前原に打ち込まれたのはいったい何だったのか。そして、芦田玲という少年はいったい何者なのか。
――物語は数日前に遡ることになる。
放課後の教室。
幼なじみが迎えに来ると言っていたが、まだ現れない。教室で待ちぼうけをする、芦田玲のヘッドホンからは強烈なスクリーモが聞こえていた。そのスクリーモをバックミュージックとしながら、芦田は机の上においたパソコンをいじっていた。
不意に耳元から音楽が聞こえなくなる。ヘッドホンは芦田の待ち人によって取られていた。
「おまたせ」
「ああ」
芦田は小型パソコンをパタンという音をたてて閉じた。
「つーか、爆音でしかも平然とした顔で、パンク聞いてんなよ」
芦田自身は気が付いていなかったが、ヘッドホンから音は漏れて、教室に入った瞬間に聞こえてくるほどの音量だった。芦田の待ち人、菅野は口を尖らせながら芦田に言うと、いまだに音が漏れ続けているヘッドホンを返した。
「仕方ないだろ、パンク好きなんだから」
「すげー思うんだけど、こんな涼しい顔して、あんな激しいパンク聞いてるってなんか笑えるよな」
芦田は菅野のそんな言葉を聞きながら机の横にかけてあった鞄を手に取った。そのまま、すたすたと教室を出ていく芦田の後ろを、菅野は小走りでついていく。そして教室から出て数十メートルというところで菅野ははっとしたように声を出した。
「教室の電気、消してこなきゃ。俺、ちょっと行ってくるわ」
芦田は菅野のその行動を止めるようにこう言った。
「大丈夫、いま消すから」
芦田は手に持っていた小型パソコンのエンターキーを鳴らす。彼らの後ろでは、教室の電気が音もなく、消えた。
菅野は真っ暗になった教室から芦田に視線を移して、呆れたようで、少しだけ心配するような顔をした。
「お前さあ、危ないことしてないんだろーなぁ」
「してないよ」
手に持っていた小型パソコンを鞄の中に仕舞い込む。静かな廊下には二人の声だけが響いていた。
「大体本格的にハッキングしようと思ったらWCCに手を出さなきゃいけなくなる。俺にはそんな怖いことできないね」
「まあー、お前がそんなことするようなやつだとは思わないけどさ」
芦田と菅野は少しだけ歩みを早めた。
芦田がハッキングを始めたのはいつだったか。
はっきりとはわからないが、パソコンを使えるような年になってから数年でハッキングという技を覚えてしまっていた。と、いっても、そんな大層なことはしていなかった。せいぜいテレビやエアコンなどのリモコン代わりに使う程度。芦田はこれで大層なことをするのが少しだけ怖かった。
さきほどWCCに手を出すのは怖いと言っていたが、それは少しだけ間違いだった。手を出すのが怖いのではなく、手を出して相手のレベルを知った。芦田はWCCの強固さを知って、もう一度手を出すのが、怖くなったのだ。
「そういやさ、」
菅野のその声で一気に現実に戻される。通いなれたこの道も、夕方だからか人はいなかった。
「お前、知ってる?」
「なにが?」
芦田が興味なさげに言ったが、菅野はさほど気にしていないように話を続けた。
「死亡原因不明の事件。日本だけじゃなく世界中でたくさん起こってるらしいな」
この事件のせいで、最近の町は、学校は少しだけおかしい。みんな、なにかに怯えているようだと、芦田は思う。一歩前を歩く菅野は芦田の方に振り返えった。
「少しだけ、怖いんだ」
そう言った菅野のワイシャツの首元には痛々しい傷跡が見えた。
「死ぬのが、って言うより、お前とただ帰るだけみたいな普通の時間を失うのが」
「つまり死ぬことじゃないのか?」
芦田は菅野から目線をそらす。菅野は「はは、そうかもな」なんて、空を見上げながら笑った。芦田は綺麗な夕焼けを目に焼き写してから、菅野に視線を戻す。
突然のことだった。芦田の脳はあまりにも唐突なできごとについていけず、目をまんまるにして目の前の光景を脳裏に刻み込む。たった一瞬のあいだにいったいなにがあったというのか。気がつけば菅野は壁に寄りかかっていた。
「菅野?」
「うぅ……」
それから頭を抱えて座り込む。
「あ……あたま……がっ!」
――まさか……?
――まさかっ!
