「マスター! おかわり!」
薄暗いバー。店内はさほど混みあっておらず何人か姿はあるもののカウンター席に座っているのは私だけ。ここは仕事終わりによく来るバーでここのマスターとも数年来の知り合いということになるけれど、私がこんな姿を見せるのはいつぶりだろう。
「名前さん、飲みすぎはよくありませんよ」
マスターはそう言いながら私に先ほどよりも度数の弱いカクテルを差し出す。私はふてくされたような顔をしながらもそれを口に含む。マスターの作るお酒は確かにおいしいのに私の心は一向に晴れることはなかった。
それもそうだ。なんたって、今日は仕事で失敗したも同義なのだから。
フリーの暗殺業者である私は仕事は選びつつもそれなりの成功率、それなりの地位を固めているそこそこの暗殺者なのだが、今日はたまたまゾルディックのお坊ちゃまとブッキングし、たまたま奴に獲物を取られてしまったのだ。結果的にはターゲットを死に追いやったのだから問題はないのだけれど、それでもやっぱりイライラするのはアイツのあの能面顔。
アイツはあの能面顔で「名前、腕落ちた?」とか聞いてくるからムカつく。
……だめだ。全くイライラが収まらない。
私は手元のカクテルをぐいっと一気に煽った。
「お嬢さん、となりいいかな?」
ふと、右隣から声をかけられる。私はカクテルからゆっくりとそちらに目を移すがそこにいたのは見たことのない青年であった。
正直女一人で飲んでいればこういうことも少なくない。私は返事をする代わりにうっすらと笑みを浮かべながら彼を見る。お隣、どうぞ? なんて意図はしっかりと伝わったようだ。私より少し年上そうに見える整った顔立ちの青年は私の隣に腰を下ろした。
「ここ、よく来るの?」
「たまに。マスターのお酒で癒されたいときにね」
「へえ。俺ここには結構来るんだけど初めて会ったな。君、名前は?」
「名前。あなたは?」
「クロロ。……癒されに来たって、なにか嫌なことでもあったの?」
「ちょっとね。仕事で、なんていうか、うーん、企画を横取りされちゃった的な? しかもソイツ横取りしたって言うのに平気な顔でそれがまたムカついちゃって、」
なんでこんなこと話してるんだろうってくらい今日の自分は話したがりだった。本当はマスターに聞いてもらおうって思っていたはずなのに気が付けば目の前の初対面の男にベラベラと話してしまっていた。吸い込まれるような黒い瞳に私は目が離せなかった。最初はムカつく無表情能面とおそろいのその瞳に嫌悪感を抱いていたはずなのに、気が付けば虜になる。目が逸らせない。そんな感情を隠すように酒を煽る。それが間違いだったと気づいたのは翌日になってからだ。
**
目を覚ましたときに飛び込んできた景色はいつもとは全く違った。少なくとも私の部屋ではなかった。というかここはホテル。ホテルに違いない。なぜ、と思うよりも先に隣に肌のぬくもりを感じる。嫌な予感は総じて的中するものだ。私がそっと顔を覗いた先に見えたのは昨日バーで会ったあの青年だったのだ。
「ま、じか」
やってしまったと思った。一瞬未遂かとも思ったけどそんなことない。私の体に数か所できている赤い痣は間違いなく昨日はなかったもので、ほぼ間違いなく彼が付けたものだろう。やってしまった。私は静かにベッドから抜け出してすぐそばに散らされていた服をかき集める。なんとなく体が気怠いのはたぶん気のせいじゃないけれどそれどころじゃない。私はさっさと退散して、なかったことにすることを決意した。
最後にと、そう思いながらもう一度男の顔を盗み見る。昨日のバーで会った男には間違いないが、どこかで顔を見たことがあるような気がした。お互い初対面だと思いながら会話をしていたけれど、もしかしたら初対面ではなかったのかもしれない。それは、なおまずい。
私はなるべく物音を立てないようにしながらドアを開ける。さようなら。そうつぶやいた言葉は小さすぎてきっと、彼には届いていないだろうけど――。
