「リザリア様。今日はダンスのお稽古でございます」
はあっと息を吐く。リザリアを逃がすまいと目の前に立った男、アーデルテはこちらを怯ませるほどの笑みを浮かべていた。それが恐ろしく、リザリアの動きを封じる。
リザリアは自分が椅子に座っていることをひどく後悔した。これではアーデルテから簡単に逃げることなどできない、と。
リザリアがこの城にやって来て数週間が経った。その数週間はリザリアにとって、農作業よりもずっと過酷なものに違いなかった。
ぎっしりと詰め込まれたスケジュール。しかもダンスや作法や学問やら。リザリアは、ダンスなぞこ洒落たものに触れたことはないし、作法もここで通用するようなものは持っていない。学問などもっての他で、さすがに文字は読めるし最低限の知識は持っているつもりだったが、歴史や経済などはさっぱりだった。
だからすべて、一からのスタートである。リザリアは思わず頭を抱えたくなった。
泥まみれになって農作業をして。腰が痛いなどと笑っている方がよっぽど良い。
などと、思っても父や義母の前では絶対に口に出すことはできなかった。二人がそれを聞いてどんな顔をするのか。リザリアには想像できてしまった。
そうして、リザリアは嫌々ながらも取り組むことになる。……ただし、そう続かなかったが。
一週目は仕方なしにとは言いながらこなしていたリザリアだったが、二週目となると出席はするものの怠惰になっていく。さらに三週目に入ってリザリアは早くも脱落し、もう3日ほど稽古に顔を出していなかった。その時点ですでに心身ともにくたくただった。やはり自分にこれは向いていないのだと、思わざるを得ないほどに。
そんなリザリアを見かねた父と義母が送ってきた刺客。それこそ、いま目の前にいるアーデルテなのだった。
「あ、私、少し調子が悪くて」
「……へぇ?」
アーデルテはすっと目を細めてリザリアを見る。リザリアは思わず後ずさりたくなったが、そこで椅子に座っていることを思い出した。
「シエラから、『本日も元気に朝食を取っておられました』との報告を聞きましたが?」
シエラ!
リザリアは、アーデルテがこの部屋に入ってきたときに追い出された侍女を思い浮かべた。シエラは仕事が早く気遣いのできる素晴らしい侍女だが、何分素直すぎる。きっとアーデルテに問われて、笑顔で答えたに違いないことを思うと、どうにも責められなかった。
「いや……あの、ね」
さぼり過ぎると怠けることに慣れてしまうのが人間の性分である。まさにリザリアはいま、その状態だった。
特に行きたくない理由もないが、行きたい理由もない。
アーデルテさえどうにかすればなんとかなる。そう思ったリザリアがどれだけ浅はかだったことか。
「生憎私は貴女の執事ではないのです。……手間を取らせないでください」
そう。アーデルテをどうにかできるはずなどなかった。
リザリアはアーデルテに不機嫌そうに睨まれる。逃げることなどもっての他。言い負かすことも、騙すこともできそうにない。リザリアはそう、確信した。
「いま、行きます」
引きつった表情を浮かべながら、リザリアは立ち上がる。アーデルテはそれを満足げに見ながら、リザリアをエスコートした。
ただし、リザリアにとってみれば、「エスコート」というよりも「捕獲」という言葉の方が合っている気がしたのだが。
「疲れた……」
リザリアはぐったりとした様子で部屋に戻ってきて、少し音をたてながら椅子に腰を下ろした。侍女のシエラはリザリアのそんな姿を見て、紅茶を淹れる。
「お疲れの様子ですね」
シエラの淹れた紅茶は湯気がたってはいるものの、飲めないほどに熱いわけではなかった。リザリアはいまだそれを手にとってはいなかったが、紅茶のよい香りは部屋に広まっていく。
「シエラも、ダンスできるの?」
リザリアはやっと紅茶を手にして、その温かさを確かめてから口にした。
この城に来て初めて紅茶を口にしたとき、どれだけ驚いたことか。イストーヴァのような田舎では紅茶など、めったに口にすることはできなかった。口にすることがあってもその紅茶はここで出されるものとは、比べ物にならない。ここの紅茶は、美味しすぎるのだ。
「ええ、」
リザリアはティーカップから唇を離して、静かに机の上に置く。そしてシエラの方を見た。
「淑女の嗜たしなみですから」
「へぇー、すごいなぁ」
シエラの仕草はどれも洗練されていて、田舎育ちのリザリアとは雲泥の差だった。だが、リザリアにしてみればそれは当然のことであるし、別段気にすることでもない。
「すごいと思うのなら、貴女もさっさと上達したらいかがです?」
この、笑顔で毒を吐く男さえ、いなければ。
「まだいたの? 仕事は? さっさと出てったら?」
