出会ったあの日と同じように、服部と芦田は支部長室のソファに向かい合って座っていた。唯一あの日と異なるのは、場の雰囲気が少し穏やかになっていることだろうか。あの日のような、ピリピリと肌を小刻みに刺激するような緊張感は、ここにはない。
「芦田くん、本当にもう大丈夫なのか?」
服部は芦田の様子を窺うようにしてそういった。
確かに昨日、芦田は立ち直ったかのような電話を服部に寄越した。そして目の前の芦田は、清々しい何かが吹っ切れたかのような顔をしている。それが気のせいなのか、どうなのか。わからなくて、芦田に依存してしまっている服部には、上手く言葉にできない後ろめたさがあった。
「ああ、大丈夫だよ」
芦田は服部の後ろめたさまで吹き飛ばすように、ケロッとした表情で答えた。その言葉に服部は思わず安堵の表情を浮かべる。
服部はきっと芦田にすべての責任をひとりで背負い込ませてしまっていた。こんな、服部と10も違うただの高校生に。そのことに気が付かず依存し続けた自分のことはもちろん嫌悪した。だけどそうじゃないだろうと。自分のすべきことは嫌悪ではないだろう。そんなことは後でやればいい。服部は芦田が感じているであろう責任を、一緒に請け負ってやるべきだったのだと、気が付いたのだ。
だからこそ、芦田の様子をじっくりと窺ってみた服部だったが芦田は服部の思った以上に立ち直っているようだった。それは誰かが芦田を支えてやったからなのか。そうであればいいと、服部は頭の片隅でそう思っていた。
「そういえば、またワクチン作れたよ」
唐突に、そして大したことでもないように放たれたその言葉は服部を驚かせるには十分だった。
つい一昨日、ウイルスに破れたばかりのこの少年が、服部が支部長室で大人しくしている間に、そんな偉業を遂げているとは、と若さというものがなのか、この少年がなのか。とにかく、末恐ろしくなった。
「俺は、君に依存してばかりだな」
ははっと、自嘲するように笑うと、芦田は服部を凝視してから、身を乗り出してニヤリと笑った。
「俺はただ自分のしたいことをしてるだけだよ。だから、服部さんも服部さんが成し遂げたいことのために俺を利用すればいいよ」
服部は呆気に取られたように動きを止めたが、やがてほんのりと笑みを浮かべた。
「ああ、そうするよ」
本当は芦田だってそんなことは思っていないだろうということは、わかっていた。それでも芦田は服部が自分に依存することに正当性を持たせようとした。そう思うと、やはり服部は芦田のことは信頼したいと思うし、否、信頼に足るのではないかと思えた。
そんな中、コンコンと、唐突にドアがノックされる。その音に服部と芦田はドアの方へと視線をやった。
「前原です」
ドアの向こう側聞こえてきた声に服部は少しだけ肩の力を抜く。ここで近藤が入り込んでくるようなことがあればもしかすると口論になっていたかもしれないことを考えて、服部は少しだけ顔色を悪くしたがすぐにそれを戻して、前原に入ってくるように促した。
しかしよくよく考えてみると服部は、前原にはしばらく休暇を与えていたはずだ。それなのにいったいどうしたというのかとは思いながらも、ドアノブが回されるのを眺める。そして前原が部屋に入ってくるのを見てやっと服部は芦田がいたことに気付いたが、もう芦田はすでに関係者だ。問題ないだろうと、入ってくる前原を見ていた。
芦田は誰かもわからぬ人が入り込んでくることに疑念を感じ、緊張した表情を浮かべていたが、前原の姿を見て思い出したように小さく声を漏らした。
「あ、と。来客がいらっしゃったんですね」
前原は芦田をちらりと見てからそう言う。芦田の方は前原のことをしっかりと認識したようで最初に浮かべていた硬い表情と比べれば随分とリラックスした顔つきになっていた。
「どーも、芦田です」
「前原です」
芦田の挨拶につられるように、前原はしっかりと芦田と向き合う。そして、その銀髪を見て、はっと息を飲んだ。
「あの時の……!」
口に手を当てながら、前原は目を真ん丸にする。服部も芦田も、その様子を苦笑いをしながら見ていた。前原はしばらく驚いたようで言葉を失っていたがやがて我に返ったように、頭を深々と下げる。
「あの時は、ありがとうございました」
芦田は自分と一回り以上違う大人に、頭を下げられたことに戸惑っていた。
「俺は、自分がしたいと思ったことをしたまでです」
前原はその言葉を聞いて、下げていた頭を上げた。そして人の好さそうな笑みを浮かべながら言葉をつむぐ。
