※ちょっと暗いので注意です




 彼と私がなんでもない関係になったのは随分と昔の話だ。

 大学の同級生だった彼と私が付き合い始めたきっかけは、いったい何だっただろう。彼がしてくれたことも、吐いた甘い言葉も、確かに鮮明に覚えているけれども私は、就職してすぐに彼が寂しそうに、何かをあきらめたように言った「俺が別れてと言ったら、何も聞かずに別れてくれ」という言葉を一番色濃く記憶していた。彼が実際にその言葉を使ったのは、それからすぐのことだった。

 彼と別れたからって、変わることはほとんどなかった。相変わらず仕事は残業ばっかりだし、休日は映画を見たり素敵なカフェを見つけてみたり。何も変わらない。ちょっと、心に隙間ができただけ。
 行きつけのお店は変わらないし、仕事もやめたりしないし、引っ越しなんてもちろんしない。問題は彼と生活圏が似たり寄ったりなところだけだったけれど、出くわすこともさほど多くなかった。たまに出くわしてしまったときの、彼の一度視線を合わせてから気まずそうに、何もなかったように、知らない人のようにそらす仕草から彼が私と遭遇しないように気を張っているのは感づいていたけれど、それでもよかった。彼の隣にきれいな女の人がいようと、別によかった。

 出会いと別れなんて、世間一般的に考えればどうしようもなく、ありきたりな話だ。出会いがあれば別れもあることは至って当然のことで、私は彼との別れはなんとなく想定内のことだったから、きっとダメージも少なかったはずだ。
 ただ、あまりにもきれいな終わり方をしてしまった。大嫌いになれればよかった。どうせなら手酷く振ってくれればよかった。好きな人ができたとか、出世に邪魔だとか。頭のいい彼ならそういう冷酷さを、微塵の違和感もなく演出できたはずなのに、それをしなかったのは彼の優しさなのかもしれない。

 だけど、そのやさしさは私を苦しめてやまない。

 彼と別れてから初めて付き合った人は、優しい人だった。もう何年も、表面上には出さなくても彼のことを引きずり続けていた私を優しくつつみこんで上を向かせてくれる人だった。
 忘れられると思った。忘れなければいけないと思った。彼がしてくれたことを他の人で上書きしていくことで、少しづつ忘れていけると思ったのに――。

 ひとつひとつの思い出がフラッシュバックする。些細な仕草も、彼と重ねてしまう。気が付けば人混みで彼の後ろ姿を探している自分がいる。最低だった。私はたしかにその人のことが好きだったと思うけれどたぶん、私は一生彼のことが忘れられないのだと悟った。

 きっとどこか遠くに行ってしまえばよかったんだと思う。なんて、ただの言い訳でしかないけれど、彼との思い出が詰まったこの町で、彼を思い出さないなんてことができるわけがなかった。

 いっそ、目の前から消えてくれればよかったのに。
 この町で。別れてから数えられるほどしかすれ違ったことがないのに、すれ違うたびに思い出す。すれ違うたびに、思いがあふれる。どうしようもない。どうしようも、ない。


 「なに、してるの」

 振り絞るように言ったそれは確かに彼に届いたようだった。私は目の前の光景が信じられなくて、何も言葉を発さない彼の名前をつい、呼んだ。

 零。

 5年ぶりに呼んだ名前はひどく懐かしいはずなのに、ひどくなじんだ。零は名前を呼ばれたところでこの状況を認識したのか、ドアノブから手を離した。そしてこちらに顔を向けた時にはすっかり張り付いたような笑顔を浮かべていた。

 「久しぶり、名前。……また、間違えたみたいだ」

 そう言った零からはほんのりアルコールの匂いがした。よく見れば少し顔が赤い気もする。浴びるように飲んでも、いつだって酔っているところなんて見たことがなかったのに、いったいどれだけ飲んだというのだろう。私は掛ける言葉を探して、でも出てこなくて。零はそんな様子を見て、困ったように笑っていた。

 「プロポーズ」

 はっとして顔をあげた。零としっかり目が合ったのは、今日ははじめてだった。
 されたんだってな――と、零は言葉をつづける。

 心の中にいる人のことを、忘れなくたっていいからこれから先の時間をくださいと、優しいあの人に言われたのはつい数日前のことで、私はまだほとんど誰にもその事実を告げてはいなかった。
 なんで知ってるの、とか、零には関係ない、とか。言いたいことはたくさんあるのに何も言葉にできない。何を言葉にすればいいかわからなかった。

 「幸せになれよ」

 彼は確かにそういうと、私の肩をぽんと一度たたいて私の部屋の前から去っていった。


 ばかだ、ばかだ。ばかだ!

 幸せになんてなれるわけがなかった。なんでこのタイミングで出てきて、なんで祝福して。なんで、なんで、……なんでなの。

 5年も前に別れた彼女の家に「間違えて」来てしまったなんて、言い訳としてナンセンスだし、彼らしくない。しかも「また」なんて言葉をついこぼして。滅多に赤く染まらないその顔をアルコールでほのかに染めて、「幸せになれ」だなんて言う。
 零はずるい。このまま幸せになんてなれるわけがない。

 私はきっと一生、幸せになることができない。




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