暑き日に



 蝉が鳴いている。
 今年の蝉はなんだかやけに声が大きいような気がして、まるで誰かさんのようだと思った。尤も、彼はたった数日でその命を燃やしきるほど儚くはないだろうけれども。……いやしかし、いつ何時どうなるかわからない身の上ではある。己の身と刀の一本で人喰い鬼を狩ろうというのだから、常にその命は危険に晒されている。明日の朝日を拝める保証などどこにも無い。

 ──やめよう、縁起でもないことを考えるのは。

 蝉の鳴き声を聞いただけでこんなことを考えるなんて、あまりにも発想が飛躍している。
 かぶりを振って荷物を抱え直すと、薬の匂いがつんと鼻をついた。店主が丁寧に包んでくれたにもかかわらず。咎める者がいないのをいいことに、私は顔をしかめた。
 決して、嗅ぎ慣れていないわけではない。
 藤の家紋を掲げている我が家には昔から、怪我をした人間がたくさん訪れる。むせ返るような血の匂いとともにやって来る鬼狩り様は、目鼻に染みるような薬の匂いを纏って眠り、どちらの匂いも消えないうちに我が家を発つのが常だった。
 両手の指でも足りない程にはそういう鬼狩り様を見送ってきたわけだから、むしろ慣れた匂いではないかと言われればその通りで、否定はできない。ただ、どうしたってこの匂いは、厭なことをも思い起こさせる。血の匂い、絶望に染まる蒼白な顔、冷えていく硬いてのひら──この匂いに親しめる日は、きっと来ないだろう。

 蝉は先ほどから鳴きやむことを知らず、薬の匂いも薄れる様子がない。おまけに、夏の容赦ない陽射しに肌が焦げつきそうだし、蒸した空気はじっとりと体にまとわりついてきて、今にも茹ってしまいそうだ。
 日暮れ前には家に帰り着けるようにと早い時間から町へ出た、今朝の自分を恨みたくなる。それほどにこの暑さはいただけない。もっと雲の多い日を選べば良かった。
 とはいえ、のんびり日を選んでいては、二、三日のうちに薬品類が底をついただろう。鬼狩り様が、いつ、どのような状態でいらっしゃるかは予測できるものではないから、やはり買い出しへ行くのは今日でなければならなかったのだ。
 恨みがましく見上げた空は抜けるように青かった。強烈なまでの陽の光に目が眩む。ちかちかする目を瞬かせて歩みを速めた。

 そろそろ家の門が見えてこようかというとき、鴉のけたたましい鳴き声がした。
 ハッとして目を凝らせば、門前には二つの人影がある。一人がもう一人に肩を貸し、今にもくず折れそうなその体を支えるようにしている。支えているほうの背には見知った羽織りがはためいていたが、それを認識するよりも先に駆け出していた。
 門前へ辿り着く頃にはすっかり汗だくだったが、最早そんなことを気にしてはいられない。急いで門を開き、部屋へお通しして、医者を手配し、医者の到着を待つまでの間に応急処置をし──……。
 幸い、懇意にしている医者はすぐに駆けつけてくれた。

「傷は大きいが、それほど深くないのが幸いしたな。骨も折れているから当分は安静にしなくちゃならんが、命に関わるような怪我ではなさそうだ」

 医者の言葉にほっと胸を撫で下ろす。応急処置を手伝ってくれた煉獄さんも、同じようにほっと息をついたようだった。間を置かず、「それは何よりだ!」と溌剌とした声が響く。

「迅速な処置、感謝する!」
「そういう君は大丈夫かね。服についているそれは、血なんじゃあないのか」
「いや、心配ご無用。これは彼を支えたときについたもので、俺自身は無傷だ!」