「それでも、私はあなたに感謝しています」
芦田は照れたようにそっぽを向いた。服部はその光景を微笑ましく思いながらも、気を引き締めて前原へと質問を投げ掛ける。
「ところで前原さん、一体何の用事で?」
はっとしたように、前原は手に持っていた資料を机に広げる。それは何かの統計のようで、グラフが書かれているものもあれば、文字だけで埋め尽くされたものもあった。
「これ、何の資料?」
芦田は前原が広げている資料を見ながら、そう尋ねた。前原はすべての資料を机に広げてから口を開く。
「一連の事件の死亡者について、統計を取ったものです」
おそらくこれは前原が作ったものなのだろう。倒れて疲れ切っているはずの体でいったいどれほど働き続けたのか。それを考えると服部は苦々しい表情を浮かべるしかなかった。だがしかし、そんなことを考えている暇はない。前原はせっかく集めた情報の塊だ。使わなくてどうすると鞭を打ってその資料を眺めだす。
「今現在、死亡者は何人だ?」
服部はなにか考えるように指を交差させながらそう言った。目の前の前原は渋い顔をして、一度息を吸ってから答えを出す。
「昨日の時点ではちょうど3万5千人弱です」
予想以上に多かった数字に、服部は度肝を抜かれる。同時に、自分が守りきれなかった命を思うと、悔やまれて仕方なかった。
「しかし、一度数時間ですが死亡者の出なかった時間がありますね。おそらくこの日は、私が倒れた日です」
前原は統計に目を落としながらそう言った。
――前原さんが倒れた日?ということは。
「やっぱりワクチンは効いてたんだ……」
その翌日、すぐに新しいウイルスが撒かれてしまったせいで、定かではなかったワクチンの効力がここにきて立証される。
「ていうことは、犯人はその日、すぐに新しいウイルスを撒いたってことだよね?」
「おそらくな」
服部は視線を落とした。そしてしばらくの沈黙でこの部屋が満たされようかとしたとき、服部は不意に何かを思い付いたように口を開いた。
「ワクチンは、効くんだよな。だったら芦田くん。悪いんだが、もう一度ワクチンを打ち込んでくれないか?」
服部のその問いかけに、前原は疑問を浮かべていたが、自分に芦田がしたことを思い出したのだろうか。妙に納得したような顔をして、芦田を見ていた。
「りょーかい」
芦田は、ソファに置いていたパソコンを手に取った。
**
芦田がメインコンピュータールームに立ち入るのは二回目のはずだ。だがしかし、服部と前原に連れられてその部屋に入るとすぐにメインコンピューターへと向かう。そして、もう何十回もこの部屋に踏み入っているはずの服部よりも慣れた手つきで自分のパソコンから伸ばされたコードを繋いだ。
「いい?」
芦田は服部と前原の方へと振り返る。二人は神妙な顔をしながら、こくりと頷いた。芦田はそれを見てから、パソコンの画面へと視線を移す。服部と前原はその様子をじっと眺めるしかなかった。カタカタといくらかキーボードを鳴らしてから、エンターキーが押される。そのタップ音への緊張感からか、誰も何も話すことができず、ただただその音が部屋を満たす。
エンターキーが押されて十秒ほどたっただろうか。いつも通り完了したことが知らされると、芦田は少し感じていた肩の荷が降りたように、両腕を目一杯伸ばした。その様子に服部と前原もつられて緊張をといた。
「そう言えばさ、」
芦田は前原から受け取っていた統計に視線を落とす。
「これって、死亡者、男女比以外は出せないの?」
男女比はちょうど同じくらい。この事件に関して、男女の差はないも同然だった。
「男女比以外って、例えば?」
「共通点とか」
服部は大きくため息をつく。そして芦田の隣まで行って、呆れたような顔をした。
「そんなことがわかったら、苦労しないだろ」
「そうだけど……」
芦田は服部の言葉に反論しようとする。その顔は年相応な幼さを残したものだった。
「あ、でも。項目を打ち込めば、死亡者のうち、何人と一致するかはわかりますよ」
ふたりの話を聞いていた前原はそう言って、パソコンの前の椅子に座る。芦田は食い付くように前原に寄り掛かった。
「じゃあ、身体損傷度について調べて欲しいんだ」
「身体損傷度ですね」
服部と前原はそれに疑問を感じながらも、項目を打ち込んで、検索をかけた。そしてその画面に表示された事実に驚愕する。
「身体損傷度8以上の怪我を負ったことのある人だけが狙われている……?」
