朧月夜の庭



 鬼狩り様が一人でもいらっしゃれば、たとえ夜更けだろうとその瞬間からたちまち忙しくなるのが藤の家の常である。食事に風呂、着替えや布団──用意するものはたくさんあるし、そのほか必要に応じて怪我の手当てをしたり、直ちに医者を手配したりせねばならない。
 藤の家へ鬼狩り様がいらっしゃるのは、多くは一仕事終えられた後のことだ。となると、一口に怪我と言っても実態はその都度違っていて、切り傷擦り傷から咬傷裂傷、打撲に骨折、被毒や出血等々と非常に多岐にわたるから、手当てをしようにも私なんぞの手には負えないものが少なくない。だから私は専ら医者を呼ぶことになる。
 私に多少なりとも医学の心得があれば良かったのだろうが、あいにく藤倉家は医者の家系ではなかった。祖父は炭焼き、父はしがない商売人。医者の子どもでもなく名家の生まれでもなく、その上女である私に、医学を学ぶ機会などあるはずもない。
 そういうわけで、私のようなずぶの素人でも手当ができることは極めて稀であった。平たく言えば、腕の立つ、怪我をほとんどせずに事を済ませられる鬼狩り様に限られる。
 その“腕の立つ鬼狩り様”には、煉獄と名乗ったあのひとも含まれていた。彼が何度も我が家を訪れていることそれ自体が、ほかの何よりも確かに彼の実力を証明している。煉獄さんが大きな怪我をしているところを、私は未だ見たことがない。
 今日だって、彼には目立つ怪我がない。精々、手の甲の小さな引っ掻き傷くらいのもの。聞けばそれも、戦闘中に木の枝に少し引っ掛けただけなのだという。綺麗に洗って消毒をすれば、手当てはそれでお終いだ。介抱する必要がないのは言うまでもなく、さらには戦闘で汚れてぼろぼろになったお召し物を洗ったり繕ったりする手間も随分省ける。
 つまるところ煉獄さんは文字通り“手のかからない”ひとなので、私は廊下にまで響く彼の「うまい! うまい!」を聞きながらのんびりと寝所を整えていた。
 初めのうちこそ彼の声に驚いていたものだが、近頃はすっかり慣れてしまった。例えるならば、さながら夏の蝉や秋の鈴虫のようなものである。
 それどころか、聞こえなければいったい今日はどうしたのかしらと気になるし、何か苦手な食べ物でも入っていたかしらと落ち着かない気持ちになる。とんだ笑い話だ。
 と、そのとき、一際大きな声が聞こえた。

「ご馳走さま!」

 独り言なのか、それとも私に聞こえているとわかって言っているのかは定かでないが、毎度律儀なことである。
 膳を下げに行くと、彼は私が来るのを待っていたかのようにこちらを見て、いつものごとく明朗闊達に言った。

「この辺りは今がちょうど見頃なのだな!」

 きょとんとしたのも束の間、すぐに合点がいって、私は一つ頷いた。
 
「ええ、そうなんです。今年は珍しく揃って咲き始めましたから、見応えがありますよ。里桜には負けるでしょうけれど」
「山桜には山桜の良さがあるだろう!」
 
 煉獄さんは笑って言う。
 山桜は里の桜と違い、てんでばらばらに花開き、花が咲くのと時期を同じくして葉もつけ始める。だからどうしても満開の里桜のような壮観さには欠けるのだが、それでも春を感じさせてくれる花には違いない。控えめなその咲き方が、私は好きだ。
 なんだか言葉にする前から煉獄さんにそれを肯定されたような気がして、私は思わず微笑んだ。


 膳を下げ、熱い茶を淹れて部屋に戻ると、煉獄さんは縁側に出て朧月を眺めていた。今夜──といっても、煉獄さんが到着したのは既にだいぶ夜の更けた頃だったので、夜明けもそう遠くはない──は暖かく、風も穏やかな良い夜だ。
 高くはない塀の向こうには、花をつけた桜の木も見える。
 差し出したお茶を受け取った煉獄さんは、やはりいつものように「ありがとう!」と声を張った。大きな声を彼らしく感じる一方で、そんなに大きな声を出さずとも聞こえるのにな、とも思う。とはいえ決して不快などではなく、むしろその変わらぬ声にほっとするような気さえした。

「月見ですか、それとも夜桜見物ですか?」
「どちらもだ!」
「どちらにしても、お茶よりお酒のほうが良かったでしょうか」
「いやいや! そこまで厚かましくないぞ!」
「謙虚な方でもお酒くらい嗜むでしょう……。お持ちしますか?」
「そう気を遣うな! 食後に飲むヒノエの茶は美味いからこれで良いんだ!」

 はて、では、その他のときに飲む私の茶は美味しくないのかしら。
 ぼんやりとそう思ったが、尋ねはしなかった。そうした話をできるほど気安い仲ではない。いくら彼が懐の深いひとであるとはいえ、履き違えてはならないし、それくらい私も弁えている。
 それに、限られた休息の時間を邪魔するわけにもいかない。お茶をお出しすることは出来たのだからここらでお暇しようと腰を上げかけたとき、煉獄さんが少しばかり静かな声色で言った。

「綺麗なものだな」

 独り言か、話しかけられたのか。判断に迷い、つい中途半端な姿勢のまま静止する。
 彼の視線が僅かにこちらを向いたので、結局、私は再び腰を下ろした。

「里の桜はもう散ってしまいましたか?」
「すっかり散り終わったとは言えないが、それでも見頃は過ぎてしまったな!」
「先日私が買い物へ出たときには、まだ咲き始めたばかりのようでしたのに」
「大風の日が続いただろう。あれのせいで、今年はどこも散るのが早かったらしい!」
「残念でしたね」
「ああ、千寿郎も残念がっていた!」
「……はあ、千寿郎さんが……」

 と、頷いてはしまったものの知らぬ名である。誰だろうかと考えてみるも、私の知り得る限りではそのような名前の鬼狩り様は思い浮かばない。この近辺に住んでいる者の中にもいない。
 勿論私が煉獄さんの交友関係などを存じているわけもないので、どれだけ考えたところで誰ともわからないだろう。
 そう結論づけたところで、煉獄さんが茶を一口啜ってから「弟だ!」と言った。

 私が見た中で、いっとう明るい声と表情だった。

 いつものごとく大きく、熱く、朗々とした声色は、いつもと同じようでいてどこかが僅かに違っている。何かにたとえるなら、それ(・・)は、燃え盛る炎よりも昼下がりの陽だまりに似ていた。
 それ(・・)は、私に向けられたものではない。だというのに、ただ隣に在るだけで、胸がじんわりと温かくなる。──夜に在りながら、まるでお日様の下にいるかのような。

「ご自慢の弟さんなのですね」

 気づいたときにはそう口にしていて、煉獄さんがいっそう笑みを深めた。

「ああ、勿論だ」

 ──嗚呼そうだ、それ(・・)は、誇らしさだとか愛しさだとか、きっとそういうものなのだ。
 その表情が、瞼に焼きついて離れない。

 山の桜よりも空の月よりも、何よりも、隣にいる男性(ひと)をうつくしいと思ったのは、生まれて初めてのことだった。

191006

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