世界サイバー管理局――通称WCCでは、世界のネットワークのすべてを管理している。
数十年前にこの機関ができたとき、多くのハッカーたちはこの強固な守備に負けて、サイバー世界からハッカーとしての名前を消していった。そして、ほんの一握り、残ったハッカーたちもそのほとんどは現在、表立った行動はしていない。それが、WCCの管理システムはいかなるハッキングも効かないとされる由縁であり、このおかげで、サイバー犯罪の数は激減した。
この、WCCの本部はワシントンDCに置かれているが、設備・技術面・広さからしても、実質日本支部が本部と言っても過言ではない。
そして今春より、28歳という若さで日本支部長に就任した男が、いた。
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――眠い。
男はソファの上で寝返りを打った。
時刻は9時。カーテンの隙間から容赦なく届く太陽の光が、男の睡眠を妨げていた。
――眩しいよ。
誰が被せてくれたのか定かではないが、体を覆うように被さっていた毛布を顔まで持ってくる。そこでやっと太陽の光が弱くなり、寝付くことができる。――しかし、コンコンという軽快な音が、男の眠りを妨げるかのように響いた。
コンコン。もう一度同じ調子でドアがノックされる。それからしばらくして容赦もなくドアが開かれた。
女はドアをくぐり、ヒールの音を響かせて男の近くまで来ると、ソファで顔を覆いながら眠りにつこうとする男を呆れた目で見てから、毛布を引ったくった。
「起きてください」
男は毛布を取られてもなおソファの上で縮こまっていた。
「……起きろ」
女は強く握った拳を男の頭へと落とした。
「いってえ!」
涙目になりながらやっと起き上がった男は、女を睨み付ける。が、女の鬼の形相に負けて、怯んでしまう。
「服部、あんたさあ、少しは自覚持ちなさいよ」
服部と呼ばれた男はソファにかけてあった背広に腕を通す。
「会議にあんたいなかったらダメでしょーが」
「わりーわりー」
服部は女の一歩前を歩いて、いままで仮眠を取っていた、支部長室と書かれた部屋を出た。
**
――正直、会議なんて要らないと思う。
服部はそんなことをぼうっと考えながら、平常通りだとか、システムに入り込もうとしたハッカーが罠に嵌まっただとか、たいして中身のないものを聞いていた。
隣に座る先程服部を起こしに来た女、三笠木(みかさぎ)薫は報告をしている局員の話を真剣に聞いているが、服部からしたらその態度は尊敬に値する。服部は周りに気付かれないように小さくあくびをした。そんなときだ。
プルルル、プルルルという大きめの音が局員の報告を遮って、会議室に響き渡った。思わず皆がそちらに意識を投げやる。
「……失礼」
その電話の主が申し訳なさそうな顔をして、電話を切ろうとする。
「どうぞ、出てください」
服部が男にそう言うと、男は困ったような顔をしながら、渋々という雰囲気を醸し出しながら電話に出た。
「もしもし、」
会議室の空気はなんとも言えないものになっていた。報告をしていた局員は、報告を続けていいのか戸惑っている。服部は嫌がらせでもするような気持ちで電話に出るように促したことをさすがに少しだけ後悔していた。
「……なに?」
会議室には男の声だけが響いていた。男は電話に出た当初は苦い表情を浮かべていたが、いまはほんのり顔色が悪い。
「わかった、引き続き調査を行ってくれ」
男はその言葉を皮切りに電話を切る。そして口を開くのをためらうような顔をしてから、ゆっくりと唇を動かした。
「死亡者が出ました」
確かにこの世界で死亡者が出ることは稀だが、人間が死に至るのはある種、普通のことである。だからわざわざ、報告するまでもない。しかし、男はさらに言葉を続けた。
「外的損傷、電子チップへの損傷、ともになし。死亡原因は判明していません」
その言葉には、驚くやら困惑やらの態度を示さざるを得なかった。
――なんだ、どういうことだ?
