賑わう酒場の隅。真紅の髪を上のほうで一つに結んだ少女はジョッキを片手に項垂れていた。その隣にはゆるいウェーブのかかった黒髪を結わうことなく流している同い年くらいの少女。黒髪の少女は赤髪の少女をなだめるように話を聞いていた。

 「もう私はっ、男なんてねえ」

 そう言いながら赤髪の少女はジョッキの中半分くらいまで入っていた酒を勢いよく飲み出す。

 「ああっ! リゼット! もう止めなさいよ!」

 黒髪の少女はそう声を上げるも、その声は赤髪の少女、リゼットには全く届いていないようで、ぐいっとすべてを飲み干してから空になったジョッキを鈍い音を立てながら机の上に置いた。黒髪の少女、アイリーンはついつい頭を抱えたくなったがそれよりもこの少女を止めるためにはどうすればよいのか考えていた。

 「アイリーン。今夜は飲み明かすわよ」

 リゼットはそう言うと「フランツ! もう一杯お願い!」と大きな声で彼女の幼馴染を呼びつけた。その様子を見ながらアイリーンはやはりため息をつくしかなかったがしかし、フランツがここへやってくるなら自身の役目は終わりだなどと頭の片隅で考えていた。

 「リゼット……君、どれだけ飲む気だい?」

 呆れた表情を浮かべながらやってきたフランツはリゼットの前に置かれていたジョッキをリゼットから遠ざけてから、ゆっくりとリゼットの隣に腰を下ろす。そしてリゼットの隣に座っていたアイリーンを見ると申し訳なさそうに笑って見せた。

 「悪かったね、アイリーン。リゼットの相手は僕がするから、君は……ね?」

 フランツは言葉を濁しながら酒場の中央に集まっている集団を見る。その意図はアイリーンに伝わったようで、アイリーンはかっと一瞬のうちに顔を真っ赤に染め上げた。それを恥ずかしく思ったのか少しうつむいてみせるもあと一歩で泥酔というところまできているリゼットはともかく、ほぼ素面のフランツをも欺けるはずはなかった。

 「フランツ……あんた……」

 こみあげてくる感情をすべて吐き出してしまえば楽になるのだろうが、それを吐き出すことにはリスクが伴う。アイリーンは仕方なしに、「ありがとう」とまるで嫌味でも言うかのような表情でフランツに告げてからその場を去って行った。

 「ああっ! フランツあんたなんてことするのよお! 私、今日はアイリーンと飲み明かす予定だったのに」

 「リゼット、人様に迷惑をかけるもんじゃないよ」

 「迷惑? かけてないわよそんなの! それより! お酒! 返して!」

酔っていることが表情にはまったくでないタイプの彼女であったが先ほどから飲んでいる量を考えるに、酔っていないはずなどない。フランツは、はあっとため息をついてから水がなみなみと入ったグラスを差し出した。

 「これ、水よね? 私お水なんていらないんだけど」

 不機嫌さを隠すこともせずににらみつけてくるリゼットに、フランツは無言で水を飲むように進める。しばらく無言でフランツをにらんでいたリゼットだったがフランツには到底勝てそうもないと踏んだのだろうか。目の前に置かれたグラスに手を伸ばし、グラスに口をつけた。

 「何か、あったのかい?」

 そう、少しリゼットの様子を窺うように尋ねるフランツ。もう十何年もともに過ごしてきた仲だ。大体のことはわかっているだろうに、と思いながらもやはり吐き出す先が欲しかったのだろうか。リゼットはグラスを置くと口を開いた。

 「ちょっとね、いい感じになってた人がいたのよ」

 「……うん」

 「何回かご飯食べて、キスもして……なのに、なのによ? 私が魔導士だって打ち明けたらどうしたと思う? さあって顔を真っ青にして『今までのことはなかったことにしよう』、『僕より強い人とは付き合えない』って! それ、どういうこと? ねえ、どういうことなのかしら。……あのキスは! なんだったの! 私への気持ちは、私が魔導士だからって消え去るような、そんな甘っちょろいもんだったのか馬鹿野郎! って、なるでしょ! なるわよふつう!」

 ほとんど息継ぎもせずに言い切ったからだろう。顔は真っ赤で、酸欠状態。リゼットは明らかに興奮していた。フランツはそんなリゼットをどうなだめようか考えながら笑うしかなかった。なにせ、

