ダメだ。私ってほんとに、ダメな人間。

 私は勢いよくベッドに倒れこむ。湿った髪がひどく鬱陶しい。でもそれ以上に、ほとんど濡れていない右肩が寂しくて仕方がない。

 「もぉっ」

 小さく声を上げるしかなかった。後悔するしかできなかった。
 私は結局、約束を取り付けることができなかったのだから。

 今日の帰り。私と伊勢谷くんはほとんど会話をしなかった。それが私の醸し出す沈んだ空気のせいなのか、それともいつもより開いた距離のせいなのかはわからなかったが、なんとなく重たい空気だったのは勘違いではないと思う。

 名前の時と一緒だと、そう思った。

 何度も何度も聞こうとして、最終的には聞いたけれど、思い立ってからどれほどの時間をかけたのだろうか。たぶん、今回も同じだ。私はまた、ウジウジして、約束を取り付けられない。

 と、枕に顔を押し付けたとき、私の鞄の中からバイブ音が聞こえた気がした。私は枕から顔を上げて、鞄を手にすると、あまり中を見ずに携帯を探した。

 お目当てのものは思ったよりも早く見つかった。そしてそれは、未読メールを知らせる、青いランプを灯していた。私はすぐさま携帯を開いて、受信ボックスを見た。

 そこにあったのはまだ、登録されていないアドレスと、タイトルのところの「伊勢谷です」という文字。どうやら添付ファイルがあるようで、私はそれを開きたい衝動に駆られながらも、先に本文を見た。

 「伊勢谷です。電車で言ってたジローの画像、添付しておきました。よかったらアドレス、登録しておいてください。」

 私はしばらくその画面を凝視する。

 私もそうだけれど、女子っていうのは絵文字と顔文字を多用する傾向にある気がする。だから、こんなにシンプルな、句点読点しかないメールを見たのはおそらく、初めてだった。

 男子と関わったことなんて、ほとんどない。小学校時代はよく、男子にいじめられていた。それで女子に守られて、を繰り返して。そんなだから男子と話す機会はなかったし、むしろ彼らの存在は恐怖でしかなかったのかもしれない。私は自然と彼らを避けていた。

 中学校に入っても相変わらずで、入った部活が手芸部だったこともあってか、男子と部活動で関わることはなかったし、クラスでも事務連絡くらいしかしたことがなかった。

 だからなおさら、苦手意識が強くなってしまった。本当はそうでないのかもしれないけれど、関わらなければ関わらないほど、遠い存在で、苦手な存在になっていく。
そんな私の前に現れた「伊勢谷くん」という人はもしかしたら、救世主だったのかもしれない。私の苦手を、克服するための。

 まあそれも今となっては関係のないこと。園ちゃんと彼を引き合わせれば私の役目は終わりだし、もう関わることもないだろう。それがさみしいだなんて、微塵も思っていない。

 「どうしよっかなあ」

 私は携帯を握り締めたままベッドに横になる。そして、思いついてしまった。簡単に、約束を取り付ける手段を。

 「ああ、そっか」

 携帯を握っていた手を、上部につき出す。それが何かを表す行為、というわけでもなかったが、なんだか力が抜けてしまって、上げていた手をゆっくりと下ろした。

 「メール、すればいいのか」

 簡単なことだった。思っていたよりもずっと。

 何より、タイミングが良すぎた。もしかしたら伊勢谷くんは、私の事情を全部知っていたのでは、と疑いたくなるくらいに。

 「これも神様からのお達しかな」

 苦笑いだった。

 園ちゃんの幸せを願って。園ちゃんとの約束を破ることなんてできなくて。それで伊勢谷くんも幸せになれるならいいと、思ったはずなのに。

 私は携帯を持ち直す。そして添付ファイルを見る前に、伊勢谷くんのメールへの返事を作り始めた。

 「『写真、ありがとう。ところで急なんだけれど、今週末の土日とか、空いていませんか?』って、笑えるなあ」

 でもそれ以外に文章が出てこない。……こんな風に誘ったことがまず、ないから仕方ないのだけど。

 「とりあえず、送ろ」

 そう言うことによって、送らなければいけないという使命感が芽生える。でも、手が震えていた。なんでだろう。わからないけれど。

 「……送ろう」

 もう一度、今度は自分に言いかけるようにそう呟いた。私の指はなかなか動いてくれなかったけれど、それでもなんとか動かして送信ボタンを押す。画面には「送信しました」という文字が映った。

 送った。……送っちゃった。
 もうあとは伊勢谷くんの返事を待つしかない。それ以外に私にできることはない。

 伊勢谷くんからの返事は想像よりもずっと早く来た。たぶん私がメールを送ってから5分と経っていないだろう。

 『土曜なら大丈夫だけど。どうかした?』

 私はしばらく携帯の画面をじっと見つめる。送ってしまった時点で後戻りはできないのだと、そう自分に言い聞かせてまた、指を動かした。

 『もしよかったら、どこか出かけませんか?』

 出かけるのは私じゃない、とはわかっていても何となく気恥ずかしい。私はメールを送ってすぐに枕に顔をうずめた。

 それからまたすぐに、携帯のバイブ音が聞こえる。どうやら伊勢谷くんはかなりメールの返信が早いようだった。まるで梓とメールしている時のように早くてびっくりする。

 『大丈夫だよ。とりあえず10時に駅前待ち合わせで、どっかぶらぶらする感じでどうですか?』
 『大丈夫です、じゃあ土曜日に』

 手はもう震えていなかった。何かを諦めたのだろうか。簡単にボタンを押せるようになってしまった。

 私はそのあとすぐに園ちゃんにメールを送る。伊勢谷くんと約束を取り付けたことに関するメールだ。

 そういえば、適当に日にちも決めちゃったけど、大丈夫かな。確か、園ちゃんは帰宅部だったと思うけど……。なんて思いながら園ちゃんからの返信を待つ。

 しかし私の心配は杞憂に終わったようだ。園ちゃんから帰ってきたメールには「大丈夫」だということと、「ありがとう」という私への感謝が綴られていた。

 感謝なんて、されるほどできた人間じゃない。だって私、たぶん、心から園ちゃんの幸せを願えてない。心の奥底にある自分でもよくわからない気持ちを隠して、それでもってやっと、園ちゃんの幸せを願っているのだから。

 「本当に、私って、嫌な奴」

 その呟きは私の耳にこびりついて離れない。

 私は手に持っていた携帯をベッドの上に放り投げた。そして自分は枕に顔を埋める。今日が雨だからだろうか。枕からはいつものような太陽の香りなどするわけがなく、その代わりに湿った匂い私を包み込んだだけだった。



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