リザリアは恨めしげにアーデルテを見る。そして視線が交わった瞬間に、先ほどのダンスの稽古を思い出して嫌な気持ちになった。
散々だった。今まで受けた稽古の中でも、群を抜くほどに。
リザリアを有無を言わせぬ態度で連れていったアーデルテは、先生にリザリアを引き渡すとすぐに去っていく。……のかと思いきや、厳しい顔つきで稽古を眺めていた。
リザリアは最初こそそれを気に掛けていたが、次第にそんな余裕はなくなっていく。ダンスを頭に詰め込むので精一杯だった。だから忘れていたのだ。アーデルテの存在など。
アーデルテが、声を発するまでは。
「まさか、ここまで酷いとは思いませんでした。この2週間、何をなさっていたのですか?」
その言葉に唖然としたのはリザリアだけではなかった。リザリアに懇切丁寧に教えてくれていた先生までもが、アーデルテを見ながら固まっていたのだ。
この場はすでにアーデルテの独壇場だった。彼は固まる二人をよそに、リザリアの前までやって来ると、
「お手を」
と、言って、半ば無理矢理にリザリアに手を取らせた。
アーデルテのリードは驚くほどに上手かった。先程までのリザリアが嘘のように足が軽く、意思など関係ないように動いている。
だが、それはリザリアの主観的なことであってやはりアーデルテはリザリアの動きが気に入らないのか、頭上から鋭い視線を送っていた。
「顔を上げてください。私の顔は見なくて良いです。喉元を見てください」
先程より物腰柔らかなアーデルテの声に、リザリアは言われるがままに喉元を見る。その文官らしからぬ逞しい首筋に、思わず動きが止まった。
「リザリア様?」
様子をうかがうような声。ではなく、明らかに不機嫌さを秘めた声。語尾につけられた疑問符は意味を成していなかった。
「ああ、ごっ、ごめんなさい」
「……続きを、始めますよ」
アーデルテはリザリアの返事も聞かずにまた、踊り始める。リザリアはそれについていくので一杯一杯だった。
それから数刻経って、今に至る。リザリアは久々の運動に足腰に力が入らずにいた。一方のアーデルテは平然としていてそれがまた、リザリアを苛つかせる。
「午後は帝王学の講義です。また参ります」
軽く会釈をするアーデルテ。それから彼はリザリアの自室を出ていった。
「あーもう。あの人、暇なの?」
リザリアはアーデルテの出ていった扉に睨みを聞かせながら独り言のように呟いた。
「アーデルテ様ですか? あの方は、まだお若いのに王政の一役を担っていらっしゃるのですよ」
シエラはにこりと笑ながらそう言う。だが、
「えぇ? そうなの?」
リザリアには驚きでしかなかった。あの年で王政の一役を担うとは、よほど頭の切れる男に違いなかった。
「はい。なんでも、数年前にスコッティ家の再建のために養子となったそうですわ」
「へぇー」
しかも養子に取られるだなんて、よっぽど優秀だったのだろうと想像を膨らました。
「もし国王様の臣下から婿選びをされるのでしたら、アーデルテ様をお選びすればお喜びになりますわよ」
くすくすと笑うシエラ。リザリアは思わず顔を歪めた。そして口を開くのも鬱陶しそうにしながらも言葉を紡ぐ。
「私、アーデルテのこと嫌いなの。あのツンケンした態度が」
するとシエラは驚いたように目を真ん丸にしながらリザリアの言葉に反応した。
「アーデルテ様はお優しい方ですわ。侍女たちの中でも人気がありますもの」
「……シエラ、見たでしょ? 私に対するあの態度」
シエラはつい数分前に出ていったアーデルテを思い起こす。そしてリザリアとアーデルテのやりとりを思い出したのか、苦笑いを浮かべた。
「絶対私のことが嫌いなのよ。間違いないわ」
「まぁまぁ、そう言わずに。何か勘違いがあるのかもしれませんし、ね?」
シエラはそう言いながらなだめるが、リザリアの気持ちは収まらなかった。
リザリアは気持ちを落ち着けるために、紅茶を口にする。その香りはほんの少しだけリザリアを落ち着かせてくれた気がした。
だがしかし、これから午後にまた会わねばならないのかと思うと気が重くなる。しかも午後はリザリアの最も苦手な帝王学。気が遠くなりそうだった。
それでもほんの少し残されたプライドが、アーデルテに嘲笑われることを嫌がる。……どうせ、行ったところで文句の一つや二つは言われるのだろうが。
はぁ、と大きくため息を吐いた。
これから先、こういう生活に順応していくしかない。それはわかっているつもりだ。だが、頭でわかっていたところで、体がついていくかと言われれば疑問なところ。
もう一度、ため息を吐きたくなったがそれを抑えてカップを机に戻した。
リザリアは先行きが不安で仕方なかったが、これからまた頑張ろうと、意気込んだのだった。
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