頭が痛かった。どうしたらいいかわからなかった。私は相当動揺していたらしい。だって、もう電車に揺られているのにいつ、どうやって園ちゃんと別れたのか覚えていない。同じ電車に乗っていないってことは一緒に帰っていないってことなんだろうけれど。
彼女……そっか、彼女いるのか。
園ちゃんの言葉は頭の中で何度も何度も響いて。それを必死で止めようとするのに、何をしようとも止まってくれない。
結局園ちゃんが振られようと振られまいと。どちらにせよ報われない恋だったわけだ。
「そっか」
私は電車の中だったにも関わらず、そうこぼした。車内に人はあまりおらず、私の小さなつぶやきなんて誰も気にやしない。だからいっそここで泣いてしまおうかとか。思ったけれど、涙が出てくる気配はなかった。
やがて電車は私の最寄駅へと入っていく。私はゆっくりと立ち上がってドアの前に立った。電車が完璧に停車すると、ドアが開く。私は鞄を肩にかけ直してから、ホームに降り立つ。時刻はいつもより1時間半ほど遅い。あまり時間は気にしていなかったけれど、園ちゃんと長いこと話していたようだった。
この駅は自分の最寄駅であると同時に、伊勢谷くんの最寄駅でもあって。だからこそ何もせずとも彼を思い出してしまうのが、辛い。不意に遭遇してしまうかもしれないのが、辛い。
階段を降りてすぐにある改札を出る。そして出口へとゆっくり進んでいく。が、しかし、そんな私の歩みは驚きと戸惑いで急停止してしまう。
時刻はいつもより1時間半ほど遅い……はず、なのに。今日は雨が降っていない、はずなのに。
「あ、伊勢谷、くん」
出口のところで、少し顔をうつむかせながら彼は、立っていた。
小さな呟きのような声だったのに、聞こえたのだろうか。それともたまたまなのだろうか。彼はうつむかせていた顔を上げる。そしてその顔は、私の方に向けられた。
彼と私の距離は数メートル。どちらかが数歩踏み出せば、瞬く間にその距離はなくなる。
そしてその距離は、なくなった。伊勢谷くんが、私の方に詰め寄ってきたせいで。
私は何もできずに――そう、逃げることすらもできずに、ただ伊勢谷くんから視線をそらした。だって、見ていられなかった。園ちゃんと伊勢谷くんの話をしたばかりで、園ちゃんが脳裏に浮かぶからだろうか。それとも、園ちゃんから伊勢谷くんに彼女がいると、聞いてしまったからだろうか。
「宮辺さん、土曜、なんで来なかったの?」
伊勢谷くんの言葉が、私の中に沈み込む。私はやはり何もできなかった。視界にあるのは私と伊勢谷くんのローファーだけ。他は世界が切り離されてしまったように、何も見えない。
「……違うか。なんで、『園美』が来たの?」
いたい、いたい、いたい。
園ちゃんが振られたって、わかってはいても、その名前が呼ばれることが嫌だと思う。そんな自分が嫌だ。
「俺さ、そんなこと頼んだ? 園美と会いたいなんて言った?」
ひとつひとつ、頭上から放たれた言葉は私の心臓を刺していくようで。いつにもなく私を責め立てる口調の伊勢谷くんが、こわかった。顔が上げられなかった。どんな表情で私を見下ろしているのか、知りたくなかったから。
「ごめんなさい」
ぽつりと、小さくつぶやいたその言葉は、伊勢谷くんに聞こえたのだろうか。
伊勢谷くんはしばらく黙り込んで、それから小さくため息を吐いて言葉を紡いだ。
「とりあえず、歩こうか」
「……はい」
伊勢谷くんが歩き出して、私はそれを追うように数歩後ろを歩き始める。そこでやっと顔を上げたが、周りの人々の視線が突き刺さるようで痛い。
周りから見れば修羅場みたいに見えたのだろうか。修羅場といえば修羅場なのかもしれないけれど、たぶん想像されているそれとは違う。だって私たちは恋人同士じゃない。友達でも、ないのかもしれない。
伊勢谷くんの後ろを夢中でついて行っていると、気がつくと駅が見えなくなっていた。静かな住宅街に、私たちの足音だけが響く。そして伊勢谷くんはその歩みをやめて、私の方に振り向いた。
「宮辺さんさ、」
私はまた顔をうつむける。伊勢谷くんの顔が、見れない。
「俺と園美がくっつけばいいとか、考えたんだろうけど、もうとっくに終わってるから。良かれと思ってやったのかもしれないけど正直、」
伊勢谷くんは一度躊躇するように言葉を止める。そして息を吸ってから、一気に吐き出した。
「迷惑だ」
何か鈍器で頭を殴られたかのような衝撃。私の頭の中でその言葉がぐるぐるとまわりだして、気持ち悪い。
「ごめん、なさい」
それしか言っていない。それしか、言えない。だって頭が働いていない。
よほど嫌だったのだろう。いつもの伊勢谷くんの余裕が感じられないし、いつもみたいに私を気にかける素振りもない。
「……ごめん。俺、このまま宮辺さんと一緒にいると当たり散らしそうだ」
私はただただ伊勢谷くんの言葉を聞く。泣きそうになるのをこらえながら、必死に。
「だから、ごめん」
閑静な住宅街にローファーの音が響く。それは私から急ぎ足で遠ざかっていく。
彼女がいる伊勢谷くん。迷惑だと、そう言い放った伊勢谷くん。
私はゆっくりと顔を上げる。伊勢谷くんの後ろ姿はもう見えない。いつもより低い太陽が、私を照らしていた。
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