**
「バカイルミ、バカバカバカ! アンタのせいだからね!」
「なんで? 俺のおかげで性欲処、」
バカ! 私は無表情で話すイルミの口を急いで塞いだ。塞いだ瞬間の殺気はひどかったものの、針が飛んでこなかっただけマシだと思いたい。私は周囲をちらっと確認してから手を離す。イルミの表情は相変わらずよくわからなかったけれど、たぶんちょっとだけ不機嫌だ。
「俺、名前がどこで誰と何しようが本当に興味ないんだけど」
「私だって赤裸々に話す趣味はないんだけど、ないんだけどね。その人すごく見覚えあってさ。なんだっけ、名前忘れちゃったけどすごくイケメン。イルミの知り合い、っていうか取引相手でいない?」
そう。まだはっきりと思いだしたわけではないが確かに彼とは会ったことがある気がしたのだ。それもこの男の紹介で。
おそらくもう二度と彼と会うことはないだろうけれど、私は彼に興味を持っていた。好きとかそういう恋愛感情を持っているのではなく、どこの誰なのか素性が知りたくなったのだ。
思えば彼はうまく隠していたようだけれどもイルミと同じようなにおいがしたし、オーラだって思わず笑みがこぼれるような洗練されたものだった。私のこの好奇心はいつだっていいことばかりではないことは知っていたけれど、それでも知りたいという欲の方が強かったのだ。
「俺の知り合い? 誰だろう、浮かばないな。……ヒソカ?」
「あんな変態奇術野郎と関わる趣味はない! ……ちがくて、えっと黒髪黒目で額に白い布巻いてたかな。あとオーラがすっごくえぐい」
そう言った瞬間にイルミは思い当たる人物でもいたのか動きを止める。
相変わらず表情は全く動きを見せないものの、イルミは恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……まさか、クロロ?」
「あ、そう! そんな感じの名前! 何してる人だっけ? 昔その人の依頼、手伝ったことあったよね?」
「確かに昔って言うか半年前だけど手伝ってもらったことあったね。ていうかクロロ、幻影旅団の頭だけど、大丈夫?」
「全然大丈夫じゃない」
反射的にそう答えた。確かにイルミに優らずとも劣らないオーラをまとっていたけれども、まさかそんな大物だったとは思いもしなかった。背中に一筋の汗が流れるのがわかる。正直仕事でも嫌なのに、プライベートもそんな危険人物と関わりを持ってしまった事実が重くのしかかる。しばらく隠居したほうがいいんじゃないだろうか。
「そうは言われてもね、今日の依頼人、」
私はイルミの言葉に耳を傾ける。イルミにしては珍しく名前を告げるのを一瞬だけ躊躇したようだ。私の後ろではカランという鈴の軽い音を立てながら、扉が開いた。誰かお客さんが入ってきたようだ。
「クロロなんだけど」
「は?」
「久しぶりだな」
聞き覚えのある――というか、つい数時間前まで聞いていたその声は私の後ろから降ってきた。誰の声かは、振り向かなくてもわかったけれど彼はゆっくりと私の後ろから、イルミの前に移動して私の視界に入っていく。昨日とは違って黒い髪は後ろに撫でつけられていたし、スーツではなくて黒いコートを身にまとっていたけれど、目の前にいるのは確かに昨晩をともに過ごした相手だった。
「や、クロロ。紹介するよ。ま、もう知ってると思うけどこちらフリーで暗殺やってる名前。前にも仕事したことあるけど、腕は確かだから」
「ああ、知っているさ、名前。まさか今朝は逃げられるとは思っていなかった。本当に腕がいいんだな」
すっと細められたクロロの瞳に殺意は感じられなかったけれどそれでも、私は笑いかけることもできずに身を固めるしかなかった。そんな私とは反対にクロロはどこか楽しそうにしながら顔を私の耳元に近づける。
そして私にだけ聞こえるようにこう言ったのだ。「次は逃がさない」と。
尤も、すでに逃げる勇気はなかったのだけれど。
.
back