携帯やパソコンで、片手でデータを削除するのと同じようにこの想いも消してしまえれば楽なのにと、そう思った。でもそれが叶わないことであって、私はずっとこの想いを抱えて生きていかなければならない。それがわかるくらいには大人で、だけど物わかりよく知らない顔をしていられるほど大人じゃなかった。私はまだ、子どもだった。


**


 「咲先輩」

 男にしては少し高い声が教室に響く。誰の声かはすぐにわかった。だけど、私は何の反応も示さないでいた。

 「徹士先輩は、もう帰ったんですか」

 私の目の前にゆっくりと腰を下ろしたその男は、相変わらず可愛い顔をしていた。そういえば同じクラスの朱美ちゃんが、コイツの顔が好みだとかなんとか言っていた気がする。確かに、そのくりんとした目も、少しパーマのかかった髪も、コイツの可愛さを引き立てている。だけどコイツが可愛いのは見た目だけだ。

 「美和先輩もいないですね」

 何も知りませんって顔をして、ただの話の種ですって顔をして。コイツは全部わかってる。なぜ二人がここにいないのかも、私がどんな思いで、ここにいるのかも。それが悔しくて悔しくて。でもそう思っているのを悟られたくなくて、私は彼に気が付かれないようにこぶしを強く握った。

 「咲先輩は、本当に馬鹿ですよね」

 ぴくりと、私の肩が揺れる。こうして彼と二人きりになるのは、よくあることだったが、私のことを責めたてるように話し出すのは二回目だった。

 「徹士先輩のことが好きで好きで仕方なくって生徒会に立候補して、副会長になって。あの人のことを一生懸命支えてきたのに、横から入ってきた美和先輩に簡単に取られちゃうんですもん。しかも、アンタは戦う気なんてなかった。ご丁寧にアンタの大好きな徹士先輩と、美和先輩をくっつけようとするんだ」

 彼は柔らかくない背もたれに背を完全に預けると、天井を見上げた。そして右手で顔を覆う。彼の表情は一切うかがえなかったけれど、それでも彼がひどく傷ついた顔をしているであろうことは容易に想像ができた。だけど私は彼に声をかけてやることはできなかった。私の声などきっと、彼は求めていない。

 「アンタ、ほんと正真正銘馬鹿だ。――でも、」

 がたんとイスの動く音がする。彼が立ち上がったのだろう。私は彼の姿を視界に入れることもできずに、ただただ地面を眺めていた。そんな私の耳に、彼の息を吸う音が聞こえてくる。そして彼は掃き溜めに捨てるかのように、言葉を紡いだ。

 「俺も、アンタと同じ、馬鹿だ」

 それだけ言うと彼は教室から出ていく。私はやっと地面から顔を上げ、もう彼の姿のない教室の扉を眺めていた。

 ごめん、と。そう言ってあげなければならなかったのだろう。でも、言えなかった。私が簡単に口にしていいと、思えなかった。


**


 私が余計なことをして、徹士と美和をくっつけて。自分の気持ちを押し殺せばそれで終わりだと勘違いしたまま、作り出した物語だった。徹士は私の幼馴染で私はずっとずっと徹士のことが好きだった。だから彼には幸せになってもらいたいと思った。私はこの押し込めた気持ちを、恋だと勘違いしていた。

 そう気が付いたのは二人の幸せを作り上げた満足感にひたっていたときのことだった。
私は二人の姿を美和に徹士を取られたほんの少しの悲しさと、二人にはしっかり幸せになってもらいたいという慈しみの目で見ていた。そんなとき、ふと気が付いたのだ。彼らを眺めているのは私だけではない、ということに。

 一年の梶谷愁斗といえば、有名人だった。私たちと同じ生徒会で書記を務める彼は成績優秀であったし、可愛げのある顔立ちは整っていると言えた。その噂は一つ上の学年である私の耳にも届くほどだった。

 同じ生徒会に属しているとは言え、私と彼が関わったのは数える程度しかない。私はそこまで交友的な方ではなかったから後輩への指導、管理は他のメンバーにまかせっきりにしていたし、彼がわざわざ私とかかわりにくることもなかった。それとは対照的に、彼と同じく書記を務めていた美和は、彼との関わりは大いにあったと言える。生徒会での集まりのときでも彼らは楽しそうに笑いあっていたし、プライベートでも彼が美和に幾度か相談しているのを見かけていた。その事実をすっかり忘れて二人の花園を作り上げた私は、二人を眺める彼の視線でようやく気が付いたのだ。ああ、梶谷は美和のことが好きだったのだ、と。

 しかし、すべてが手遅れだった。もう徹士と美和の二人に、他人が入り込む余地など見当たらなかったし、梶谷がいくら二人に対して深い嫉妬の情を露わにしても二人が気付くことはなかった。気が付いているのは、私だけだった。そこでもうこれ以上は踏み込まないと決心してしまえばよかったのに、そうできなかった私はずるずるとその関係を見守ることとなった。がしかし、それはすぐに梶谷にばれた。私の視線に気が付いてしまったのだろうか。梶谷はこちらを幾度となく見るようになった。

