今日こそ、今日こそっ!
そう意気込んで、長身で焦げ茶髪の彼の背中に、言葉を投げ掛ける。
「おはよう!」
彼はつけていたイヤホンを外してこちらに振り返る。
「おはよう」
同じ時間に同じ列に並んで、同じ電車に乗り込む。例の彼と朝の時間を共有するのはもう、日常となりつつあったけれど私は、
今日こそ、……聞く!
私はまだ、彼の名前を知らない。
あの、初めて朝の電車で彼に会った日から、私はできる限り同じ電車に乗るようにしている。たまーに、寝坊しちゃうこともあるのだけど。
もうあの日からはかれこれ一週間とちょっと。私と彼が共有できる時間はたったの15分くらいだけれど、それでも最初に比べれば大分距離が縮まったと思う。
……ただ、まだ彼の名前を知らないけれど。
だから今日こそは聞こうと息込んだけれど、
「はぁ」
会った瞬間に、力が抜けた。
「ん、どうしたの?」
電車が到着してその音に掻き消されて私でさえも上手く聞き取れなかったため息を、彼は敏感に聞き取ったようだった。
私はそれを曖昧にぼかして、電車に乗り込んだ。
どうしよう。聞けない。
そう思いながらも定位置につく。入り口とは反対側のドア。それの左側。そこが私たちの定位置だった。
「あー、今日やだな」
「何か、あるの?」
まだ少しだけ、敬語じゃないのは慣れない。でもどうやら私が敬語なのは彼が嫌らしい。そう数日前に言われたのが、私の脱敬語生活の始まりだった。
まぁ確かに、敬語じゃなくなってからの方が距離が縮まった気がする。
「今日は夏の大会の団体メンバー決めなんだ」
「へぇー……」
団体メンバー、って。何部なんだろう。
私は彼の様子をちらちらと窺う。彼は眠そうにしていた顔をこちらに向けて、首をかしげた。
「どうかした?」
「いやっ、あの、」
よ、よし! 聞こう!
ぎゅっと強く握った拳。爪が食い込んで少し痛い。
「部活、何なの?」
聞いた……! けど、
「あー、言わなかったけ? 俺、テニス部」
部活の方聞いちゃった。
部活より大事なものがあるでしょ、私。
自分のことだけど。自分がいけないんだけど。心底呆れた。
「でもウチの部活、雨降ったり降りそうだったらすぐ練習なくなんだ」
にかっと笑った彼。
部活を知れたのは嬉しいけれど、それ以上に知りたいことは聞けない。いまさら? って感じだし。タイミングが、つかめない。
と、落ち込んでいたものの、聞こえていた彼の言葉を反芻させてやっと飲み込んだ。
「もしかして、雨の日に会えるのって」
「ああ。部活ないからね。そん時は大体あの時間だよ」
わぁ……!
私の表情が一気に晴れる。自分でも単純、と思ったけれど季節は梅雨。雨の降る確率は高い。
「じゃ、もう着くから」
「うん、じゃあね」
電車から降りる彼の後ろ姿を見つめる。
そっか、雨の日、かぁ。
なんて雨の日が待ち遠しくなる一方で、名前を聞くことができなかったことへの嫌悪感が募る。
空はまだ、青かった。
*
「また聞けなかったの!?」
うぅー、耳が痛い。
私はうつ伏せていた顔をゆっくりと上げて梓を見た。そしてまた、今度は勢いよく顔を戻す。
「だってさ、なんか、今更な気がして、聞けなくて、さ」
「はぁ?」
私の声とほぼ被るようにして梓の不機嫌そうな声が聞こえてきた。そして私の頭が鷲掴みにされて、無理矢理に顔が上げられる。
「あのね。今更って言うけど、ここまで聞いてこなかったのは誰? 彩月自身じゃん」
ぐさぐさと胸に突き刺さる。それは正鵠を射ていて、だからこそ胸が痛い。
「私、だけど……」
「だけど、何? 奴も聞いてこなかったって? そんなん関係ないわよ。問題は彩月が知りたいかどうか、聞くかどうか、でしょ?」
「そうだけど、」
今更聞くのも恥ずかしい。
そんなバカみたいな羞恥心が私の足枷になっている。それが、とてつもなく重い。
「まあ、私は別に関係ないからさ。全部、彩月自身だからね?」
決めるのは。
最後に付け足したその言葉は、ひどく優しかった。
「……うん、聞くよ。自分のためだもん」
その言葉を自分に言い聞かせて。頭の中を、ぐるぐると回らせた。
窓からは眩しい陽の光が注ぎ込まれる。空は雲ひとつないほどの晴天。降水確率も10パーセントほど。たぶん雨は、降らない。