身体損傷度は1〜10までに分けられる。科学技術が進んだとはいえ、身体損傷度10とは、7割以上の確率で死亡するほどの怪我を負った場合の数値である。そして、8以上というと、科学技術が現在ほど発達していなかったときには、ほぼ確実に死亡するほどの大怪我のことであった。
「やっぱり」
芦田は納得したような顔をしていた。意味がわからないという顔をしていた服部と前原だったが、やがて前原は何かに気が付いたように呟きだした。
「一度、車の事故に巻き込まれて、身体損傷度8の怪我を負ったことがあります」
服部はその言葉に驚いて、答えを求めるように芦田を見る。少しだけ戸惑いを隠せずにいた芦田だったが、ゆっくりと言葉を発しだす。
「俺の知り合いが、身体損傷度9の怪我を負ったことがあってね。あと、この前病院で助けた人の記録を勝手に見たんだけど、その人も身体損傷度8の怪我を負ったことがあったみたいだからまさかとは思ったんだけど……」
笑うことも上手くできずに、顔を歪ませる。芦田の脳裏に浮かんだのは友人の体に刻まれた決して消えることはないであろう傷跡。芦田がつけさせた、傷。芦田が浮かべていたその表情に服部と前原は痛いほどに彼の感情が伝えられるようだった。
「あと、もう一個だけ」
芦田は浮かべていた表情を上手に隠すと、そう言って前原の前方にあるパソコンを見た。
「メインコンピュータールームの入室記録ってある?」
「ああ、あるよ」
前原は手慣れたようにキーボードを鳴らして、その画面を呼び起こした。そして服部と芦田は画面をのぞき込む。視界に映りこんできた予想外の人物の名前に、服部は口を閉じることができなかった。しかも、ご丁寧に芦田がワクチンを打ち込んだ数時間後に入室したと記録されている、その名前。
「なんで……」
服部はそう呟くしかなかった。
**
ジイッという重たい音がして扉が開く。そして慣れたようにパソコンの前まで行き、USBを射し込む人がいた。その人は器用にキーボードを操りながら、USBの中身に触れようとした。
そこで、背後からもう一度扉の開く音がする。扉の向こう側から入ってきた光が眩しい。その人は振り返って、扉の向こう側から現れた服部を凝視する。服部も、パソコンの前にいるその人を見て、名前を呟いた。
「三笠木」
その名を呼ばれた三笠木は、びくりと肩を揺らした。
「何してるんだ?」
三笠木は服部ににこりと笑いかけながら、机に寄り掛かって、足を交差させる。その様子には余裕すら感じて服部は自分の推論が間違っているのではないかという期待を浮かべる。がしかしすぐにその可能性は低いという事実を胸で受け止めた。
「もちろん、犯人の解明よ?気になる点があってね」
三笠木の女にしては少しだけ低い、心地のよい声が服部へと届く。服部はぎゅっと手を強く握りながら三笠木の方へと一歩一歩近付いていく。三笠木は怪訝そうな顔でそれを見ていた。
「服部こそ、どうしたの?」
「……もう、嘘つくな」
「何が?」
三笠木は服部を睨み付けた。服部はやるせない気持ちで、三笠木から数メートル離れたところまで来ていた。
「俺は、ワクチンの投与もお前にしか言ってないし、新型ウイルスだなんて、一言だって言ってないよ」
はっと一瞬目を見開いた三笠木は、すぐに表情を戻して笑みを浮かべた。服部は確かに三笠木の姿をとらえてはいたが、これが夢か虚構であればいいとすら考えていた。
「たまたまじゃない?」
「じゃあそのUSBの中身はなんだ?」
USBを一瞥して、言葉を詰まらせた三笠木に、服部はさらに言葉を続ける。
「芦田がやって来た日、俺と別れてからメインコンピュータールームに立ち入った理由は?いま、ここにいる理由はなんだ?」
三笠木は苦虫を潰したような顔をした。そして一度床に視線を落とすと、次に顔を上げたときには不適な笑みを浮かべていた。その姿にぐちゃぐちゃだった服部の脳内が一気にさえていく気がした。
「あー、もう。本当に面倒くさいことしてくれるわね」
三笠木は相変わらず机に寄り掛かったままだったが、組んでいた腕をほどいて、片方の腕をキーボードまで持っていった。
「あなたたちのせいで、また新しいウイルスを撒かなきゃいけないじゃない」
服部は三笠木を悲しげな目で見つめる。三笠木はキーボードへと伸ばした手で、エンターキーを押した。
「三笠木……」
くつくつと、笑みを浮かべている三笠木は、酷くおそろしかった。