会議室は異様な空気で包まれた。
**
数日後の新聞。
話題はもちろん例の件で持ちきりだった。服部は支部長室の椅子に座りながら、デスクの上に広げられた各社の新聞に目を移す。
『東京郊外で男性の死体』
『死因判明せず』
そんな各社の大見出しが目に入って、服部は頭を抱えた。
あれから数日が経ったが、事件に進展は見られなかった。
外的損傷はない。とすれば、電子チップへの損傷が濃厚とされるが、人間の生死を左右する部位なだけあって、電子チップの強度はダイヤモンドに勝るとも劣らないと言われている。そして、現段階では電子チップへの損傷は見られない。
では、何が原因なのだろうか。電子チップのウイルス感染? しかしそれをするには、WCCのコンピューターにハッキングする必要がある。それをするのが難しいのは、前述したことから容易に想像できるだろうし、仮にハッキングされても、システムに変化が起きればメインコンピューターに知らされるようになっている。
――何にせよ、WCCに責任問題が回ってくるのは時間の問題だろう。
そうなれば服部が責任をとらざるを得ない。就任一年目からこんなことになるなんて、誰が想像しただろうか。
けたましく鳴り響く電話。そしてこの数日の間に寄せられた、世界中でこれと似たような事件が起きているという事実。服部は大きくため息をついた。
WCCができてから、電子チップが導入されてから、こんなことは一度もなかった。この国は、この世界は平和だった。それがいまは、多くの人々が不安を抱き、恐怖している。
――こうしてても仕方がない。メインコンピューターでも見に行くか。
服部は椅子から腰を上げて、支部長室を出た。
「支部長」
部屋を出てすぐ、後ろからかけられたそんな声に、服部はドアノブに手をやりながら振り返る。
「資料の確認、お願いしたかったのですが」
目尻がきゅっと下に下がるように笑うその人は、服部より幾分か年上の副支部長だった。
「前原さん」
服部は彼の名前を口にする。
「いまからメインコンピューターを見に行こうと思っていたんです」
前原は服部の言うことを黙って聞いていたが、その言葉の意図を汲み取ったように笑った。
「よろしければ、私もご一緒に」
その言葉を聞いて、服部もまた、口元を緩ませた。
**
メインコンピュータールームには認証システムが置かれている。指紋、瞳の虹彩検査、そして電子チップによる個人認証をクリアしなければ、立ち入ることはできない。
人間は生まれたときに、脳の代替品として脊髄に電子チップを埋め込まれる。電子チップには、あらゆる個人データが記録されており、それを読み込むことによって個人認証を行うシステムも、現在では少なくない。その一例が、このメインコンピュータールームの入り口に設置された認証システムだった。元からこの部屋に入ることができるのは支部長、副支部長と各班長クラスの人間だけだが、このセキュリティーの固さが売りな訳である。
服部と前原はすべての検査を終えて、メインコンピュータールームに踏み行った。
大画面に写し出される日本、そして各国のネットワーク。服部はその画面の前に置かれたパソコンのところまで来ると、椅子に座り、キーボードをカタカタとならし始めた。
「前原さん、そっちのパソコンからもお願いします」
前原はうなずくとすぐに椅子に座って指を動かし始める。さすが、服部よりベテランなだけあって処理速度も早い。
――これならプログラムの確認もすぐ終わるだろう。
服部は文字の羅列を見ながら、器用に指を動かしていった。
何分が経っただろうか。隅々まで調べ上げ、莫大な量の文字を見続けた服部は疲れはてていた。
メインコンピューターは調べた。これに問題がなければすべてのネットワークに問題がないことが証明される。そしてメインコンピューターからはウイルスらしきものが出てこないどころか、異常は見られなかった。
――電子チップじゃないのか……?
依然として謎は謎のままだ。
「支部長、問題ありませんでした」
「だよなぁ」
――もう訳がわからない。
服部がちらりと前原の方を見ると不意に目があって、前原は困ったように笑った。
何の成果も得られなかったものの、メインコンピューターを調べるという目的を達した二人はメインコンピュータールームを出た。そして服部と前原は、局員たちのいるスペースに向かった。
服部は支部長となってからほとんどここに顔を出しておらず、支部長室と会議室とを行き来する毎日だった。しかし支部長になる前はここで缶詰になっていたのだと思うと、懐かしく感じられる。
「あれ、支部長サン。どうしたの?」
不意に話しかけられたが、声からすぐに三笠木だとわかる。前原が隣にいるにも関わらず、にやにやと話しかけてくる三笠木は、鬱陶しくもあるが微笑ましくもあった。
三笠木は服部の唯一の同期だ。彼女とは今春になるまで班長、副班長の仲だった。今は服部は支部長に、三笠木は班長へと、お互いに昇格してしまったが、三笠木のフランクさは相変わらずだった。それが、服部にとっても三笠木にとっても心地いい。
服部は三笠木を上から見下ろすようにしてから、笑った。
「たまには、な」
「そうだ、資料!」
服部が言葉を放ったのと同時に、前原のなにかを思い出したかのような声が聞こえる。
「役に立つかはわからないんですけど……」
前原は苦笑いをしながらそう言う。服部はその話をしっかりと聞いていたが、気がついたら前原の奥にある唯一の出入り口に目線を据えていた。
――え?
機械の重たい音がして、扉が開く。
扉の向こうにいたのは薄ベージュのパーカーのフードをしっかりと被った人物。体つきから男だとわかるその人は、手にパソコンを持っていた。
――おかしい。おかしい、おかしい。
WCCでは建物に入った時点で認証検査が行われるし、客人が訪れる場合、服部のもとに一報が入るはずだ。それに、この部屋に入る前にも指紋認証が行われ、局員以外は基本的には立ち入ることができないようになっている。
――だってあの男は、
――局員でも客人でもないじゃないか。
服部は恐る恐る口を開く。
「君は……」
「黙って」
男の口許が不気味に上がる。その、少しあか抜けない声が部屋に響いて、作業をしていた局員も、すべてが凍りついたように動くことをやめた。部屋を、静寂が満たす。
「ねえ、メインコンピューターってどこ?」
男の声が響いた。
「ねえ、聞いてる?」
男は服部の方を向いている。フードから覗く銀髪が、妙に綺麗だった。
「支部長サン」
服部は無意識のうちに肩を震わせた。銀髪の間に見えた目には服部が映っていて、とてつもなく恐ろしく感じられる。
――焦るな、落ち着け。
そう思いながら強く拳を握ると、爪が食い込んだ。
――奴は何者だ?
――まさかあいつが犯人なのか?
――目的はなんだ?
疑問ばかりが頭を巡って答えは出てこない。服部は目の前の男を見定めるように眺めていた。だから気が付かなかったのだ。
「うっ……」
小さなうめき声が響く。目の前にいた前原が苦しそうにしゃがみこむ。服部は視界から前原が消えてやっと、「異常」に気が付いた。
「うぅ……ぁ……」
「前原さん?」
状況がつかめないながらも、服部はどうにかしなければと、前原の背中に手を伸ばそうとした。だが、それは叶わなかった。
「動くな」
気が付けば目の前にいた少年は服部の手を止める。
「……う、ぁあぁぁ」
「前原さん!」
「黙れ」
少年はパソコンから延びたコードを前原の脊髄に繋げる。カタカタというキーボードの音が響いた。
「ぁぁぁぁあああ!」
前原の呻き声が痛々しくて、服部はなにもできない自分が腹立たしくなる。
――もしかして、
「大丈夫ですよ」
男は前原にそう言ってから、エンターキーを押した。服部からちょうど見える位置にあるパソコンの画面には「ダウンロード中」という言葉が表示される。
服部は苦しそうにもがく前原を見ながらふと思う。
――まさか……これが、例の事件の?
確証はない。ただ、いまは前原が助かればいいというそれだけ。
不意に、画面に「ダウンロード完了」の文字が写し出される。
「はぁ……はぁ……」
前原は過呼吸になりかけてはいたが、もう苦しんではいなかった。その様子に服部は少しだけ安堵の表所を浮かべると、すぐにその表情を消して、銀髪の男を見た。
「君は、いったい何者なんだ」
服部の言葉に男は、口を開く。
「芦田、玲」
聞きなれない名前が紡がれる。その声はやはりあか抜けない、少年ぽさが残っていた。
「ただの高校生だ」
芦田はそう言って笑った。
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