「リザリア様、覚悟はよろしいですね?」
 リザリアは、覚悟なんていつだってしている気になっているだけだと、心の中で悪態をついてから、アーデルテの言葉に小さく頷いた。
 そしてアーデルテは、目の前の大きく重苦しい扉を開け放った。



 遡ること数時間前。
 アーデルテに連れられて入城したリザリアは、リザリア付きの侍女だという数名と自室に入った。本来ならこのまま弾力性の高いベッドで深い眠りについてしまいたいところだったが、アーデルテの「1時間後に迎えに来ます」という有無を言わせない言動で、リザリアが眠りにつくことは許されなかった。
 「リザリア様。こちらなどいかがですか?」
 しかも、国王陛下と対面するということで身なりもしっかりしなければならない。見たこともないようなきらびやかなドレスに、リザリアはげんなりとしていた。
 「では、それで」
 面倒くさいということを悟られぬように、リザリアは小さく微笑む。
 「かしこまりました」
 侍女はほんのり笑みを浮かべるとドレスを手にする。淡いピンク色のそれは、イストーヴァ育ちのリザリアにはまったく縁のないものだった。
 「リザリア様? 長旅でお疲れだと察しますが、コルセットをお付けいたしますね」
 リザリアはドレスの着方など少しもわからず、ただ呆然と侍女が自分にドレスを着せていくのを見ていた。
 しかしそう呆然としていることも、できなくなった。予想を遥かに上回る締め付け、着苦しさに思わずリザリアの顔が歪む。
 「リザリア様、いかがですか?」
 着替え終わったからといって、この辛さが消えるわけではない。リザリアはこれからの生活を思うと泣きたくなった。これがすべて夢だったらよかったのに、と。
 「……大丈夫です」
 リザリアは声を絞り出してそれだけ言う。いや。逆に、それしか言うことができなかった。

 それからそう間もなく、部屋にドアを叩く音が響く。
 「リザリア様。お迎えに上がりました」
 リザリアは横目で時計を見る。まったく言葉通り、寸分の狂いもなく1時間後に迎えに来たアーデルテが憎たらしい。
 それでも口に出すことはしない。したところで、それがただの八つ当たりだとリザリアは理解していたからだ。
 「いま行きます」
 平穏ではない心の内とは裏腹に、声は澄みきっていた。
 そしてリザリアは一瞬動きを止めてから、アーデルテの待つ扉の向こうへと向かった。



 「随分とまともになりましたね」
 アーデルテは部屋から出てきたリザリアをしばらく眺めてから、そう告げた。リザリアはその言葉を理解できずにいたが、理解してしまった瞬間、言葉にできぬこの男への怒りが募る。
 「本当に、失礼な人よね、貴方って」
 耐えきれずにリザリアはアーデルテを睨み付ける。アーデルテは一瞬ぽかんとしていたが、すぐに我に返ると口角を上げた。
 「馬子にも衣装とはこの事です。お似合いですよ、リザリア様」
 取って付けたような最後の台詞。だがしかし、それに毒気を抜かれたようにリザリアは黙り込む。
 アーデルテはリザリアの様子を伺っていたが、やがてリザリアに声をかけて歩き出す。リザリアも国王陛下をお待たせしていると聞いて、血の気が引いたような顔をしながらアーデルテの数歩後ろをついていった。

 アーデルテとリザリアの間に会話はない。長く閑散とした廊下をただ歩いていた。いつもならもう少し人通りのあるはずのこの廊下だったが、なぜか今日は二人だけ。アーデルテはどうとも思っていない様子だったが、リザリアにとってみたら気まずくて仕方がなかった。
 だけど、アーデルテの大きな背中に声をかけるほどの勇気はない。やはり二人は国王陛下の部屋の前まで、無言で歩いていくしかなかった。