 この通り、と彼は勢いよく腕を振って見せた。
 医者は少しばかり腑に落ちないような顔をしていたが、そのうち納得したようなそうでないような微妙な表情になって、「確かにそれだけ動けりゃ問題なさそうだが」と呟いた。見たところ彼の衣服には切り裂かれた形跡などもないようだし、背筋はいつもと変わらずぴんと伸びている。痛みを堪えているようでもない。とすれば、彼の言葉に嘘はないのだろう。
 医者は「何かあればすぐ連絡するように」と言い残し、後ろ髪を引かれるような顔で帰っていった。命に関わるものではないとはいえ、やはり怪我人の様子は気にかかるに違いない。
 医者の足音が遠ざかっていき、下げていた頭を上げると、ともに見送りに出てきた煉獄さんは静かに空を見上げていた。つられて見上げてみても、そこには僅かばかりの雲とお天道様しかない。
 またも目が眩みそうになり、私は目線を戻して、「煉獄さん」と呼びかけた。すぐにこちらに向けられた眼差しは、つい先程まで見上げていたものによく似ている。

「お待たせしてしまい、大変申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げると、視界に入るのは血のついた足元だ。地面にも同じ色がこびりついている。どれほどの時間、待たせてしまったのだろう。一人で立つこともできない仲間を抱え、やっとたどり着いた藤の家の門が閉ざされているだなんて、あってはならないことだった。
 もっと早く帰っていれば。
 留守になんてしていなければ。

「いや、こちらこそ留守中にすまなかった。ヒノエが気に病むことは何もないから、顔を上げてくれないか!」
「ですが」
「ヒノエにはヒノエの暮らしがある。留守にすることがあるのも当然だ! にもかかわらず、急に押しかけ門前を汚した俺たちに嫌な顔もせず世話をしてくれた。あの隊士も命に別状はない。俺は何も問題はないように思うが、違うだろうか?」

 決して強い口調ではなかったが、そんな風に言われてしまっては何も言えない。顔を上げると、力強く肩を叩かれた。急にまた蝉の鳴き声が耳につくようになって、しかし、それもすぐ彼の溌剌とした声がかき消していく。

「だが、どうしてもヒノエが気にかかるということなら、ひとつ提案がある!」
「な、なんでしょう?」
「食事の用意を頼んでも構わないだろうか!」

 蝉よりも大きな音で、腹の虫が鳴いた。




「ご馳走様!」


 もうすぐ日が暮れる。怪我をした隊士は、静かに眠っている。
 腹が膨れて満足げな煉獄さんは、早くも出立の支度をしていた。日没とともに発つのだろう。

「もう行かれるのですか」
「あぁ、今回も世話になった!」

 もう何度もそうしているように、表へ出て切火を切る。
 あたりは大分薄暗くなっていたが、山際の空はまだ橙色を残していた。

「夏はいいな! 日が長い!」

 上機嫌と言い表してもいいような声だった。振り向いた彼の燃えるような目が、薄明かりに煌めいている。

「では、また!」
「はい。……どうか、ご武運を」

 入れ違いのように、顔まで黒装束に覆われた隊士が二名やって来た。隠と呼ばれる部隊の二人は、怪我をした隊士を迎えに来たが日が暮れてからの移動は危険なので、一晩泊めてほしいという。もちろん、断る道理がない。
 承諾して迎え入れ、戸締りをしようとしたとき、人の駆けてくる音がした。鬼狩り様だろうかと目を向ければ──先程見送ったばかりの人が駆けて来るではないか。

「いったいどうなさいました? お忘れ物ですか?」
「いや、そうではないんだが!」

 大きくかぶりを振った彼は、片方のてのひらにもう一方のてのひらを被せている。それはちょうど、小さな何かを隠すように。
 
「すぐそこで見つけたんだ!」

 声を弾ませ──心なしか私にはそう聞こえたのだ──ぱっと開いたてのひらの上では、小さな蛍が淡い光を灯していた。

「つい、見せたくなってしまった!」

 ──まるで、子どものようなことを言う。
 思わず笑ってしまった私を、彼は咎めなかった。
 薄暗いから、私の表情に気がつかなかったのだろう。
 そう合点した私のほうこそ、彼がどんな表情をしていたのか少しも気がつかなかった。

200914

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