水の滴る傘を畳ながら電車に乗り込む。台風が接近しているらしく、いつにも増して激しい雨は私の制服やら鞄やらをべちょべちょにした。それを鬱陶しく思うも、目の前にいる彼の方がひどい有り様で、ズボンの裾が変色していた。
「雨、ひどいね」
「台風来てるらしいからねー」
朝から雨が降っているなんて状況、伊勢谷くんと同じ時間の電車に乗るようになってから初めてのことだった。だから実は、二人とも傘を持っている状態も、初めてだった。
「伊勢谷くん、今日、テスト最終日だったっけ?」
つい数日前聞いたばかりの名前を、口にした。その響きは少しくすぐったい。
「うん。でもこの分じゃ今日も部活オフだなあ」
激しすぎる雨のせいで窓の外の景色が霞んで見える。これ、大雨洪水警報が出ていてもおかしくないんじゃないかな。
「そっか。テニスコート、屋外なの?」
「そー、屋外」
ふわぁと、伊勢谷くんは大きなあくびをする。テスト勉強であまり寝ていないのか、うっすらクマができていた。
「屋内コート作ってくれればいいのにね」
「私立と違って公立は金ないんだよ。しかも活躍しない部活にかける金はなおのこと、ないわけ」
「なるほど」
確かに盟女には屋内コートがある。というか、私立で屋内コートがないところは珍しいんじゃないかな、たぶん。
でも公立となれば話は別だ。公立に行った友達のところは屋外コートすら、ないらしいし。だから海南に屋内コートがないことも、珍しいことじゃなかった。
「あーでも、今日は自習して帰ろうかな」
「自習?」
偉いなぁ、なんて思いながら伊勢谷くんを見上げる。彼は笑みを浮かべていた。
「そ。俺、いつも帰りもこの辺り乗ってるからさ」
ん? なんだろう?
わけもわからず、その先の言葉を促す。電車の床は濡れていて、少し動く度にローファーと擦れて、キュッキュッという音がした。
「宮辺さんも、この辺り乗ってよ。いつもの時間に」
一瞬、いや、もっと長い時間だったかもしれない。とにかく、固まった。
そしてその意味を理解したとき、顔が赤くなる。きっと伊勢谷くんにも照れていることが伝わっているに違いなかった。だけど伊勢谷くんはその表情を崩さずに私を見下ろしている。
そんな笑みを浮かべられて、そんな風に言われて。私に断れるわけがなかった。断ろうと、思うわけがなかった。
「は、はい」
つい出た敬語に恥ずかしくなって頭を下げる。頭上からはクスクスと笑う声が聞こえて、それが私の羞恥心を掻き立てた。
でも、それが嫌じゃなかった。
*
「で、なんでそんな上機嫌なわけ?」
私が上機嫌だから逆に、なのか、梓は火星の気温よりも寒々とした視線を送ってきていた。
「なんで、って、ねぇ?」
「わかってるわよ、どうせ伊勢谷絡みでしょ」
なにも言わずとも出てきたその名前に、思わず目を丸くする。
「よくわかったね」
「彩月、アンタ、自分で思ってるよりもずっとわかりやすいタイプだからね?」
うっと、なにも言えなくなる。梓のそんな台詞は、私の言葉を詰まらせるのに十分だった。
「で、なに?」
「うん、あのね。伊勢谷くんがね、」
言葉を続けることはできなかった。ドサリという音をたてて、何かが落ちたから。……園ちゃんの、手から。
「え。園、ちゃん?」
園ちゃんは落とした荷物を拾わずにこちらに近づいてくる。そして、私に視線を落としてから口を開いた。
「いま、伊勢谷って言った?」
「あ、うん」
「……伊勢谷って、伊勢谷、貴大?」
ドキンと大きく胸が鳴る。いっそ聞こえてしまえばよかったのに。私の、動揺の音。
「う、うん。そう」
聞こえるわけがない。だってたぶん、私より園ちゃんの方が動揺していたから。その証拠に瞳が揺らいでいた。
園ちゃんは私の言葉を聞いてから梓を見ると、泣きそうな顔で言葉を紡ぐ。
「ごめん梓。彩月に何もしないから、席、外してくれない?」
言葉に強さはなかった。あるのはただ、弱々しいまでの懇願のみ。そしてそれを受け入れないほど、梓は非情な人間ではなくて、園ちゃんに席を譲るとこの場から離れていく。