「ははっ。また、ワクチン投与、頑張れば?」
そう三笠木が言った瞬間に服部の携帯が鳴り始める。服部は数コールしたところで、電話に出た。
「もしもし」
「あ、服部さん?」
電話の向こう側から芦田の声が聞こえる。スピーカーにしていたおかげで、その声は三笠木にも届いていた。三笠木は驚いたように服部のことを見つめていた。
「間に合ったよ」
その言葉に三笠木は疑問を浮かべる。そして次の言葉が紡がれた瞬間、目を見開く。
「そのUSBの中にあったウイルスの駆除」
三笠木はパソコンの画面に向き直る。画面にはエラーとだけ書かれていて、三笠木は狂ったようにキーボードを叩き始めた。それでも画面に映り込んだその文字は一切変化を見せなかった。
「いやあ、さすがにダメかと思ったよ」
ははっと、電話の向こう側で芦田が笑うのがわかる。この緊張した場にふさわしくないくらいには、陽気な芦田にしては珍しい声の上げ方だった。
「服部さん、時間稼ぎにもなってないし」
「そんなことはないだろ」
不機嫌そうに言う服部の声さえ、三笠木には届いていなかった。三笠木は他の何にも目をくれずにただただパソコンを眺め、キーボードを鳴らし続ける。変化をまったく見せないそれに三笠木は焦りを浮かべるしかなかった。
「まあでもこれで、ウイルスは使い物にならないだろうよ」
三笠木はその言葉と同時に、崩れ込むように床に座り込んだ。フレアなスカートが地面に広がる。いつもならスカートの皺など細かいところまで気に掛ける三笠木だったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「三笠木、もう諦めろ」
服部は三笠木にそう告げる。三笠木は服部をちらりと見てから、苦々しく笑った。
「服部、あんたさぁ、この世界は平和だとでも思ってる?電子チップの導入は、科学技術の発達は正解だと思ってる?」
服部はその質問に答えられずにいた。正解だと、胸を張って言えないという事実はひどく服部を痛めつけたが三笠木はどうやらそんなことには目もくれていないようだった。
「私はね、そんなこと思ってないよ」
何かを嘲笑うように、三笠木は声を漏らした。そして何かを懐かしむような顔をしてみせる。
「私の曾祖母はね、電子チップが導入されたことで、生き延びてるの。でもね、導入される前の方がよかった、昔の方がよかったって言うのよ?なんでだかわかる?」
服部は上手く答えられずに、ただ三笠木の姿を見ていた。三笠木は相変わらず床に座り込んだままだった。
「この世界にね、現実味がなくなったって言うの。死なないって、何かのゲームみたいでしょ?」
三笠木は一呼吸置いてから話を続ける。
「食べることを必要としないせいで、食べ物の有り難みがなくなったわ。ほぼ死ななくなったから自殺の件数は格段に減ったけど、事故の件数は格段に増えたわ」
事故の件数が増えていることは事実だった。利便性の裏にはいつだってなにかの犠牲がある。まさにこの事実がそれを表していたけれど、政府やWCCは、この世界の利便さに、それを知らないふりをした。
「私たちの体がただの器みたいになったせいで、他人の体を欲しがる輩が出てきたわ」
「そういう奴らを、駆逐したかったのか?」
服部の視線は三笠木と交わった。三笠木は力なく首を振った。
「違うわ。私が本当に嫌になったのは、世界をこんな風にして満足してる政府や社会よ」
「じゃあ、三笠木。お前が殺した人たちは、そういう奴らへの見せしめだったのか?」
三笠木はぎゅっとスカートの裾を握った。
「だって、普通の世界だったらもうとっくに死んでるのよ?この世界がおかしいだけ。……まあ、見せしめの意味もあったかもしれないわ」
ふふっと自嘲するように、三笠木は笑った。
「私はね、この汚れた世界を変えたかっただけだったの」
天井に伸ばした三笠木の手は、何も掴めずに下げられていく。そして三笠木はうずくまって、肩を揺らす。その姿があまりにも痛々しくて、むなしくて服部は声をかけることもできない。慰めも、なにもかも告げてはならないとわかっていながらも、服部は何もすることができない自分自身をふがいなく感じるしかなかった。
**
翌日。
『一連の犯人捕まる』
『犯人はWCC局員』
服部の机の上に置かれた新聞の大見出しには、そんな言葉が並べられていた。
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