芦田は急いで鞄からパソコンを取り出して、パソコンのコードを菅野の脊髄と接続した。キーボードを鳴らしてひたすらに菅野の電子チップの内蔵コンピューターを目指す。
――大丈夫だ、WCCには捕まらない。それよりも、なんだ?
芦田の中のWCCへの恐怖は払拭されていなかったが、パソコンに写し出された文字の羅列に一瞬だけ手を止める。その間にも菅野は頭を押さえながら呻いていた。
――ウイルス?電子チップに?
わからなかった。ただ、事件の話をされたばかりの芦田の頭にはこれも同一犯の仕業なのだと思えてならなかった。
――とにかく、ワクチンを……。
――できるか?
芦田はごくりと唾をのみ込む。
――できるかじゃない。やるんだ。
綺麗な夕焼け。倒れ込む菅野。ひたすらにキーボードを叩く芦田。そして文字の羅列。
気が狂ってしまいそうだった。芦田の精神を繋ぎ止めているのは、菅野を助けたいという思いだけ。それでも、キーボードを叩く手が震えていた。
――打ち間違えは許されないのに……!
芦田の輪郭を汗がなぞる。そして、その汗は地面へと垂れて染みを作った。
「できた!」
エンターキーが勢いよく押される。パソコンの画面には「ダウンロード中」という文字が写し出された。
――あと10秒。
――早く、早く……!
握った手のひらには、汗をかいていた。
目の前の数字が減っていく。たかが10秒が、芦田と菅野にとってはかなり長いものに感じられた。
そして画面に「ダウンロード完了」という文字が写し出される。芦田はすぐにパソコンの画面から目を移して菅野を見た。
「痛く……ない」
菅野は頭を抱えていた手をゆっくりと離した。
「大丈夫か?」
その声は未だに震えていて芦田は気恥ずかしくなる。
「ああ、ありがとう……芦田」
立ち上がろうとした菅野の体は途中で地面に倒れ込みそうになる。芦田は菅野の体をしっかりと受け止める。菅野のシャツは汗でびっしょりだった。
「菅野?」
その言葉への返答は、なかった。
**
「芦田くん、だったかな」
芦田の目の前に座る医者がゆっくりと口を開く。眼鏡の奥の瞳が、芦田の姿をとらえていた。
「菅野くんとは幼なじみなんだよね」
「そうです」
医者は背もたれにつけていた背中を少しだけ離して、芦田の方へと上半身を乗り出した。
「じゃあ、あの傷は何か、知ってるかな」
芦田は苦虫を潰したような顔をしてから小さく肯定の言葉をこぼした。そして芦田は菅野の眠るベッドを見てから、医者に視線を戻す。
「あの、あいつの傷は、俺を助けたせいでできたものなんです」
迫り来るトラック。突き飛ばされた背中。頭を割らんとするほどに大きく鳴り響くクラクション。
驚いてその現場を振り返ったときにはすでに、血だまりの中に倒れる菅野がいた。いまでもそのときのことは鮮明に覚えている。芦田はそのとき、なにもできなかった。ただただ自分の犠牲となった菅野のことを呆然と見つめるだけだった。そんな苦い思い出であり、鎖だ。
芦田は自分の前髪を掻き上げる。前髪はまだ少しだけ湿り気があった。
「芦田くん。君には少し辛いことかもしれないんだがね」
医者は重苦しい口を開く。
「脳への負担は連鎖して、あの傷への負担になっている」
芦田は無言のまま自分のローファーを見つめる。靴裏についた土が診療所のテリトリーを汚していて情けない気持ちになる。
「少なくとも数日は、目を覚まさないかもしれない」
鈍器で頭を殴られたような衝撃が走る。
――俺のせい?ウイルスのせい?
回らない頭に疑問だけが浮かび上がる。
「わかりました、また来ます」
芦田はおぼつかない足取りで診療所を出ていった。
――はは、どっちもだ。俺とウイルスと、どっちも悪い。
気が付いたら家にいて、芦田はベッドに転がり込んだ。
――俺への罰は後でしっかり受けるからさ。だから俺はウイルスを殺すよ。
WCCが怖いと言ったあれは嘘だった。芦田にははっきりとわかる。WCCになんて、恐怖していない。本当に怖いのは、友達を、菅野を失うこと。
芦田は薄ベージュのパーカーに袖を通した。
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