 「リザリア! よく来てくれた!」
 国の外れに住んでいたリザリアは国王陛下の顔すら見たことがなかった。名前と栄光だけが一人歩きして、聞こえてくる。
 それはそれは素晴らしい功績ばかりのこしておられる方。リザリアには縁のない方。そう思われた人が、いまこうして自分の名前を呼び、瞳を潤わす。リザリアには信じられない光景で、固まったように国王陛下の前で動くこともできずにいた。
 「陛下。リザリアが固まっていますよ」
 リザリアは視線だけ、その声の方へと向ける。そこにいたのは夢にも見ないほどの麗しい女性。艶のある黒髪がまた、彼女を引き立てていた。
 「エルネティア……。私がどれだけ待ち焦がれたと思っている」
 陛下は妃の名を呼んで、軽く睨み付けた。リザリアははっとして、姿勢を正す。
 「陛下はリザリアの気持ちがわかっていらっしゃらないわ。ね、リザリア?」
 エルネティアはリザリアに微笑みかける。まさに正妃という華やかさと優美さを兼ね備えた笑みに、リザリアは後ずさりそうになる体を抑える。
 「いえ、先ほどは失礼致しました。お会いできて光栄にございます」
 作法など知らなかったが、リザリアは深くお辞儀をする。どのタイミングで顔を上げればいいのかもわからずに、しばらくそうしてからやっと顔を上げる。陛下は少し寂しそうな顔をしてから、口を開いた。
 「私は君の父親なのだ。そのように頭を下げたりなど、しなくて良い」
 「ですが……」
 リザリアは困ったように言葉を濁した。父というのがいくら事実であれ、この方は国王陛下。リザリアにとってこの状況は戸惑いを隠せないものだった。
 「リザリアは、レティーにそっくりだな」
 陛下は懐かしむようにリザリアを見る。それはリザリアに母を重ね、愛しんでいるようだった。
 「そのように言われたのは初めてです」
 リザリアは脳裏に母を浮かばせる。優しく美しかった母。それとリザリアが似ているのはこの金色の髪くらいなものだった。だからリザリアは陛下の言葉に、心底不思議そうな表情を浮かべていた。
 「美しい金色の髪も、優しげな瞳も。本当に彼女を思い起こさせるよ」
 陛下はとてもとても優しげな表情をしていたが、リザリアは不安でたまらなかった。そしてリザリアは少し躊躇ってから、言葉を選びながら口を開く。
 「……しかし陛下。私の母は陛下のもとから去りました。母を、恨めしくは思っていないのでしょうか」
 リザリアの言葉は自身の胸に深く突き刺さる。リザリアは陛下のことも、エルネティアのことも見ることができずに俯いた。
 「レティーは、優しい子ですから」
 リザリアの予想に反して問いに一番に答えたのはエルネティアだった。それから間もなく、陛下も口を開く。
 「ああ。だから……私の子を身籠ったからこそ、私の前から去っていったのだろうな。もしあのまま子を生んでいたなら、私は迷わずレティーを正妃にしただろう。だが、それは元老たちや臣下だけではなく民衆の避難は必至のことだ。だから、なのだろう。私のため、だったのだろう……」
 語尾が消えるように小さくなっていく。陛下の表情はリザリアにも想像に難くなかった。
 「母は、陛下を愛しておられたのですね」
 これほどまでに。
 リザリアは目の縁に涙が溜まっていくのがわかった。
 リザリアは以前、母が亡くなる前に再婚しないのかという話をしたことがある。記憶の片隅にあってすっかり忘れていたが、母は確かに「一生をかけて愛すと決めた人がいる」、そう言ってのけたのだ。それがまさか国王陛下だとは夢にも思わなかったリザリアだったが、国王陛下がこんなにも優しい表情で母を思い出してくれるなら、と涙を拭った。
 そして、国王陛下と同じように微笑んでいたエルネティアに向き直る。
 「エルネティア様。貴女様は母を恨んではおられないのですか? 貴女様がありながら、陛下を愛し、子まで身籠ってしまった私の母を」
 リザリアは俯いてしまいたい心持ちだった。しかし、俯いてはいけないと。なぜかそう思った。
 リザリアの言葉を聞いたエルネティアは驚いた顔をする。やがてその表情を穏やかなものにすると、リザリアに語りかけるように言葉を紡いだ。
 「私はね、陛下よりむしろレティーのことの方が愛しているわ」
 驚いた表情を作るのは、リザリアの番だった。エルネティアは陛下と同じような優しげな表情をリザリアに向ける。
 「私と陛下はもう兄妹みたいなものなの。それにレティーは妹のようで可愛くてね。そんなレティーが陛下に恋をしたと知ったときは全力で応援したわ」
 母を取り巻いていた状況を想像したリザリアは不覚にも、また涙を浮かべそうになった。母は愛されていたのだ。その事実がたまらなく嬉しかった。
 「だからね、恨んでないのよ。むしろ陛下に愛を教えてくれて、感謝してるくらい。私と陛下には男女の愛なんて、存在しないもの」
 「ありがとう、ございます」
 絞り出した声は果たして聞こえただろうか。リザリアはまた涙を拭って、顔を上げる。そこには、それはそれは優しい瞳でリザリアを見つめる二人がいた。
 この方々は自分にも愛をくれようとしている。そのことが、ここで過ごすのが嫌だったリザリアの心を溶かしていった。
 「ところでリザリア」
 「はい、なんでしょう、陛下」
 陛下の言葉にリザリアがそう応えると、陛下は少しだけ眉間に皺を寄せた。そしてコホンとわざとらしい咳をしてから、口を開く。
 「私は陛下と呼ばれるのが好きじゃないみたいだ」
 「え?」
 「……だから、」
 リザリアは訳も分からずただ照れた様子の陛下を見つめる。
 「だから、『父』と、呼びなさい」
 「『父』、ですか」
 反射的に、その言葉を繰り返す。誰のこともそう読んだことがないリザリアには、それはくすぐったい。
 「あら。だったら、レティーには悪いけど私のことも『お義母さん』って、呼んで欲しいわ」
 エルネティアは楽しげにそう言う。
 やっと状況を理解したリザリアはとても暖かい気持ちになる。これがずっと続けばいいのにと、思うほどに。
 「はい。……お父様、お義母様」
 満面の笑みを浮かべながらリザリアはそう漏らした。お父様もお母様も、嬉しそうな顔をしていた。

back



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -