背もたれと接した部分が、汗で滲むのがわかる。服部は自らに向けられた視線に、どう対応するべきか困っていた。

 「服部くん、」

 重苦しい空気を壊したのは近藤だった。会議室に緊張が走る。

 「君はあの場で何をしていた?」

 その言葉で、芦田の作ったワクチンの効かないウイルスが登場したらしいことが思い出される。服部は亡くなった男性と、芦田のことを脳裏に浮かべて、顔を歪ませた。

 「もう一度聞こう。何をしていた」

 急かすように発せられた近藤の言葉に、服部は重々しい口を開いた。

 「メインコンピューターにワクチンを打ち込ませたので、その効力を確認できたらと」

 服部は近藤から目をそらすことをせずにそう告げた。

 「成程」

 近藤は服部の言葉に、少し視線をそらして考え込むような顔をした。そして、顔を再びこちらに向けたときには、服部を威嚇するような目をしていた。

 「ではあの少年は犯人の有力候補というわけだな」
 「近藤さん!」

 衝動的に声を荒げる。服部がこんな風に大きな声を発するのはほとんどないことだ。だからか視界の端で局員の肩が揺れるのがわかった。

 会議室には、一瞬の沈黙が流れた。
 最も服部と近藤以外の局員は、最初から気まずげに目を伏せているだけだったので、それが近藤の一瞬の怯みを際立たせる。

 「では、なにかね。君はあの、いかにも怪しい男を信じるのか?」

 信じているのか、否か。
 服部はただ、漠然と芦田を信じたいと思っていた。そしてそれが感情論であることも、わかっていた。だから唇を噛み締めた。口の中にはほのかに血の味が広がって、さらに嫌な気分になる。

 近藤は何も言わずに少し俯いた服部を見て、顔を歪ませた。

 「服部くん。私はね、君も怪しいと思っているのだよ」

 ――なっ!

 驚いて立ち上がりそうになった服部の左腕が、三笠木によって握られる。そのおかげで服部は、苛立ちながらも再び椅子に腰を下ろした。

 「これ以上疑われたくないなら、あまり目立った行動を起こさないことだ」

 不適に笑った近藤は、果たして本当に自分の上司だったのか。服部はこれ以上何か言われたら近藤に殴りかかってしまいそうで、ぐっと拳を握った。


**


 支部長室に戻って、愛用するソファに座った。ソファはしっかりと服部を受け止めてくれる。服部は腰かけた瞬間に先ほどまでの緊張がとけたのか、足に力が入らないようで完全に体重を預けていた。

 ゆっくりと目をつぶるとやはり脳裏に浮かぶのはあの会議の光景。もちろん自分は犯人ではないし、おそらく芦田も違う。もし芦田が犯人だったとするならば前原を助けるわけがないし、WCCに乗り込んでくるわけがないのだ。だが。――だが、客観的に見れば確かに服部も芦田も、犯人だと疑われても仕方がないのかもしれないと、冷めてきた頭でそう考える。感情的に近藤に殴り掛かりそうになったけれど、本当にしなくてよかったと思う一方で、近藤に疑われていること、そして疑われるような行動をとったことへの悔しさがこみ上げて思わずぎゅっと手を握りしめた。

 そこで服部は携帯電話を手にしていたことを思い出して、ゆっくりとそれを開いた。
 リダイヤルの一番上にはこの数分で何度も上書きされた、芦田の名前。服部は芦田の名前を押してから、もう一度携帯を耳に当ててみるが、留守番電話サービスに繋がるだけだった。

 ――芦田くん……。

 服部は開いたままの携帯を握りしめながら、ずり落ちるように手を下ろした。脳裏に浮かんだのは、芦田の自嘲したような顔で、あの時何も言ってやれなかった自分が悔やまれた。服部は、芦田に責任を負わせ過ぎていたのかもしれない。信頼しているかどうか、そんな問題ではなかった。服部はすでに、芦田に依存していた。

