私の願いを神様とやらが聞き届けてくれているがゆえなのか、あるいは端から私の杞憂にすぎないのか。それを確かめる術はないが、彼はそれからも幾度も我が家を訪れた。季節がいくつか巡り、祖母が急な病に倒れ、祖父が山での事故で亡くなっても、彼の「また」は必ずやってきた。

 祖父がいなくなってから初めて彼がやって来たとき、彼は屋敷に私を除いて人の気配がないことに直ぐ様勘づいたらしかった。
 夕餉の膳を下げに行ったとき、彼はいつものように「ありがとう、うまかった!」と頭を下げたあとで、いつになく静かな調子で続けた。

「不躾を承知で訊くが、祖父君はどうなされた?」
「……亡くなりました。もう一月程前のことになりますが、山へ行った帰りに斜面から足を滑らせて……お医者様がおっしゃるには、打ち所が悪かったのだと」
「そうか……せめて線香をあげさせてもらっても構わないだろうか」
「……お心遣い痛み入ります」

 思ってもみなかった申し出に、私は深く頭を下げた。きっとあの世の祖父も驚いて恐縮していることだろう。
 仏間に案内すると、彼は仏前に膝をつき、線香をあげて静かに手を合わせた。我が家の質素な仏壇の前に彼が膝をついているのは、どうにも不思議な光景だ。
 彼の人となりをさして知りもしない私に言われたくはないことだろうが、彼にはごうごうと燃え盛る炎のような印象があって、こうして神妙な面持ちで仏前にいるのはどうも不釣り合いに見える。一言で言えば、静けさが似合わないのだ。
 彼はしばらく無言で手を合わせていた。祖父と彼とは特段積もる話があるような仲でもあるまいに、やはり随分と律儀なひとである。
 ややあって、彼は口を開いた。

「今は君一人でこの屋敷に暮らしているのか?」
「出稼ぎをしていた父が帰って来ましたので、父とのふたり暮らしです。といっても、今は町へ出ていて不在ですが」
「ふむ。お父上は、いつ戻る?」
「さあ……今の時間に戻らないのであれば、おそらく今日のうちには帰ってこないでしょう。早くても明日の正午頃になるかと」
「正午頃か……」
「……それがどうかなさいましたか?」

「どうもこうも」と、彼は凛々しい眉をひそめた。「若い娘さんが山奥の屋敷に一人きりというのは──何かと危ないだろう」

「ああ……それなら、ご心配には及びません。こんな辺鄙なところには、物取りもやって来ませんので。見かけるのはせいぜい鬼か鬼狩り様かくらいのもので──」
「何、この辺りに鬼が出るのか!?」
「あ、いえ! 今のは言葉の綾で──鬼狩り様のおかげで鬼は全く見かけません!」

 慌てて否定すれば、彼はわずかに表情を和らげた。そりゃあそうだ、彼は鬼を狩るのが仕事なのだから、この近辺を鬼が彷徨いているとなれば黙ってはいられない。直ぐにでも赴いて、その首をはねなければならないだろう。
 彼の表情から剣呑さが消えたことをみとめながら、「それに」と私は続けた。「ここでは常に藤の香を焚いております」

「そうなるといよいよこの辺りにいらっしゃるのは鬼狩り様くらいですから、とりたてて危ないことはないのですよ」

 それでも彼は腑に落ちない顔をした。眉間にはくっきりとしたしわが刻まれている。

「危ないものは、何も鬼や物取りばかりではないだろう。普段、鬼殺隊の隊士が立ち寄るとき、お父上はいらっしゃるのか」
「いえ……父は行商人ですので、家を空けていることが多いですね」
「むう」

 彼は腕組みをして唸ると、不意に 「俺は煉獄杏寿郎という」と名乗った。「君は?」
 急なことに彼の意図が読めないながらも、尋ねられたからには私も名乗らなければなるまい。

「藤倉ヒノエと申します」

 名乗れば、彼は突然声を張り上げた。

「では、ヒノエ!」
「な、なんでしょう?」
「ヒノエは見たところ俺と同じくらいの歳に思えるが!」
「ええ と……私もそう思います」
「そうだろう。つまり俺たちは年頃の男女だ!」
「は、はぁ」
「ヒノエは気にしていないようだが、若い男女が二人きりというのはやはりどうかと思う!」
「そうおっしゃられましても──しかたのないことでしょう。それに、私一人の時に鬼狩り様がいらっしゃるのは此度が初めてではなく、今更のことで──」
「それもどうかと思うぞ!」
「過ぎたことはどうしようもないじゃありませんか……」

