母は止められないから、無理やり一部屋開けて文献やら何やらを自室に押し込んだんだっけ。だが引っ越し日が今日というのは本当に聞いていなかった。
てっきりもっと先の話かと思ってたんだけど・・・。
なまえは遠慮することもなく盛大にため息をついた。

「思い出した?」
「・・・おかげさまで」

とりあえず上がれば?とココに促されたのもあって、なまえはようやく玄関からリビングへと移った。誰の家だと思ってるんだとも思ったが、これからルームシェアするというのだから仕方が無い。黙って言葉を飲み込んだ。

「おばさんから引越しソバもらったんだけど、食べるかい?」

おばさんというのは私の母のことだ。なんだか、ココがいうとただのマダムキラーにしか聞こえない。ココの立ち振る舞いはとにかく優雅だ。無駄に品があると言っていい。今も台所に立つまでの所作だけで育ちのよさが垣間見えた。

「いらない。それよりお酒がいい。シンクの下の戸棚にあるから」

鞄を床に投げ捨てて、携帯だけを手にソファに座る。戸棚にはいつか飲もうと思っていた、とっておきの酒が眠っていたはずだ。こんな日に開けるとは思ってもみなかったが。

「えらく豪勢だね」
「いいから早く酒出して」
「はいはい」

台所にいたココが引き出しを開けたのを確認してから、ストッキングを脱ぎ捨てた。はあ、爽快感。脱いだストッキングは丸めて洗濯機に放りこんでから、ソファの上で生足を擦る。少し足がむくんでいる気がする。ぐにぐにと血行を促すようにもんでいると、お盆にコップと酒、そして氷を用意したココがリビングに現れた。

「そういうのはもう少し気にしたらどうだい?」
「見てんなよ変態」

見る本人が気にしていないのだから問題ないだろう。ココはこんな姿見慣れているはずだ。伊達に長年幼馴染やっていたわけではない。ついこの間まで、同じ高校に通っていたのだから。
ココとは生まれた時から同じ病院で、気づけばずっと同じ道を歩んできたことになる。ようやく大学で別々の道をいくことになったが、どうやら大学院でなまえが通っていた大学にくることになったらしい。ここまで来ると圧巻だ。幼馴染とはいえこのシンクロ率はない。

「僕は別に気にしないが、恋人にもそういう態度なのは感心しないよ。女性らしさが足りないんじゃないかい?」
「この毒男」
「なまえ、口に出てる」
「今のは出したんだよバカ」

タイミングが悪過ぎる。今そういうことを言ってほしくない時だ。ココが作った酒のグラスを奪って、思い切りあおった。喉からアルコールが流れていく。空っぽの胃に入ったそれは体内を燃やすように熱くして、ああ荒れるなと頭の隅で思った。

「やけに荒れてるね」
「おかげさまで」

一緒に持ってきていたおつまみからするめを選んで口にする。とりあえず何か胃に入れておかないと本格的に荒れる気がしたからだ。噛み締めたするめからは旨味と後悔の味がした。彼と駄目になったことが思い出される。すっぱり忘れようと思っていたのに。

「彼氏と喧嘩でもしたかい?」
「・・・・・・」

この男という奴は。はらわたが煮えくり返りそうだ。なまえは沸々と湧き上がる感情をするめと一緒に飲み込んだ。全部全部、胃の中で消化してしまえばいい。

「・・・別れたよ」
「・・・それは、また」

罪悪感を押し付けるように睨み付けると、ココは目を丸くして押し黙った。こんな風に相手を黙らせるのはずるいと分かっていても、今はせずにいられない。どうやら、帰り道であっさり割り切ったはずの感情が、まだ残っていたらしい。酒で押し込んでも、まだ喉の辺りに引っかかっていた。

「今回は続いていたように見えたけど・・・残念だったね」
「うるさい、もう黙って」

ココの優しさを受け入れられない。今回は。違う今回も、だ。
なまえって、男運ないよね。
耳の中にあの言葉が蘇る。違う男運がないんじゃない。私が悪いんだ。なまえはソファの上で膝を抱え、丸くなった。抱き寄せた膝の上に額を乗せて体を抱きしめる。
恋愛がないと生きていけない人のことを、恋愛体質と呼ぶらしい。おそらく私は昔からそれだった。誰かが傍にいないと生きていけない。その癖近づきすぎると耐えられなくなって別れたくなる。我ながら、面倒くさい性格だ。
カラン、と氷の溶ける音がした。多分、ココがグラスを持ち上げたのだろう。

「黙ってと言われてもね」

小さな呟きが聞こえた。ほんの少しだけ顔を上げれば、ココの黒い瞳がグラスに反射して光る。床に座るココの身長はいつもより少し低く見えた。

「・・・うん。僕も少し、動揺してるみたいだ」

酒を口に動作さえ、美しく見える。一体どのようにできているのか、この男は人間じゃないんじゃないかとか、どうでもいいことを考えた。少し酔っているのかもしれない。そうじゃないと、絶対思ったりしない。酒に濡れた唇が、すごい綺麗に見えた、とか、そんなの。

「ねえ」
「・・・なに」

ココの大きな手がなまえの髪に触れた。別れた彼とは違う、大きくて包み込むような手。

「これはやっと、僕にもチャンスが回ってきたってことでいいんだよね」
「・・・・・・・・・・・・は?」

頭の上で囁かれた、不可解な言葉に思わず顔を上げた。すると目の前では美男子がとても柔らかく微笑んでいる。なにそれ、どういうこと。




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