 コンコン。

 そんな音がして、ドアが開かれる。服部は返事をした覚えはなかったが、この容赦のないドアの開け方には覚えがあった。

 「三笠木、どうした」
 「あら、わかったの?」

 ドアの方に目もくれずに言うと、三笠木は少しだけ驚いたような声を出した。

 「そんな容赦なくドア開けるやつなんて、お前くらいしかいないよ」

 苦笑いをして、やっと三笠木の方を向くと、三笠木は紅茶を持っていて、それをコトリという音をたてながら、ソファの前にある机の上に置いた。

 ――珍しいな。

 服部はそんな風に思って、紅茶にやっていた視線を三笠木に移した。三笠木は自分の分も持ってきていたようで、それを手にとって口に含む。

 「服部、紅茶は飲んだこと、あるの?」
 「片手で足りる程度しか、飲んだことないけどな」

 そう言いながら、机に置かれたカップを手にする。入れたての温かさは服部を火傷させんとするようだったが、それでも服部はその温かさに癒された。

 「そう。まあ食べなくても大丈夫だったら、そうなるわね」

 三笠木は苦笑しながらカップを両手で握って、その温かさを噛み締めているようだった。

 「……おいしいな」

 喉を通って、全身を温かくするそれに、つまりは三笠木に、服部は元気付けてもらっているような気分になる。

 「ハーブティーって言うのよ、これ。これで少しは落ち着きなさい」
 「……ああ」

 頭の中は疑問だらけで、何も解決していない上に、服部も芦田も疑われているという事実が、自身にのし掛かる。それは自分ひとりでは重たすぎて、どうすることもできない。

 「新型ウイルスだとか、近藤さんのこととか。大変だと思うけど、私はね、本気で近藤さんが服部のことを疑ってるんじゃないと思うのよ」

 不意に立ち上がった三笠木のスカートが揺れた。服部は三笠木の動きを追いかけるようにして眺めていた。

 「まあ頑張りなさい、支部長さん」

 そんな言葉を残して、三笠木は支部長室を後にした。

 一人残された服部は、心がふっと軽くなっているのを感じた。ハーブティーのおかげなのか。それとも、三笠木のおかげなのか。

 ――つまるところ、三笠木のおかげなんだけどな。

 服部はカップの中に残されていた紅茶にゆっくりと口をつける。口の中に広がるこの味は確かに服部の心を癒していた。

 ひとりではどうにもできない問題ばかりだ。服部というひとりの人間は、この大きな問題を前にすればあまりにも無力だった。だからこそ不安と焦燥と、疑念につぶされそうになった。だけど、ひとりで立ち向かう必要はないのだ。誰かの手を借りたかったら借りればいい。手を差し伸べてくれる人はそこにしっかりいたのだと、服部は漸く気が付いた。
ふうと小さく息を吐くと服部は手にしていたカップを机の上に置いて、その代わりに携帯を手にした。そしてもう一度、リダイアル画面を開いて、決定ボタンを押した。


**


 ズボンのポケットで、バイブが鳴る。それを鬱陶しく思うも、携帯の電源を切ることができないのは、結局のところ人との繋がりを絶つのが怖いからなのか。そんな自分に芦田は呆れて笑さえこみあげてくるようだった。

 やっとバイブ音がしなくなったところで、芦田は目の前の建物を見上げる。芦田の地元からは少し離れた場所にある総合病院。設備も揃っていて、評判もよいというこの病院。芦田が見上げた先にある病室が、菅野の入院している部屋らしかった。


 先日倒れた菅野は、設備面での不安点があったからか、この病院に移された。そして菅野の母親は、わざわざ芦田に菅野の病室を教えてくれていた。だが。

 ――すべてが終わるまで、菅野には会えない。

 そう思うのに、少しでも様子が見たいと思ってしまうのは芦田の弱さなのだろうか。その弱さと、先程の決意とが葛藤を始めたせいで、芦田は病院の前に立ったは良いものの、そこから動くことができずにいた。

 ――俺は、おごってたのかな。

 目の前で一人の命が失われた。その事実がどうしようもなく重かった。芦田はもしかしたら自分の力を過信していたのかもしれない。菅野と前原を助けることで自分のこのワクチンは、完璧だと勝手に思っていた。

 「あの人を助けることさえ、できなかったのにな」

 芦田は自嘲するように笑った。照りつける太陽が、芦田が隠れることも許してくれない。芦田の特徴的なその髪は、今日はフードによって隠されることはなかった。あのパーカーを着ると思い出してしまいそうで怖かったのだ。あの、一連の苦いできることならしまい込んでおきたい記憶を。


