秋の暮より
びゅう、と、一際強い風が草木を揺らしていった。
少し前までは毎日暑い暑いと恨み言を呟いていたのに、今やどうだろう。朝夕は随分冷えるようになり、あんなにもじっとりして生ぬるかった風は、いつしかからりと乾いた冷たいものに変わっていた。吹きつけるたびに思わず肩をすぼめてしまうくらいだ。昼間でも指先が冷える日も増えた。黄金色に揺れる稲穂や、鮮やかに色づく木葉は美しいが、日に日に近づく冬のことを思うと物悲しさを覚えもする。
日没が早くなり、夜明けが遅くなっていくこの時期が、私はどうも苦手だった。
長く昏い夜は、鬼の味方だ。とりわけこれからの季節は、日没とともにうんと冷える。本格的な冬が訪れれば当然雪も降る。鬼が暑さ寒さをどれだけ感じるものなのかは知らないが、人にとっては、冬の夜半ほど過酷な環境はそうそうないだろう。私の記憶の中で、秋から冬にかけて鬼狩り様の怪我が増えているのも、きっとそのせいである。
──あぁ、いやだな。
血や生々しい傷口なんて、好き好んで見たいものではない。ましてや、顔いっぱいに恐怖を浮かべすっかり気力をなくしているような鬼狩り様のことは、とても見ていられない。
乾いた葉の擦れ合うからからした音が、風に混じって聞こえてくる。
妙にしんみりしてしまうのは、きっとこの音がいけないのだ。
そうやって自分の機嫌を秋風と枯れ葉のせいにしてみたところで、秋が私に謝ってくれるわけもない。ただただ不毛なだけだ。
「はぁ……」
思わず零れ落ちた大きな溜息をかき消すように、
「わっしょい!」
威勢の良い掛け声が聞こえ、私はつい首を捻った。
声の主は無論、食事中の煉獄さんである。何しろこの家には今、私と煉獄さんしかいない。
彼の妙な“癖”──そう言っておそらく差し支えないだろう、食事中に「うまい!」と声をあげるあれだ──にもそろそろ慣れたつもりでいたが、それはどうやら思い違いであったらしい。本当に慣れていたのなら、今この瞬間、こんな風に戸惑わずに済んでいるはずである。
こうして私が首を捻っている間にも、この縁側にまで「わっしょい! わっしょい!」と聞こえてくる。まさか部屋の中で御輿を担いでいるわけでもあるまいし、まったくもって不可解だ。
いったい何事か、私にはまるでわからず、首を捻りながら縁側を抜けて、厨へ引っ込んだ。それでも未だかすかに声が響いてくる。彼の声はとてもよく通るのだ。
わっしょい、わっしょい。
祭りでもなんでもない日に、わっしょいなんて言葉を口にすることがあるだろうか。少なくとも私はおそらく、いや、絶対にない。
私が少しも理解できないでいる間に、煉獄さんは食事を終えたようだった。
「ご馳走様!」
ああ、これはいつも通りだ。
聞き慣れたそれを合図に、私はいそいそと茶を用意して膳を下げに向かった。
「いつもすまないな!」
「いえ……これが私どもの務めですから」
茶を受け取った煉獄さんは、いつもとなんら変わらない。まだ熱いはずの茶に口をつけて、動じもせずに「うまい!」と言う。私には不可解に思えたつい先ほどまでの言動も、煉獄さん自身はまるで気にした風ではない。私がこうして不思議に思っていることにさえ、思い当たらない様子に見えた。
いったい全体なんだったのだろう、尋ねて良いものなのかどうかもわからない。詮索しているかのようで、やはり不躾に思われるだろうか。
たとえば私たちがもっと気安い仲であったならば、世間話をするような気軽さで尋ねることができたのだろうけれども。
考え込む私をよそに、煉獄さんは熱い茶をすすっている。
ひとまず不機嫌そうではないから、それで良しとしよう。部屋を出ようとすると、彼が突然口を開いた。
「あのさつまいもは、君が育てたものだろうか!!」
いつも以上に威勢良く問われたので、私はあわや飛び上がるところだった。
驚きに早鐘を打つ胸を押さえて、つとめて平静に「ええ、うちの畑で育てたものです」と返事をする。
「もしかして、お口に合いませんでしたか」