園ちゃんは梓の座っていた席に腰を下ろした。その姿はいつもの彼女からは想像できないくらいに、儚い。
「彩月」
声が、震えていた。動揺している私にもわかるくらいに。
「前に話したじゃん? 彼氏と、別れたって」
「……うん」
その話は記憶に新しかった。それに、後でさらに梓からの「園ちゃんの元カレ情報」が上塗りされていたから、なお。
「それね、」
園ちゃんの元カレは「海南高校」だと。そう、聞いていたのだ。
「タカの、ことなの」
鈍器で殴られたような衝撃。伊勢谷くんのことを「タカ」って呼んだそれが、さらに私を苦しめる。
こんな偶然ってあるんだと、思ってしまった。
「見栄張ってフッたなんて言ったけど、あれ、嘘なの。私が我が儘言って、それでフラれたの」
しかも園ちゃんは、
「私まだ、タカのことが、……好きなの」
伊勢谷くんのことが、好きらしい。
どうしよう。頭ん中が真っ白で言葉が出てこない。でも、その真っ白な世界にたった1つ印字された園ちゃんの言葉。どうやらこの言葉から私を逃してくれる気はないみたい。
「彩月、ごめん」
響いたその言葉を理解してはいるつもりだった。なんで「ごめん」って言ったのかも。でも、弱虫で意気地無しの私は、
「やだもう、園ちゃん。何の話?」
自分の気持ちに気付かないふりをした。
「何の話って、だって彩月……」
「もしかして園ちゃん、勘違いしてる? 私、伊勢谷くんのことなんて好きじゃないよ?」
へらりと笑う。心の奥を見せないように、悟らせないようにしながら。
「ほんと、に?」
やっと園ちゃんと目があった。園ちゃんは想像よりもずっと、泣きそうな顔をしていた。
「うん、もちろん。……あ、私、協力するよ!」
ああ、また、変なこと口走った。
そのせいで私の気持ちはどん底まで下がったけれど、それと反比例するように園ちゃんの表情は明るくなっていった。
「彩月、ありがとう」
園ちゃんが笑顔になってくれるならもう、それでいい。それで、いいんだ。
「私、園ちゃんに幸せになってほしいもん」
これは本心。去年からずっと仲良くしてくれていた園ちゃんだもの。幸せになってほしくないわけなんて、ない。
「でもね、私、タカの連絡先知らなくて……」
園ちゃんは困ったように笑った。でも私だって伊勢谷くんの連絡先なんて、知らない。
「彩月、知らない?」
「あーっと、ごめん。知らないや」
精一杯に、笑った。もう私にはそれしかできなかった。
「だよね、ごめん。……私、いまから彩月にほんっとに迷惑かけること言う。聞いて、くれる?」
そんな言い方をして。私が絶対に断れないと知っていて。それでも私に選択権を与えるなんて、ずるい。ずるいと思っても、園ちゃんのことを嫌いになんてなれるわけがないし、幸せになってほしいと願う。園ちゃんはたぶん、そんな私の気持ちを知っている。
「うん、聞くよ」
やっぱり私には、そういうしか術がない。私は園ちゃんから目をそらした。視界に入ってきたのは梓で、梓は不安そうな顔をしていた。だけど今は、その不安を拭う余裕はない。
「一回でいい。一回で、いいの。だから、」
ああ、なんとなく、わかっちゃったかも。その先の言葉。
「タカに会いたい」
やっぱりな。そうは思いながらも上手く反応できない。なんて答えればいいか、わからない。
「お願い彩月。私のことを言ったら会ってくれないかもしれないから、」
園ちゃんは一度そこで言葉を区切る。その先の言葉は想像もつかなかったけれどなんとなく、聞きたくなかった。
だけど園ちゃんは決意したように、手のひらをぎゅっと握ってから口を開く。
「彩月から、誘ってくれない? ……私の名前を、出さないで」
その、薄ピンク色のきれいな唇から、なんて残酷な言葉を発するんだろう。
胸が痛い。悲鳴をあげている。だけど、
「……うん、まかせて」
そんなことを言ってしまった私は、よっぽど自分を痛め付けたかったらしい。
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