 ほとんど話したことのない美和のことを好きな後輩。私は梶谷をそんな風に認識していた。それが崩れたのは、一人生徒会の仕事をしながら教室に残る私に、梶谷が付き添うようになってからだ。何がきっかけだったのかは、覚えていない。だけど私たちは少しずつ距離を縮めていった。隠しきれない想いを胸に抱きながら。

 私はもう徹士のことは好きではなかった。いや、もしかしたら最初から家族愛のようなものを恋愛だと勘違いしていただけかもしれなかった。私は徹士が美和と幸せになっていくのを、温かい目で見守ることができたのだから。

 だけど梶谷は違った。いつだって美和のことを恋い焦がれるような目で見つめていた。そして叶わないと認識しては嫉妬にかられた表情をしていたのだ。私はそんな風に思われる美和を、うらやましいとさえ思った。「徹士に想われる美和」ではなく「梶谷に想われる美和」を、うらやましいと、そう思ったのだ。

 そう感じてしまえば、私は自覚せざるを得なかった。私は梶谷の想いも温かく見守っていたはずだったのに、いつの間にかそうでなくなっていた。徹士のときは美和に向けられたその想いをこちらに向けてほしいなどほとんど思わなかったのに、梶谷の想いは美和に向けてほしくない。私に向けてほしいと、切に願ってしまった。私は、梶谷のことが好きになっていた。

 どうしたらいいかわからなかった。徹士のときはできていた気持ちを押し込めるという行為は、できなかった。いや、ひた隠しにして梶谷にも、誰にも悟られないようにと努力はした。梶谷はいまだに美和のことが好きだったから、私の想いが彼に伝わったところで成就することはないと思ったのだ。だけど、想いを捨てることは、できなかった。ひた隠しにして悟られないようにして。どうせ一生伝える気もないと思いながら、捨てることだけはできなかったのだ。ガムのようにべったりと張り付いて、離れてくれないこの想いを捨てられたらどれだけ楽なのだろうと何度も考えた。梶谷とは相変わらずたまに一緒に残業してくれる仲で、一緒に徹士と美和を眺める仲でもあった。そこから逸脱するのは怖かったし、わざわざする必要もないと思った。

 だから私は足踏みをしながらその場に立ち止っていた。梶谷との関係が進むのも、後退するのも怖かった。だけど彼はそんな私のことなど知りもしないかのように無理やりに、私の足を動かした。


 「咲先輩は、徹士先輩のことが好きなんですよね」

 ある日彼は今度の生徒総会で使う予定の資料のホチキス止めをしながらそう言った。私は内心どきりとしながらも、それを表情に出さないように余裕のある「先輩」を装うような答えを出した。

 「そう、思う?」
 「……俺は、美和先輩のことが好き」

 間髪入れずに吐き出された言葉に、驚きを隠せず私は思わず手を止めた。梶谷自身特に隠しもしていなかった気持ちだったとは思うが、こうして彼が口に出して言うのはさすがに破壊力があって、私は動揺した。

 「――なんだと、思ってますか?」

 彼の意図がまったくわからなかった。私を試すような言い方をしながらも歪んだ表情をする彼が、どんな答えを求めているのか、わからなかったし、それを考えるだけの余裕もなかった。

 「う、……ん」

 私のその答えを聞くと、彼は笑った。声をあげて笑った。でも私に背を向けていたからどんな表情で笑っているのかは、まったく想像もつかなかった。無理やり私の足を動かさせて、私と梶谷の関係を脆くさせて。いったい何がしたかったのか。わからなかった。


**


 私は地面にぺたりと座り込む。梶谷が出ていってしまった扉をいまだにぼうっと眺めている私の姿はさぞ滑稽なものだったろう。それでも、身動きが取れなかった。無理やり動かされてもとの位置から数歩進んだ中途半端な位置で、私は何もできずに佇むしかなかった。梶谷がまだ立ち止っているのか、それとも進みだしたのかもわからなかった。ただ私はこんな風になっても消すことのできない気持ちを胸に抱えて、そこに居座るしかなかった。

 「梶谷は、馬鹿じゃない」

 アイツは自分のことを私と同じように馬鹿だと称したけれどそんなことは全然なかった。一途に美和を思う姿を馬鹿だなんて思うやつは、いない。

 「馬鹿は、私だけだ」

 おぼれて身動きができない。呼吸もできない。

 どうせ振り向いてもらえないどうしようもない恋だとわかっているのに、この想いを消すことができない。どんどんと、海の底へと沈んでいく。後戻りも、できない。救済の道も、ない。私は、おぼれて死ぬしかないのだと、悟ったのだった。



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