 「あら、芦田くん?」

 唐突に背後から聞こえたその声に、芦田は振り返る。

 「あ……お久しぶりです」

 芦田に菅野の病室を告げたのと全く同じ声をしたその人は、やはり菅野の母親だった。

 「あの子のお見舞いに来てくれたのよね。実はね、もう目は覚めてるの」

 菅野の母親は嬉しそうに微笑んだが、芦田は初めて聞く事実に内心驚きつつも、それを悟られないようにしていた。

 「何突っ立てるの?ほら、芦田くんも」

 そう言って強引に芦田の手を引いて、芦田を病院の中へと連れていった。

 ――会う気はなかったのに……。

 そうは思っても、芦田には菅野の母親の手を振り切って、立ち入ってしまった病院から出ていくような勇気はなかった。

 「あの子も喜ぶわ」

 なんて芦田を見ながら笑った菅野の母親は、菅野にそっくりだった。菅野もこうして目じりを下げて、優しげに笑う。そんな情景がひどくなつかしい。


 階段を上がって、角を曲がって。教えてもらった病室までの道のりは、思ったよりもずっと長く、重苦しいものだった。菅野の母親に引き連れられているから逃げられない。けれど足は重たく、病室に向かうのを拒否しているようだった。

 「入るわよ?」

 それでも菅野の母親は、容赦も遠慮もなしに芦田を病室に入れる。芦田は覚悟を決めて、伏せていた顔をあげてみせた。

 「あー母さん……と、芦田?」

 芦田の姿を見て、驚いた顔をした菅野だったが、すぐに表情を戻した。

 「久しぶり」

 無理矢理に口角をあげて、菅野に笑いかけるが、その顔を見てか、菅野は怪訝そうな顔をした。だけど芦田はそんな「無理矢理」に作った表情以外に浮かべるすべがなかった。

 「うん、久しぶり」

 菅野はいつもと同じような調子でそう言ったが、正直芦田に菅野をまともに見るような度胸は備わっていなかった。こわかったのだ。菅野のことをまともに見るのが。己の業と、向き合うのが。

 「お母さん、少し飲み物買ってくるわね」

 菅野の母親は手に持っていたスーパーの袋を置いて、部屋を出ていく。テレビの音だとか、隣の見舞い客だとかの声がする。だけど、芦田と菅野の間には何一つとして会話がなかった。

 「具合、どう?」

 芦田はゆっくりと口を開いて、震えそうになる声を抑えながらそう言った。

 「ああ、うん。順調に回復してるよ。もう退院できるんじゃないかな」

 今日初めてまともに見た菅野の顔は、清々しいほどの笑顔で、芦田は安心させられた。だが、菅野は次第にその笑顔を崩していく。

 「それより、さ」

 芦田を鋭く見つめる菅野の瞳は、芦田には痛烈で仕方なかった。

 「何か、あっただろ?」

 菅野の瞳に、芦田の姿が映っているのがわかる。その芦田の無理矢理に口角を上げているのがわかる姿は、見ていて痛々しかった。だけど。

 「……何にも?」

 芦田には自分がWCCと関わっていること、そして一人の命を失わせてしまったことを、菅野に打ち明けることはできなかった。

 菅野は優しい。だから芦田がそんなことを告げたら、自分も何かしら背負おうとしてくれるだろう。そんなことは、させたくなかった。これは芦田の問題であって、菅野の問題ではない。芦田は甘えたくなる気持ちを胸の奥に閉じ込めた。

 「……言いたくないならいいけどさ、ただ、」

 菅野は、先ほどまで厳しい顔で芦田を見つめていたが、その顔を緩めて、目尻を下げた。

 「俺は、俺だけは何があってもお前を信じてる」

 菅野は笑顔を芦田に向けた。芦田の心に、何か暖かいものが広がっていく。
 芦田は流れそうになった涙を必死で抑えた。唇をぎゅっと紡いだせいで、言葉にしようと思った感謝の気持ちすら、上手く伝えることができない。それでも。菅野はただ、何も聞かずに芦田に笑いかけてくれた。それだけで、芦田の心は満たされていく気がしていた。


 「大丈夫ですか!?」

 病室の外。すぐのところの廊下から、突如聞こえた看護師らしき人の声に芦田は過剰反応を示す。

 「芦田……?」

 菅野のそんな呟きが聞こえた。芦田は菅野の目をしっかりと見つめる。そして、決意を固めたような表情で言葉を紡いだ。

 「いってくる」

 手にパソコンを握りしめて、部屋を後にする。汗がじんわりとにじんでいた。本当は少しだけ、足が震えていた。こわかった。そうだ、こわくてたまらない。だけど最後に、菅野の「お前ならできる」という言葉が聞こえた気がしたんだ。


