梓はいつだって私の意見を尊重してくれる。だから、梓は私に何も言わなかったけれど、反対する気はないんだと思う。……伊勢谷くんへのこの気持ちを、諦めることに。

 結局、昨日は梓の家に行ったものの泊まらずに、家に帰ってきていて、持っていった寝巻きは無意味なものとなった。だけど梓は私をひとりで思いっきり泣かせてくれようとしたんだと思う。おかげで朝起きてみるとまぶたはびっくりするほど重たくて、目元が真っ赤だった。

 「うわあ」

 私は思わず鏡を見ながら呟く。こんな風に腫れた経験なんて今までに一度もなく、私はどうしていいかおろおろしながら携帯を弄る。「まぶた 腫れ 治す」と調べている自分が情けない。

 「ええっと。ホットタオルとアイスタオルを交互にあてるのね」

 私はタオルを用意しながら時間を見る。まだ余裕はあったけれど、出る時間までにまぶたが回復するとは到底思えなかった。


**


 ほんの少しだけ腫れは引いたものの、やはり完全回復とまではいかず、学校で友達に会えば泣いたことがバレてしまうだろう。もちろん、園ちゃんにも。

 私は、はあっとため息をつきながらホームへ続く階段を上がる。あと1、2分で私がいつも乗っている電車は来るだろう。そう思いながら列に並ぼうと、した。

 私の視界に入ったのはイヤホンをつけて、いつもの列に並んでいる伊勢谷くん。私はさあっと血の気が引いたような気分になって、どうすることもできずに立ち尽くしていた。幸い伊勢谷くんは私のことには気が付いていない。私ははっとしたように急いで動き出す。

 伊勢谷くんの視界に入らないように、遠くへと移動する。

 いまは伊勢谷くんのこと、見たくなかった。諦めるって決めたはずなのに。その姿を見ただけで胸が高鳴る自分がいる。私が伊勢谷くんのことを諦められるのは、いったいいつになるのだろう。

 やがて電車がやってきて私はそれに乗り込もうとする。ホームと電車の間の、ちょうど屋根のない部分に来たとき、雨粒が私の頬を濡らした。それはまるで涙のように、私の頬で光っている。そして雨は、ぽつりぽつりと降り出した。


**


 私は下駄箱から外の景色を見る。朝から降り出した雨は下校時刻となったいまでは、ほとんど降っていなかった。だがしかし、今朝さしていたハート柄の傘はびしょ濡れで、ローファーも湿っている。私はそれを憂鬱に思いながら、足を入れる。濡れた靴は、気持ち悪かった。

 「あ」

 そこに、ふと声が降ってくる。私は傘を取ろうと伸ばした手を一旦止めて、視線をその声の方に向けた。

 「ん?」
 「彩月」

 ふんわりとした髪が揺れる。私の瞳も、揺れる。

 「……園ちゃん」

 園ちゃんは私の声を聞きながらローファーを地面に下ろす。私は傘を取ることも忘れてその様子をぼうっと眺めていた。

 そして園ちゃんはローファーを履き終わると私と視線を交わらせずに言葉を紡ぐ。

 「一緒に、帰ろうか」
 「……うん」

 なんでだろう、空気が、重かった。

 私と園ちゃんの帰り道はずっと一緒なのに。いつもなら園ちゃんの最寄駅までずっとしゃべっているのに。

 園ちゃんはそれ以上何も話さなかったし、私も口を開くことができなかった。私が伊勢谷くんへのこの想いを消すことと園ちゃんは、関係がないはずで。気まずく思うのも間違っているはずなのに。

 でも、何も話せない。なんでかなんて、自分でもわからない。

 「彩月」

 私ははっとして顔を上げる。園ちゃんが声を発したのは、伊勢谷くんの高校の最寄駅。つまり園ちゃんと別れる少し前のことだった。

 「うん?」

 余裕なんてまったくないのに優しげな声を出して、余裕があるように見せかけて自分を取り繕った。そんなこと、何の意味もないというのに。

 「あのね」

 園ちゃんの顔が見れない。

 何を話されるのかわからない恐怖が私を支配して、顔を上げさせてくれない。だから私は園ちゃんがどんな顔をしてるかなんて、これっぽっちもわからなかったし、園ちゃんの声色を判断している暇もなかった。

 「……やっぱりいいや」
 「え?」

 私の声が発せられたのと同時に、電車はちょうど駅に入っていく。そして園ちゃんは立ち上がって私に背を向ける。私は引き止めることもできずに、その後ろ姿を見つめていた。

 園ちゃんは何が言いたかったのだろう。何か言うことにためらいを持つようなことがあるの……?

 いくら考えたって園ちゃんの考えがわかるわけはなかったし、私の納得できる答えが出てくるはずもなかった。だけど必死に頭を回転させていないと余計なことを考えてしまいそうで怖い。いまの私に余裕なんて、ない。だから、なのかもしれない。何も考えないで電車を降りて。それで改札を出た瞬間にまた、私の体は固まった。

 なんでまた、いるの……?

 私の頭はフリーズしていたけれど、やっと正常に働き出す。私はそれと同時に小走りで、あの見覚えのある彼の横を、通り抜けようとした。が、

 「宮辺さん」

 腕を、掴まれる。
 触れた感触が。そこから伝わる体温が。私をどん底まで突き落として、もう戻ってこれそうもない。

 「この間はごめん。あんなのただの八つ当たりだ」

 伊勢谷くんは顔をうつむかせながらそう言った。

 「謝るから、……今朝みたいに避けたりしないで」

 私は目を真ん丸にして彼を見る。今朝避けたことがバレていたなんて、思いもしなかった。

 伊勢谷くんの語尾が弱々しかった。まるで伊勢谷くんじゃないみたいに。

 「ごめんなさい」と。そう言いそうになった口を固く閉じる。私は胸で未だにくすぶっている気持ちを捨てると、決めた。伊勢谷くんと関わっていたらきっと、捨てられっこない。

 ……でも、本当に捨てていいの?
 そんな言葉が脳裏に浮かんで、胸が苦しくなる。だけど私は、

 「やめてください」
 「え?」
 「彼女がいるのに、こういうこと、しないで……!」

 伊勢谷くんのその手を振り払って、小雨の中を走り出した。

 伊勢谷くんは呆気にとられたのか、はたまた私に興味がなかったのか追いかけてこない。私は髪が、制服が濡れるのも気にせずに走り続ける。もしかしたらいま大雨が降っているんじゃないかな。そう思うほどに、私の頬は濡れていて、雫が輪郭を伝う。視界はぼやけていて、もう何がなんだかわからなかった。


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