「いや! とてもうまかった!」
答える彼はやや前のめり気味で、私は呆気にとられてしまった。
とてもうまかった。
声に出さずに繰り返して、反芻する。そうしてやっと、思い至った。──あの「わっしょい」は、もしかして。
「お気に召して頂けたんですね」
思わずそう口にすると、彼は大きく頷いて破顔した。
「ヒノエの用意してくれた食事が気に入らなかったことは一度もないが、今日のは特にうまかった!」
「お口に合ったようで何よりでございます。採れたばかりのおいもでしたしお米も新米だったからかもしれませんね。おいしいですよね、新米」
彼の気取らない言葉につい顔が熱くなり、誤魔化そうと思うほどに早口になる。自分の舌は、自分で思っていたよりもずっとよく回るものだったらしい。「おかみさんが気のいい方で、少しお安くして頂いたんですよ」と、普段なら絶対に言わないようなことまで口から飛び出してくるものだから、居た堪れない。
彼はどんな顔をしているだろう。呆気に取られた顔をされていたら、ますます居た堪れない。
恐る恐る彼の顔色を伺って──すぐ、目を逸らした。想像していた表情の、どれでもなかったからだ。
楽しそうな、微笑ましそうな、あたたかい表情だった。いつも鮮烈な強い光をたたえている眼差しも、今は心なしか柔らかい。たとえば無邪気な幼子を見守るときのような、そういう慈愛のようなものの片鱗を、そこに見た気がした。
──きっと、思い違い。そうに違いない。
自分でも上手く説明できない気恥ずかしさが込み上げてくる。顔が熱くてたまらなくなって指先を押し当ててみたが、今に限って──それとも今だからこそなのか──ちっとも冷たくない。
ふ、と彼が笑った気配がして、私はますます赤面した。
彼がそういう笑い方をするのを初めて見た。そういう風にも笑うだなんて、初めて知った。
──いや、知ったから、なんだというのだろう。
きっとなんでもないことなのに、そうに決まっているのに、心がそわそわと落ち着かない。
どうしたものかと頭を抱えそうになったとき、戸口から物音がして、「おーい、帰ったぞー」と声がした。父の声だ。
その声に我に返ってみると、部屋には西日が差し込んでいて、炎にでも包まれたような色をしていた。もう、夜になるまで幾ばくもない。
「む、お父上が戻られたか! お会いするのは初めてだ! 挨拶を──」
「い、いえいえ! お構いなく!」
立ち上がろうとする彼を慌てて制し、部屋へ押し込める。
「出立までどうぞごゆるりとお休みくださいませ……! 一旦失礼いたします!」
襖を閉める間際、僅かに見えた彼は驚いたような顔をしていたが、襖は閉められたままだった。
涼しい廊下を小走りに駆けていく間に、頬の熱が少しずつひいていく。
──彼のことをどこまで知っていいのかわからない。そもそも、知ってはいけないのかもしれない。私たちは友人ではないのだから。
乾いた風が庭の枯れ葉を攫い、からからと物寂しい音を立てる。夕陽を浴びた山々が彼の髪によく似た色に輝いているが、そこが見かけどおりの暖かな場所でないことは想像に難くない。
外套を脱いだ父が外の様子に目をやりながら、「今夜はきっと冷えるぞ」と襟を掻き合わせた。
「鬼狩り様は? 来ていらっしゃるんだろう、今夜は休んでいかれるのか?」
「ううん。もうすぐ出発なさると思う」
「そうか。……これからしばらく、辛い季節だなぁ」
「……うん」
これから訪れる季節は鬼の味方だ。
長く昏く冷える夜は、鬼にばかり都合が良い。
「懐炉を用意しようかしら」
それがいい、と父が言う。
夜明けを迎えた鬼狩り様にして差しあげられることに比べて、これから夜を越えようとする鬼狩り様にして差しあげられることは、あまりにも少なかった。
だから──だからこそ、半ば無意識に、願う。どうかまた、彼が無事に夜明けを迎えられるように。
そうしてまた、彼のとびきりの「うまい!」を聞くことができますように、と。
200914