今朝はあんなに雨の日が待ち遠しかったはずなのに今はむしろ、雨が降りそうにないことが嬉しい。
自分のため。聞きたい。そうは思ってもやはり、踏ん切りはつかない。
だから今日ばっかりは、雨でなくてよかったと、思ってしまった。
*
「はぁ」
私は大きくため息を吐く。そして腕時計で時刻を確認して、さらに気分を沈ませた。
私の意気地無し。
そんな風に心のなかで何度も何度も自分を罵倒して。でも結局たどり着いたのは「朝、彼と同じ時間の電車には乗らずに、従来の時間に乗る」という結論。昨日は意気込んでみたものの、やはり私は弱虫で意気地無しで、勇気など持ち合わせていなかった。
結局すべては自分次第。私が彼との壁をなくしていく努力をしなければ、何も変わらない。それはわかっているつもりだった。だけどいままで、自分から何かをしたことなんてない。だから踏み出すのが怖いし、できない。
やがて電車が到着して私は人に紛れながら乗り込んだ。この時間の電車は混雑していて、嫌になる。
「あれ?」
そこに突如飛び込んできたのは、いま聞きたくて、それでもって一番聞きたくなかった声。顔を、上げたくなかった。だけど、
「おはよう」
声をかけられて無視するような非情な人間には、なれなかった。
私はゆっくりと顔を上げる。視界に入ってきたのはやはり彼。おまけにやんわりと微笑んでいる。
「うん、おはよう」
なんでこんなときに限って、会ってしまうんだろう。私の心はまだ、ふわふわと浮いたままなのに。
「今日はこの時間なんだね」
私は口早にそう言った。心に準備などまだ、できていなかった。
「今日からテストだからね。3日間は部活オフ」
朝から会えて嬉しい。でも、この図ったようなタイミングは嬉しくない。神様からのお達し? せめてこの期間内に聞けって? それが本当なら、なんて意地悪な神様なんだろう。私にはまだ、そんな勇気ないのに。
「テスト、大変だね」
ははっ。頑張って話を繋げて。それでもって、引き延ばそうとして。
バカじゃないのかと、自分でも思う。だってこれは、「must」じゃなくて「want to」であるはずなのに。
「今回はそんなに範囲広くないから、たぶんなんとかなる」
そう言ってから彼は話を続けて、私はそれに相づちを打っていたけれど、ほとんど聞いていなかった。相づちを、打っていただけ。
いつ聞こう。どうやって聞こう。
そんなことを考えて、できれば遠回しにしたい自分が情けなくて恥ずかしい。別れの時は刻一刻と迫ってきているのに。
「あ、もうそろそろだね」
はっとした。
もう園ちゃんの最寄り駅を出発するところだった。時間が、なかった。
「あ、の!」
なんでだろう。何がそうさせたんだろう。意気地無しで弱虫で、聞く勇気なんてなかったのに、
「名前、教えてください」
ああ、いま。
やっと、聞いた。
「え?」
「えっと、私、宮辺彩月です」
言っちゃえばなんとかなるもんだ。きっとこの後に激しく恥ずかしくなるんだろうけど、もう、いいやと思った。
目の前の彼は戸惑ったような表情をしてから、口を開いた。
「あ、あーっと。……俺、伊勢谷(いせや)。伊勢谷貴大(たかひろ)」
「伊勢谷、くん……」
「うん、そー」
にっこりと笑った彼の顔にもう、戸惑いはない。私は地に足がつかない感覚で、ぼうっとしていた。
そして電車は駅に入っていく。
「じゃあね、宮辺さん」
私の名前が呼ばれた。彼の、いや、伊勢谷くんの口から。
「うん、ばいばい! ……伊勢谷くん」
ドアが開いて彼が電車から降りていく。私は小さく手を振っていて、彼も微笑みながら振り返してくれた。
やがて彼の背中が小さくなる。
「伊勢谷くん、かぁ」
人の目も気にせずに、そう呟く。その名は幾度か頭の中で反芻されて、すとんと綺麗に収まった。
不意に見上げた空は、どこまでも広がる青い空。それに一抹の寂しさを感じる。
テスト期間ということはおそらく、帰りは早いだろうし会えないだろう。そう思うとやっぱり、私と伊勢谷くんを繋いでいるのは「雨」な気がした。
だから雨、降らないかなぁ、なんて。
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