 「まあまあリゼット、少し落ち着きなよ」

 「これが落ち着いていられるもんですか! 『僕より強い人とは付き合えない』。このセリフもう、聞き飽きたわよ! いったい何回目だと思ってるの? 記念すべき二桁目よ! 十回目!」

 ――なにせリゼットは毎回毎回、同じセリフで振られているのだから。
 

 リゼットはこの国屈指の魔導士である。性別は確かに女であるが、そこらの男どころか並の魔導士では到底及ばないような強さを誇る魔導士だ。それだけに飛び交う噂も多く、その特徴的な髪の色から名づけられた「真紅の魔導士」という通り名とともに、まさに名前が独り歩きしているような状態で、その名を知っている者は決して少なくなかった。

 しかも彼女にしてやられた男たちも少なくなく、「おそろしい女魔導士」とまで言われているらしかった。そのような状態でリゼットに近づこうとする物好きなどいるはずもなく、リゼットはどうしたものかと頭を悩ませるしかなかった。

 「やっぱり……一般人と付き合おうとするのが無謀だったのかしら」

 はあっと大きくため息をついて項垂れるリゼットの背中をフランツはゆっくりとさする。肯定も否定も、するのは無責任だしできない。だからせめてリゼットの気を和らげるくらいはと、フランツはリゼットが振られるとたいてい背中をさすってやっていた。

 「でも私、魔導士と付き合うなんて無理。絶対無理」

 リゼットは酒場の中央で騒いでいる仲間たちを見やる。そしてげんなりとした顔で目線をもとに戻した。

 魔導士は総じて変人が多いと、リゼットは考えている。魔力が宿るには精神力が必要だと言われているし、魔物を普通に相手にできてしまうなんて、常人にはできないだろうとも、思う。聞いた話によると、あの気持ちの悪い魔物を飼っていたり、解剖したりする輩もいるそうなのだから、怖いものだ。

 そんな変人どもと、ほぼ毎日顔を合わせ、行動するというのに、プライベートまで一緒だというのは本当にどれだけの精神力があれば良いというのだろうか。……いや、やはり自分には無理だとリゼットは思い直す。

 「もう、一生独身でいろってことなの!? このやろー!」

 そう言ってからその場にあったグラスに入っていたものを、勢いよく飲み干す。

 「……あっ、リゼット! それ!」

 どうせフランツが先ほど持ってきてくれた水だと、フランツの静止の声も聞かずに飲み干したとき机に置かれたリゼットの飲みかけの水が目に入る。

 「え、あれ? これ……」

 世界が、一回転する。ぐるっと回って、体に力が入らない。

 ああこれ、お酒だったのかと、気が付いた時にはもう遅く、やってしまったという顔のフランツを見たのが、最後だった。






 ギシリと、何かの沈み込む音が遠くで聞こえる。リゼットの意識はいま宙にふわふわと浮いているかのようだった。不意に何か温かいものが触れたようで、リゼットの体も温まる。そこでリゼットはやっとうっすら目を開いたが、思わぬ光景にもう一度目を閉じてしまおうかとさえ思った。

 「あ……え?」

 「お目覚めかい、お姫様」

 こんな歯痒くなるセリフに、いつもだったら「気持ち悪い」くらいのことは返してやるのに、それすら言えない。言葉が、出てこない。

 「えっと、なに、してるの」

 リゼットは動揺を隠しもせずに、フランツにそう言った。フランツは満足げに笑う。それがリゼットには理解できない。いや、どういう状況なのだろうこれはと、何度も頭を回転させようとするも、どうにも思考は停止してしまったようで、何も考えられなかった。

 「なにって……リゼットにはこれが、ただじゃれて俺がリゼットの上に乗っているようにでも見えているのかな」

 リゼットはさあっと血の気が引いたように、顔を真っ青にする。そう、リゼットが目を開いた瞬間に飛び込んできた光景は、ベッドで寝ていたリゼットの上に馬乗りになっているフランツの姿だった。驚いて言葉も出せないリゼットだったが、はっと気が付いたように、フランツを押しのけようと手を伸ばす。しかし、

 「おっと」

 フランツはそう声を漏らしながら、リゼットの手をつかむと、リゼットの頭の上にその両手を縛り付けた。

 「リゼット、君は確かに強い人だ。だけどね、君は女の子なんだ。こうやって、魔導士でも騎士でもない俺の片手でも、簡単に君の両手を封じ込めることができるんだよ」

 リゼットは悔しそうに顔を歪めた。試しに少し手を動かしてみようとするも、フランツの手はびくともしない。自分のことを強いと思っていたリゼットにとって、これは衝撃だった。

