「はぁ……」

 私は紺色の折り畳み傘を見ながら、ため息をついた。結局使ってしまったこれは、しっかり乾かして丁寧に畳んで。いまだに、私の手元にある。

 これ、どうしよう。

 実はこの傘、ここ数日間鞄に忍ばせておいてあった。名前も知らない人から借りたそれは、異様な存在感を示している。

 もしかしたらこれ、要らないかもしれないけど。

 安物だとか、遠慮するなとか。初対面の私にそんなことを言いながらこの傘を渡してきた彼は、よほどのお人好しか、この傘が要らなかったのか。

 返したい気持ちはもちろんあるんだけど……かさ張るしなあ。

 私はその傘を手にとって鞄にいれるかどうか迷ってから、罪悪感を感じながら机の上に置いた。





 また、やってしまったと、電車に揺られながら真っ青になる。電車に叩きつけるように降る雨は、この間と同じくらい酷い。

 「どーしよ」

 最寄り駅まではあと少し。どちらにせよ、降りないわけにはいかない。

 車で迎えに来てもらおうかとも考えたが、生憎家には誰もいないからそれは無理な話だ。

 ため息をつきたくなる。そんな私の耳には、車掌さんの独特の声で駅名が告げられるのが聞こえてきて、椅子から腰を上げる。

 それからすぐにドアが開く。雪崩のように人が降りていって、私もそれに混ざっていく。

 今日こそ、傘買おう。

 変な決意をして改札を出る。コンビニは目と鼻の先だけれど、残念なことに雨の中を横切らなければならない。私は意を決して、雨に身をさらそうとした。

 が、

 「君、この前の子だよね?」

 また、腕を掴まれる。

 私はビックリして見上げる。そこにいたのはやはり、この前の彼だった。

 「あの、」

 彼は私がここに留まる意思があるのを見ると、腕を離した。私は彼の顔を見ながら、そう重さのない鞄をぎゅっと握りしめる。

 「傘。ありがとうございました。実は今日、持ってきてなくて……。すみません」

 申し訳無さすぎて、顔が見れない。昨日までは傘、入れてたのに……。

 身長の高い彼を見上げるのは少し、辛い。それに、顔を見るのも、辛い。だから上手い焦点の置き方が分からずにいた。

 「いや、別にいいんだけど、さ」

 彼は私を見ているようだった。そして少し考えるようなしぐさをしてから、口を開く。

 「また傘、ないの?」
 「えっ!? いや、そのぉ……」

 少しだけ身を屈めて、彼は私の視界に侵入してくる。やはり私は上手く彼を見ることができずに、口ごもっていた。

 「ないんだね?」

 なんでこんなこと、見ず知らずの人に言われてるんだろう。なんて、疑問に想いながらも、小さく肯定の意を示した。彼はそれを見て、ため息なのかわからぬ息を吐いてから、一瞬躊躇したような間を作って、声をあげる。

 「もし何だったら、傘、入る?」
 「へっ?」

 思わずビックリして声を漏らす。上手く見れなかったはずの彼の顔は、気が付いたら視界に入っていた。

 「あの、全然! 変な者じゃないんで……まぁ、よかったら」

 彼は照れているのか、私から視線をはずす。

 どうしようかなんて、考えない。普通は。これで傘に入れてもらうなんて、不用心にもほどがある。

 だけど。

 だけど気が付いたら、

 「すみません……お願いします」

 そう、言っていた。





 会話は、なかった。

 緊張していたとかそういうこともあると思うけど、何より、何を話したらいいのか。はたまた、何か話していいのかすら、わからなかった。

 そんな中、どんどんと私の家が近づいてくる。

 傘に入ってすぐ、少しだけの会話で、私と彼と、家の方面が同じだということは、わかった。それ以外何も話してないから、あとは何もわからないけれど。

 だから一応、迷惑ではない。と、言っていた。本当にそう思っているのか、表情からは判断できなくて。だけど私はなぜか、彼に甘えてしまっていた。

 「あの、もうすぐなので……」
 「え、そうなの」

 ありがとうございました。そういうよりも先に、彼が声をあげて、それを阻止する。

 「家、知られたくないでしょ。傘は返さなくていいから」
 「え」
 「じゃあ」

 またも、彼は颯爽と走り去っていく。駅を出たときよりは幾分かましにはなっていたけれど、それでも小雨というには強すぎる雨の中、彼の背中が消えていく。

 また、やってしまった。お礼も言えていない。

 隣に彼がいたことの証のように、濡れた右肩が冷たい。

 名前も知らない彼。私の手元に二つ目の傘を置いていった彼。

 罪悪感と共に、何かよくわからない想いが心のうちに広がっていく気がした。


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