「じゃあ、何かあったら連絡ください」
芦田はさっとペンを走らせて書いた連絡先を、服部に手渡してWCCを出ていった。その後ろ姿からは何か強い意志を感じるようで、ただの高校生には見えない。
いったい彼に何があったのか気にならないわけではない。なにが彼をそこまで掻き立てるのか、聞いてみたい気もした。だけどそうやって彼のテリトリーに土足で踏み入ってはいけないのだろうということも察していた服部はただ、芦田を見送ったのだった。
しばらくの間、その場から動かずにいた服部だったが、不意に加わった重みに顔をしかめて後ろを振り返った。そして予想通りの人物を見つけると、小さくため息を吐く。
「やっぱりお前か」
「むしろ私以外の誰かが服部にこういうことするなら、私が驚くわ」
服部の背中に体重を預けていた三笠木はそう言って得意気に笑うと、ヒールで尖った音を鳴らしながら服部から一歩分だけ距離を取った。
「で、何を話してたの?服部ったら、支部長室籠っちゃうから気になっちゃってね」
三笠木は興味本意というよりも、服部やWCCのことを心配しているような顔をしていた。
「取り引きをしたんだ。彼の持っている情報を教える代わりに、メインコンピューターを弄らせるって」
服部はさして表情も変えずにそう説明したが、メインコンピューターを局外の人間に触らせるなど初めてのことだ。それを不快に感じたのかさすがの三笠木も、眉間に皺を寄せていた。
「それで?メインコンピューター、触らせたの?」
「ああ。前原さんを助けたあれ、あっただろ?あれはワクチンなんだとさ。それをメインコンピューターに打ち込ませた」
三笠木は何か言いたそうな顔をしていたが、やがて入れていた力をふっと抜いた。そして浮かべた表情は服部をひどく安心させるものだった。
「まあ、服部が彼を信じたなら私も信じるわ」
「ありがとう」
その言葉に服部は少しだけ救われたような気持ちになる。自分のやったことは間違っていたのではないか。頭の片隅にあったそんな考えは少しだけ、取り除かれたような気がした。
三笠木は服部のそんな表情を見て満足したのか、片手を小さくあげてから踵を返す。カツンと鳴ったヒールの音が、しばらくその場を満たしていた。
**
人が行き交う駅前。服部と芦田は、他の誰かと待ち合わせているわけでもないのに、ただそこで佇んでいた。高校生くらいの少年と30近くの男という組み合わせはあまり兄弟といった風には見えないのか、それとも芦田の銀髪が珍しいのか、少なからず視線を集めているのに気が付いていたのか、二人はあまり落ち着きがなかった。
――なんでこんなところにいるんだろう。
思わずそんな言葉が脳裏に浮かんだ芦田は服部からこの場所に来るように指示され、素直に来てみたはいいものの、呼び出された理由がいっさいわからないでいた。しかも、芦田の隣にいる服部はその理由を自分から話す気がないのか一向に口を開かない。そんな様子にしびれを切らした芦田は、仕方なく口を開いた。
「一体こんなところに呼び出して、何の用?」
服部は芦田のことをちらりとも見ずに、行き交う人々を眺めていた。
「ワクチンが、効いているのかこの目で確かめようと思って」
芦田はその言葉に不満足そうな顔をして、服部と同じように行き交う人々を眺めた。サラリーマンから女子高生、年配の方と、様々な人が服部と芦田の目の前を通っていく。服部はこの人たちを守る使命が自分にはある気がして、犯人を捕まえなければいけない焦りを感じていた。
「ぅ……」
小さな、それはそれは小さな声だったが、服部と芦田の耳にはしっかりと届いていた。二人は顔を見合わせてから、辺りを見回す。そしてうずくまる背中を見つけた瞬間に走り出した。
服部は、そこでうずくまっていた男を囲うようにしてできている輪の中を潜り抜ける。芦田も服部の潜り抜けた道を辿りながら、その中央にたどり着いた。
「ぃ……いたっ……」
ぞわりと背筋が凍る思いがしながらも、芦田はパソコンを取り出してコードをその男の脊髄に繋いだ。
「うぅ……」
――ワクチン投与を失敗したのか?
芦田は頭の片隅でこの前の情景を思い出したが、それをすぐに消し去って、キーボードを鳴らす。そして内蔵コンピューターにたどり着いたところで、エンターキーを押した。
画面にはいつものように文字が写し出される。男は頭を押さえながら苦しんでいたが、服部にも芦田にも、ダウンロードが完了するまでは見守ることしかできない。服部はぎゅっと強く拳を作って、パソコンの画面を見ていた。
――もう少しだから……!
苦しむ人を見るのは、やはり辛くて目を背けたくなると思いながらも、服部はその光景を見つめていた。
10秒が経ったという、ところだろうか。芦田は小さく声を漏らして、画面を見ながら固まっていた。服部が不思議に思って覗くと、そこにあったのはいつもの「ダウンロード完了」という文字ではなく、「エラー」という3文字。その意味を服部が認識したのは、男がいまだに呻き声を上げているのに気がついたときだった。
思わず動きを止めていた芦田だったが、我に返ったように指を動かす。その顔は今まで服部が見たことのないくらい青白く、余裕がなかった。
――なんでだ。……なんでだ!
ひたすらに画面に映る文字の羅列を追いかける。もしかしたらと期待をかけた2度目のワクチン投与も、画面に「エラー」と映るだけだった。
頭がいっさい働かなかった。指は動いていたけれど、混乱して焦燥していた。どうにも手だてが思い浮かばない。どうすればいいかわからない。菅野の時と同じようにと、無我夢中に電子チップ内にあるであろうウイルスを探すが、メインコンピューターでの状況と同じように尻尾が掴めないでいた。
――どうしよう。どうすればいい?
芦田は別のワクチンを作って、投与するが結局「エラー」という文字を何度か拝めるだけだった。それでも震えそうになる手を抑えながらキーボードを鳴らし続ける。どうにかしなければと、その思いだけで指を動かしていたといっても過言ではなかった。
不意に男の呻き声が激しくなる。芦田の輪郭を汗が伝う。その汗は彼のパソコンへと真っ逆さまに落ちていく。
「ぁぁあああ!」
そしてプツリと電池が切れたかのように、――声が、途切れる。
「え……?」
男の内蔵コンピューターにアクセスしていたはずの芦田のパソコンの画面は、真っ暗だった。
先ほどまで呻き声をあげていたはずの男の体が力なく倒れていく。芦田はそれを受け止めることもできずに、呆然と見つめていた。なにが起きたのか、芦田はいっさい理解できずに男と真っ黒になったパソコンの画面とを見比べた。
ざわめく周りの声。そして男の体に触れて、悔しそうな顔をする服部を見て、ようやく芦田は状況を理解した。
――死んだ?
――俺の、せいで?
芦田は強く握った拳を、パソコンに振り下ろそうとして、舌打ちをしてからコンクリートの地面に振り下ろす。鈍い痛みが拳に伝わって、拳を見てみるとじんわりと赤い血が滲んでいた。
「芦田くん」
服部が心配そうに芦田の名前を呟く。芦田はゆっくりと立ち上がった。
「すみません。少し、一人にさせてください」
芦田はおぼつかない足取りで、輪の中から抜けていった。
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