 彼の言わんとすることは解る。けれども、理解することと受け入れることは、時として相容れない。
 強い眼差しを真正面から受けての反論はいささか気が引けたが、このままでは、どうにもならないことを懇々と説かれてしまう気がして、私は重い口を開いた。

「いくら二人きりの暮らし、祖父母の遺してくれた蓄えも多少あるとはいえ、父の稼ぎがなくては生活に困るのです。こんな辺鄙なところでは、商いはできません。父が町へ商いに出ている間に鬼狩り様がいらっしゃれば、そのときは当然私一人でお世話をさせて頂くことになります。どれもこれもしかたのないことなのですよ。まさか、父が不在だからなどという理由で、お疲れの鬼狩り様を追い返すわけにはいかないでしょう」

 この辺りに藤の家紋を掲げた家は他にない。それどころか、炭焼きや猟師を生業とする家がぽつぽつと点在するだけの本当に辺鄙なところだ。疲労困憊、あるいは満身創痍でここへ辿り着いた鬼狩り様に、医者のいる町まで更なる移動を強いるのも酷な話である。
 そもそも、藤の家紋を掲げていながら鬼狩り様を追い返すような真似をできるはずもない。

「それとも煉獄さん、あなたはこれからお帰りになるというんですか」
「いや、帰らない!」
「ずいぶんお元気な返事ですね……しかしまぁ、そういうことならなおさら、『どうかと思う』とおっしゃられても困ります。あなたが……煉獄さんがどうお思いだろうと、私にはどうすることも出来ませんから」
「むう」

 彼はそれきり黙りこんだ。ただ、その目を見れば、彼が素直にすべて納得したわけではないということが解る。
 だからといって、私から言えることを探してみてもこれ以上は思い浮かばなかった。彼としても、私の言い分をまるきり理解できないというわけではなかったのだろう。もとより私たち二人とも打開案がなかったし──となればもう、この話はここで打ち止めにするほかないのだった。
 そうして、しばらく二人揃って無言のまま、線香の頼りない煙がゆらゆらと細く立ち上るのを眺めた。窓の閉め切られた部屋には、線香の独特のにおいがこもっている。消えていく煙をじいっと見つめている彼に、この部屋は、においは、やはり似つかわしくない。


 翌朝、私が朝餉の支度をしていると、台所へ彼がやって来た。すっかり身支度を済ませている。

「おはよう!」

 朝も早い時間だというのに、その声の大きく快活なこと。朗々と響く声に、空気が震えたかのように思えた。

「おはようございます。すみません、まだ支度の途中で……もうお発ちになるのですか?」
「いや、違うんだ、急かすつもりはなかった! ただ、何か手伝えることがないかと思ってな!」
「えっ」

 瞠目した私を気にも留めずに、彼は鷹揚に頷いた。

「ヒノエにはもう何度も世話になっているし、祖父君や祖母君にも随分と世話になった! しかし、お二人には何も返せなかっただろう? だからせめてヒノエには、恩を返させてほしい!」
「えっ!? そんな滅相もない! そもそも私たちは、鬼狩り様に助けて頂いたから、そのご恩のお返ししようと思ってやっているんです。それなのにあなたから何か頂こうだなんて……それは、なんだかとてもおかしな話です」
「そうだろうか?」
「そうですとも。きっと祖父母も同じことを言うでしょう」
「だが俺は君の一族の人間を助けたその隊士ではない上に、ヒノエのことも祖父母君のことも、これといって助けた覚えがない! むしろ一方的に助けられてばかりいる! 」
「そ…れは、屁理屈というものでは!?」

 そんなことを言い出してしまえばキリがない。我が家に限らず、いま藤の紋を掲げている家の多くに言えることだろうし、それくらいは彼だって解るだろうに──彼は折れなかった。

「お父上が不在のことが多いのであれば、困ることもあるだろう! 炊事に関して手伝えることはほとんどないかもしれないが、力仕事なら任せてくれ!」

 続けざまにさあさあと急かすように言われてしまっては、こちらの方から折れるほかない。「そこまでおっしゃるなら……」と口にした瞬間、彼の目が輝きを増したように見えた。

「では、薪割りをお願いできますか? 玉切りの済んだものが家の裏に積んでありますので。斧もそこに」
「よし、心得た!」

 意気揚々と勝手口から出ていく後ろ姿はどこか子どものようでもあり、なんだか可笑しくなって、彼に聞こえてしまわないよう笑いを噛み殺した。
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