ぷしゅーっと音がして、揺れが止まる。私はその衝撃で浅い眠りから目覚めて、ゆっくりと目を開いた。
どこだろう。……って!! 降りなきゃ!
私が覚醒したときにはすでに開いていたドア。いつ閉まるか気が気じゃなくて、もし私が出る前に閉まったらどうしよう。だとか、頭では色々考えていたけど、体は単純だった。出なきゃいけない。それだけを考えてドアへ向かう。幸い乗車客はいないらしく、私は飛び出るように電車から降りた。
「助かったあ」
背後ではドアが閉まっていて、やがて電車が去っていった。私はそれを見終わらないうちに改札口へと向かう。私が寝ている間に雨は降りだしていたようで、小雨だったけれど目に見える程度には降っていた。ずしりと肩が辛くなる。私は鞄を一瞥してから辺りを見渡しながら改札を出た。
今日もいないのかな。
私はいまきっと、沈んだ表情をしている。なんとなく、鏡を見なくてもわかった。
うーん。ほんとに、いないのかなぁ。
私はなおもきょろきょろと、首を動かす。彼のことはあまり覚えてはいなかったけれど、それでも彼がいたのなら見つけられる気がした。
……いない。
もう仕方ないのかと諦めて改札から離れる。そして駅の外の方に目を向けた。
え……、あっ!!
私の視界に入ってきたのは焦げ茶色の髪、長身の男。彼は構内と外とのちょうど境目のところに立っていた。
い、いたぁ!!
早くしないと彼が行ってしまう気がして、勢い良く走り出す。そして私は彼のところまで行くと、袖を少しだけ掴んだ。
「あ、あのっ!」
彼はゆっくりとこちらを向く。もし人違いだったらどうしようかと思ったけれど、人違いではないようだった。
「えっ?」
彼の瞳に私の姿が映る。すると途端に正気になって、私はすばやく袖から手を離した。
ど、どうしよう。呼び止めちゃった。
さーっと血の気が引いていく気がして、うつむく。恥ずかしくて顔が上げられず、彼がどんな表情で私のことを見ているのかわからなかった。
「あ、この前の……」
私は恐る恐る顔を上げて彼を見た。彼は優しげな笑みを浮かべて私のことを見ていた。それだけで、少し心が楽になる。
「また会ったね」
彼の笑みがさらに柔らかになる。私はそれを見ていられなくて彼の顔から下へと目線をずらした。
って、あ。
私は彼の手元を凝視する。その手にはやはり傘は握られていなかった。
「俺、この辺りでちょっと時間潰すからさ」
じゃあね、と。言いかけた彼の言葉を遮るように声を発する。
「あ、の! ……傘、入りませんか?」
あ、れ。
え…………ええっ!? な、なに言ってんの、私!!
そんなこと、言うつもりじゃなかった。傘さえ、返せば良いはずだった。なのに、気が付いたらとんでもないことを口走っていた。だけど、と気を落ち着かせようと一生懸命になる。ここで彼が断ってくれればなんとかなる。たぶん。
私はちらりと彼を見た。彼は外を見ながらため息をつく。そして、
「すんません。お願いします」
だ、なんて、言ってのけた。
うっそぉ。
嘘だぁ! え、なに。いまから「相合い傘」?
ぽかんと、口を開けたまま私は彼を見ていた。彼は困ったように笑って、少し視線をそらしてから口を開く。
「いや、やっぱ大丈夫です」
「い、いえ! どうぞ!」
私は勢い良く傘を開くと、彼に笑顔を向けた。今度は彼が口をぽかんと開ける番だった。
ああ、私、何やってんだろ。
頭の中は半分冷静で半分パニック。体は間違いなく全部混乱状態。そんな状況で上手く噛み合うわけがなくて、もう私の意志がどこにあるのか、まったくわからない。
やがて目の彼は私を見て吹き出すように笑う。傘は開いているというのに駅構内にいて、しかも笑われているなんてちょっと恥ずかしかった。
「ありがとう。お邪魔します」
「あ、はい」
彼は自然に私から傘を奪っていった。いつもより高い位置にある傘が、気になる。
そして始まる沈黙。駅は賑やかだったのに一歩一歩、駅から遠ざかる度に静かになっていく。私と彼との間にはやはり会話はない。だから静けさが強調されるようだった。
だけど、
「あのさ、」
彼が沈黙を、破る。
私はびくりと肩を揺らしてから、彼を見上げた。彼もちょうど私のことを見ていて視線が重なる。私と彼の間にある距離は、身長の差20センチくらい。思ったよりも近かった距離に、私は上げた顔をすぐに下げた。
「は、はい」
今日はキョドってばかりだ。恥ずかしい。
私の上擦った声がこの空間に、響く。それがまた、この距離を意識させた。
「ありがとう」
彼はなぜか私にそう言う。
「ありがとう」は彼が言うべき言葉じゃない。私はまだ2回分の「ありがとう」を胸に秘めたままなのに。
罪悪感が、募り始める。雨に濡れ始めた鞄がそれをさらに助長している気がして、私は口を開いた。
「ごめんなさい」
これは、何に対してのごめんなさい?
「ありがとう」を言えなくて? それとも、傘を借りたままでいて?
思うことはたくさんあるのに私はそれをすべて、胸の奥にしまった。
結局私が発した「ごめんなさい」は、
「傘、持ってきてなくて……。すみません」
そんな嘘に、コーティングされた。
「いいよ、別に。だから返さなくていいって、言ったじゃん」
頭上から聞こえる声に意識を集中させる。この狭い空間だからか声が良く通って心地良い。
「で、でもっ」
私は結局何がしたいんだろう。自分のことなのに、自分のことじゃないみたいだ。
「だから、いーって。あれ、プレゼントってことで」
そう言われると私はもう何も言い返すことができない。そもそも、何を言えば良いのかわからない。
私が黙り込んだからか、また沈黙が始まる。それが気まずくて、私はずっと自分のローファーを眺めながら歩いていた。
いつもならそうかからないはずの帰路が、どうにも長く感じる。だけど早く離れたいと思う気持ちと、それとは真逆の気持ちはまさに紙一重だった。私も彼も、傘の中央には寄らないように。決してくっつかないように。きっとそんなことを頭に置きながら歩いている。だから私の右肩は濡れているし、私と彼の肩がぶつかったことはなかった。
もうすぐ、この間別れたところに着く。私は無意識に鞄を握っていた。
「ありがとう」
彼はまた、自然に私の手中に傘を戻す。ほんの少しも触れ合わなかった手に、むしろ彼の思いやりを感じた。
「じゃあ」
彼の後ろ姿が遠ざかっていく。この間よりも小雨だったけれど、少し霧っぽかったからすぐに姿は見えなくなった。
3回目の、「ありがとう」。
私はまた、何も言えていない。そんな自分に、かなり自己嫌悪。
傘、返したら彼は雨に濡れずにすんだのに。返すのが目的だったはずなのに。
鞄が重い。朝出てきたときより、ずっとずっと。
ああ、自分がわからない。私は何がしたいの? 本当に。
傘の柄はまだ少し温かくて、なんとなく寂しい気持ちになる。私はそれを握り直して、それから鞄を見た。
忍ばせた傘は持ち主のところに返ることができない。
すべて、私のせいだけど。
はぁっとため息をつく。私はそれからしばらく、その場から動くことができなかった。
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