**


 病室を出てすぐのところにうずくまる女の人と、そのそばで彼女を支える看護師の人が見える。芦田は急いで近くまで来ると、パソコンを取り出した。そしてパソコンを開きながらその女の人を盗み見る。女の人は苦しそうにもがいていて、額にはびっしょりと汗が染み出ていた。

 ――たぶん、ウイルスだ。

 「何してるんですか!」

 芦田の、パソコンから伸ばされたコードを、その女性の脊髄に繋ごうとする手を、看護師は焦ったように止める。芦田ははじかれたように顔をあげて、看護師をまっすぐに見つめた。

 「やらせてください」
 「いま担架を手配していますから!」

 ――それじゃあ、遅い!

 芦田の視線に一瞬だけ怯んだ看護師だったがすぐに立て直して、芦田の行く手を阻まんとする。そんな様子に芦田はぎりっと歯軋りをして、絞り出すように声を出した。

 「必ず、助けますから」

 その迫力に気圧されたのか、看護師はゆっくりと手を離す。その瞳には困惑が浮かんで、さらにその手は震えていたがそれでも芦田を信じようと思ってくれた彼女には頭が上がらない。芦田はそんな看護師に小さくお辞儀をしてから、そのままコードを脊髄へと接続した。

 辺りには段々と人が集まってきて、あの日を思い出す。それは苦い苦い記憶ではあったけれど、そんなことを思い出している暇はないと、頭を一度すっからかんにしてみせた。

 ――できるか、できないかじゃない。
 ――やるしかないんだ。

 芦田は一度、ぎゅっと手を握ってからゆっくりと離して、キーボードに指を乗せた。そして狭い廊下に、音を響かせる。誰かの息遣いや足音、そして目の前の女性の声。いろんなものが響き渡っているはずなのに、芦田の耳にはそれらは一切入ってこない。芦田の耳に届いているのは自分のキーボードをたたく音だけだった。

 芦田は早々に内蔵コンピューターに到達する。がしかし、あの時と同様、尻尾は掴めていない。

 ――ウイルスを殺すとか、そんなこと言ってたけど……。

 数少ない情報を頼りに、内蔵コンピューターに残された痕跡を辿る。

 ――そんな大層なことがしたい訳じゃなかったじゃないか。

 周りから寄せられる視線も、芦田には気にならなかった。画面には少しずつ見えてきた、ウイルスの情報が映し出される。

 ――俺はただ。

 芦田はわずかに掴めたウイルスの情報からワクチンを作り始める。

 ――ただ、目の前にいる誰かを助けたかっただけだ。

 そして芦田は、エンターキーを押した。動かしていた指を止めて、画面の「ダウンロード中」という言葉を見つめる芦田に、周りは息を飲む。

 ――菅野がお前ならできるって言ったんだ。だから、
 ――俺ならできる!

 菅野の言葉を思い浮かべながら半ば願うように画面を見つめていた芦田の目に飛び込んできたのは、「ダウンロード完了」という文字だった。

 「ぁ……苦、しく……ない」

 女の人は安心しきったように一筋の涙を流した。芦田はぐっと小さく握った拳を、菅野の病室の方へと突き出した。いつの間にか輪の中にいた菅野は、芦田と同じように拳を突き出す。そして芦田はゆっくりと表情を崩した。


**


 プルルル、と1コールだけして、耳元に相手が出る音が聞こえた。

 「芦田くん」

 電話の向こう側で自分の声が呟かれる。芦田は、そんな服部の声を聞きながら、ふっと声を漏らした。

 「服部さん、着信多すぎだよ」

 芦田が出なかったからとはいえ、着信履歴を埋め尽くすほどの不在着信に申し訳ない気持ちになりながらも、笑いが込み上げてしまう。電話の向こう側で服部が不機嫌そうにしているのは、手に取るようにわかった。

 「俺だって少しは心配したんだ」
 「うん、心配かけてごめんなさい」

 芦田は服部には見せたことのないような、ふんわりとした温かな笑みを浮かべていた。

 「それと、ありがとう」

 服部は驚いたように声を詰まらせたが、照れたように小さく「ああ」とだけ溢した。


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