「いらっしゃいませ」

 にっこりと笑うその店員の姿を視界にとらえた瞬間に時が止まったかと思った。もはや巻き戻してほしいとすら思った。私は思わず笑顔をひきつらせたけれど、店員は一切動揺をみせない。さすがだ。腹の中で何を考えているのかまったくわからないのがこわいところだが。

 店員さんはにっこりと笑うと私たちを席に案内する。私はやっと冷静を取り戻してきたけれど、それでも目を合わせるのは難しい。あの人に見られていると思うと、緊張するどころの騒ぎではない。

 先輩はそんな私をよそにメニューを開いて、どれにする〜? とか聞いてくる。正直あんまり余裕のない私は一番最初に目に入ってきたサンドイッチを頼むことにした。先輩はフルーツサンドとかいうちょっとおしゃれっぽいのにするらしい。通っぽい。

 すぐに注文しようと店員さんとアイコンタクトを取ろうとした先輩だったけれど、店員さんはそれよりも先にお決まりですかと声をかけてきたのだからさすがだ。よく周りが見えている。店員さんは常に笑顔を絶やさずに注文を聞くと、私たちの前から去っていった。私はその後ろ姿をしばらく眺めてから、視線を戻す。

 「ね、イケメンでしょ?」

 にやにやしながら先輩はそう言った。私はそうですねと答えるしかなかった。確かにあの人は顔立ちは整っていると思うし、優しげな笑みを浮かべているし、イケメンだと思った。

 「安室さんっていうのよ。彼、接客だけじゃなくて調理もしてるんだけど、サンドイッチ系は本当におすすめだから、楽しみにしてて」

 「へえ。それは楽しみです」

 安室さん、安室さん。と何度かつい脳内で名前を繰り返してしまう。思わぬところで上司の偽名を知ってしまったし、完璧人間だと思っていた人が料理までできるとは恐れおののいた。できないことないんじゃないだろうか。というかそれよりもなによりも――。

 ちらっとその安室さんのことを覗き見る。しっかりと目が合ってしまったが、向こうは一切変な表情を見せずに笑顔で返してくる。

 ――それよりも、なんですかあの笑顔製造機。降谷さん、そんな笑顔作れたんですかと大声で問いただしたい気持ちでいっぱいだった。


**


 降谷さんの職場であるらしいポアロという喫茶店に行くことになってしまったのは偶然だった。

 公安に所属している私だけれど、公安では基本的に誰がどの現場に潜入しているかという情報は共有しない。とくに降谷さんはなにをしているのかまったくわからない。噂によるとやばい組織に潜入しているらしいけれど、それも正しいのかよくわからない。ただたまに見かけるときは眉間にしわを寄せながら疲れた顔をしているから、おそらく完璧人間降谷さんでも大変な捜査なのだろう。よくわからないけど。

 降谷さんの潜入はかなり難解で長期らしい一方で、私の潜入調査はそこまで大変ではないと思う。少なくとも命の危険はおそらくない。ある大手企業に不穏な動きがあるらしいから中から探るというもので、その企業に入社し内部調査を行い始めてからかれこれ数か月が経とうとしている。ちなみに降谷さんは一応私の上司にあたるので私の仕事内容は把握しているし、アドバイスという名の小言を何度もくれたりした。正直細かいし鬼かと思うし、泣きかけたこと――もはや泣いていた――が幾度となくあるのは降谷さんの部下ならばみんな分かってくれると思う。あの人は鬼上司だ。

 そんな私がなぜポアロに来たかというと、潜入先で5つ年上の女性社員と仲良くなり一緒に出掛けるような仲になったのだが、その女性社員――先輩が、最近は地元の喫茶店みたいなこじんまりとした喫茶店巡りにはまったらしく、しかもある時超イケメンの店員さんに巡り会ったというのだ。ぜひ、名前ちゃんに見せたいのと言われれば断れるわけもなかった。ちなみに先輩は平社員だし、いま彼氏も不倫相手もいないし、私の本来の目的である内部調査とはなんら関わりがない。つまりほぼプライベートみたいなものだ。先輩は私が公安の人間だとはもちろん知らないのだけれど。