 「それにね、リゼット。君の魔法だって、」

 言いながらフランツは、リゼットへと顔を近づける。そしてフランツは軽いリップ音を立てながらリゼットに口づけをして見せた。その瞬間、真っ青だったリゼットの顔は一変して、真っ赤に染め上がる。フランツはそれを見て小さく笑ってから、口を開いた。

 「こうやって、塞いでしまうことができるんだ」

 リゼットは魔導士であるが、詠唱しないことには魔法を生み出すこともできない。フランツの言っていることは確かにある意味では正しかった。

 「君はいつだって騎士様だったり旅人だったり、俺よりも全然強い人を好きになっていたけれど……ねえ、そろそろ……俺を、見てくれ」

 リゼットの手の拘束が解ける。そしてフランツはリゼットの胸に顔を埋めると優しくリゼットを抱きしめた。フランツの言葉に驚いて放心していたリゼットだったけれど、やがてフランツにこたえるように、彼の背中に手を回す。それからゆっくりと、言葉を紡ぎだした。

 「私はフランツの隣にはもっと可愛い子が似合うと思っていたの。それこそ、アイリーンみたいなふんわりした子ね」

 「アイリーン? 彼女はそんなに可愛い性格はしていないと思うけれど」

 すぐに顔を上げて、眉間にしわを寄せながら反論するフランツにリゼットは小さく笑った。

 「そうね。そんなに可愛い性格はしていないと思うけれど、でもあの子はなんだかんだ女の子らしいからね。だから、フランツも……アイリーンのこと、好きだったんでしょう」

 その言葉にフランツは勢いよく起き上がる。そして同様にリゼットの体も起き上がらせると、先ほどよりさらに眉間にしわの寄った顔をしながらリゼットの肩をつかんだ。

 「なにそれ。俺、別にアイリーンのこと、興味もないんだけど!」

 「だって、いつも二人で微笑みあってたじゃない。仲、良さそうに」

 「微笑みあってた!? ……ああ、それは俺が君のことを好きだってことは彼女にはばれてたし、彼女の好きな人のことも知っていたから、励まし半分からかい半分だっただけだ! 俺が彼女に好意を持ったことなんて一度もないし、彼女が俺に好意を持ったことだって、一度もないはずだよ!」

 まくしたてるようにそう言ったフランツに、リゼットは呆気にとられたような顔をした。そして状況を理解した途端に、ベッドの上にあった枕に顔を押し付けた。

 「……ねえ、リゼット。聞いていいかな。今のはもしかして、嫉妬ってやつ……だったりする?」

 「やめて、言わないで! いま、すっごく恥ずかしいの!」

 耳まで真っ赤にするリゼットが、いつにも増して愛しく思えて、フランツは思わず頬を緩ました。リゼットは相変わらず、うわ、とか、ああっ、とか声を発しながら必死に恥ずかしさを隠しているようだった。その姿をしばらく見て彼女が鎮まるまで待っていようかと思っていたフランツだったが、耐えきれずに彼女をやさしくやさしく抱きしめる。リゼットは唐突に感じたぬくもりに一度肩を震わしたが、それ以降特に抵抗という抵抗もしなかった。

 「私、」

 リゼットは興奮が冷めやらない状態で、言葉を発した。いま言わないと後悔すると、そう思ったのだ。

 「フランツのこと好きよ。……最初から、ずっと」

 「え?」

 「私が、恋人が欲しいって言い出したの、いつからだったか分ってる? フランツとアイリーンが仲良くなりだした時からよ。それなのに『自分より強い人は……』みたいなセリフで振られまくるし、相変わらずフランツとアイリーンは仲良いしで、傷ついたわよ」

 「……うん、ごめんよ」

 フランツはリゼットの赤い髪をなでる。赤い髪は情熱の色。薄暗い部屋で見る彼女は、可愛いだけでなくどこか艶めかしかった。

 「だから、責任取って。私を、幸せにして?」

 リゼットのそんな言葉にフランツは一瞬動きを止めた。それから我に返ったようにふんわりと微笑んだ。

 「ああ、もちろんさ。俺は君を、世界一幸せにしてみせよう。だからずっと、俺の隣にいてくれ」

 フランツはそういうと、リゼットの唇に自分のそれを重なり合わせた。そしてゆっくりと離すと、もう一度、今度はもっと深く口づける。


 ――「真紅の魔導士」を手懐けた一般人の噂が飛び交うのは、もう少しだけ先の話。




(魔導士の恋)



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