 ポアロにはほとんどお客さんがいなかった。常連客のような人は何人かいたけれどその人たちも食事を済ませるとすぐに帰ってしまったし、気が付けば店内には私と先輩だけだ。

 ちらりと降谷さんに目をやれば手際よく調理をしている姿が見えた。ポアロに来てしまったのは不可抗力だとはいえ、あとで何を言われるかわかったもんじゃない。……と思いつつも、あんなにっこにこな降谷さん初めて見たし正直めちゃくちゃ面白い。いつも眉間にしわばかり寄せているから、顔は整っているくせに女の人が寄ってこないのだ。もっと笑った方がいいですと助言したこともあったが、うるさいと一蹴されたのは記憶に新しい。

 「ねえ、名前ちゃーん」

 「はいっ?」

 降谷さんの観察に意識を割きすぎて先輩のことをすっかり頭から忘れていた。申し訳ない。私は急いで先輩に視線を戻したけれど先輩は意味深な顔で笑っていた。それもとっても楽しそうだ。

 「さっきからずぅーっと安室さんのこと見てるけど気に入ったの? 一目ぼれした?」

 うっ、と言葉につまる。いや、そんなんじゃとか、もごもごと否定の言葉を口にするけれど先輩には一切届いておらず、こちらを窺うような表情は変わらない。私はどう否定したらよいのか図りかねていた。

 「安室さん名前ちゃんよりちょっと年上くらいなのよ。実は私、名前ちゃんと安室さんお似合いなんじゃないかと思ってるんだけど、どう?」

 「いや、ないですねえ。というか正直いい歳こいて喫茶店でアルバイトしているような男は恋愛対象にすら入りませんね」

 「そうですか。それは残念だ」

 頭上から聞こえてきたその声に、私は思わず小さく悲鳴をあげそうになった。つい反射的にばっさりと否定してしまったけれど、まさか降谷さんがこんなにタイミングよくあらわれるなんてお腹がいたい。しかも降谷さんは笑顔だ。笑顔でサンドイッチを机の上においた。笑顔だけど目が怖い。先輩に向ける目線は優しげなのに、私に対してはひどく冷たい。

 「安室さんはどうです? この子、もうずっと彼氏いないんですよー?」

 「そうなんですね。とっても素敵だと思います。見る目がない男があまりに多いようだ」

 あまりにも胡散臭い笑顔だ。先輩は目を輝かせながら私の方を見ているけれど、私にはわかる。この表情ははやく帰れの合図だ。それを理解するとなんだかムカついてきて、とにかくなにか嫌味の一つでもと口を開く。

 「いや、あの。私はちょっとこういう人は……。なによりとても顔が整っていらっしゃるので、よそに女を作られそうで。女癖悪そうな人は無理です」

 「ホォー。名前さんにはそう見えるんですね」

 正直、言った瞬間に後悔しました。降谷さんの拳がぎゅっと強く握られたように見えたのはおそらく見間違いではないはずだ。


 それからは、いかにはやくポアロを出られるかというタイムトライアルだった。急いでサンドイッチを食べてショッピングに行きたいなどと先輩を急かしてお店を出た。見送りに出てきた降谷さんの表情はきっと一生忘れられないだろう。これから誰か殺しに行くみたいな表情だった。めちゃくちゃこわい。サンドイッチおいしかったです。


 ポアロを出てしばらくするとメールの受信を知らせるバイブが鳴る。送り主は鬼上司。ちなみにこの名前は誰に見られてもいいように設定してあるだけで悪意はない。本当に。
恐る恐るメールをひらく。

 『覚えてろ』

 たったその4文字が目に入った瞬間私は死を覚悟した。





(Oops!)



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