キャット・コードを解読せよ

 吾輩は猫である──そんな有名な文学作品の冒頭が脳裏をよぎる。
 窓ガラスに映る守璃の姿は、今やどこからどう見ても猫そのものだ。

「にゃあお……」

 困り果てて出た声もそんな鳴き声で、人語からは程遠い。守璃は頭が痛くなった。
 どうしてこんなことになってしまったのかもよくわからない。ひとまず落ち着いて状況を整理しよう──守璃はひとり廊下を歩いていた。トイレから教室に戻るところで、既に予鈴が鳴ったあとだったから、急いでいた。階段に差し掛かったとき、後ろから猛ダッシュしてきた生徒とぶつかって、転びそうになって──気がついたときには、こうなっていた。……やっぱりよくわからない。
 ぶつかった生徒の“個性”の誤発動による事故と考えるのが妥当だろうか。人を猫に変えてしまう“個性”。
 そんな“個性”は今まで聞いたことがないが、“個性”はどんどん多様化している。雄英は“個性”のるつぼみたいなものだし、ちょっと珍しい“個性”の人も雄英には多いのだろう。きっと。たぶん。
 本人に話を聞ければ手っ取り早いのだが、その生徒はもう姿が見えなくなっていて、確かめようがない。物凄く急いでいるようだったから、守璃の様子に気づかずに走って行ってしまったのだろう。顔どころか性別さえもわからずじまいでは、探して事情を聞くこともできない。
 困った。
 守璃は昔から猫が好きだが、決して猫になりたいわけではない。猫は猫だから可愛いのだし、猫を猫として可愛がりたいだけで、自分が猫になったところで可愛くないし可愛がれない。
 途方に暮れた守璃の頭上で本鈴が鳴った。
 ──授業、どうしよう。
 今頃、教室に入ってきたエクトプラズムが「護藤ハドウシタ?」と質問しているところかもしれない。そして八百万が「お手洗いに行ったまま、まだ戻って来ておりません」と答える。……お腹が痛くなって保健室に行ったと思われるのだろうか。
 守璃はひとまず教室に向かうことにした。四本足で歩くのはなんだか変な感じがしたが、思いのほかすぐに慣れた。体がとても軽く、意外と動きやすい。
 けれども、教室の前まで来て再び守璃は途方に暮れた。
 どうやってドアを開ければいいんだろう。
 いくらバリアフリーへの配慮に余念がない雄英高校とはいえ、流石に猫の入学は想定していまい。猫用出入り口なんてあるわけがなかった。実家の猫なんかはよく勝手にドアを開けてしまうが、猫歴10分足らずの守璃は残念ながらまだそのスキルを身につけていない。
 出来ることといえば、ドアの前でニャーニャー鳴いてみたり、背伸びしてドアをカリカリしてみたりすることくらいだ。
 それらを「何もしないよりはマシ」と自分に言い聞かせて続けていると、やがて教室の中から「ナンノ音ダ?」と声がした。ややあってドアが開かれ、「猫だ!」と芦戸のはしゃいだ声が続く。

「ニャ」
「ドウシテ猫ガコンナトコロニ…」
「ニャーオ」
「ノラ猫ガ迷イ込ンダノカ?」
「ニャー!」
「誰カ、コノ猫ニ心当タリガアル者ハ?」

 エクトプラズムが教室に向かって呼びかけるが、名乗り出る者はいない。「先生!私、護藤です!」と伝えているつもりでも、口から出てくる音は「ニャ! ニャウ、ニャーオ!」なのだからやるせない。
 守璃の必死の訴えは誰にも理解されないまま、エクトプラズムは口田を指名し、指名された口田はあわあわとやって来て守璃に囁いた。

「小さき者よお帰りなさい──」

□□□

 守璃はとぼとぼと中庭を歩いていた。
 口田にならわかってもらえるのではないかと期待したが、無理だったようだ。正しい猫語ではないからダメなのかもしれない。口田の“個性”は今の守璃にも有効なのに──少し、不公平だ。
 どうしたらいいのかわからないうちに授業も終わってしまい、今は昼休みだ。廊下から食堂にかけて、生徒たちの声が響いている。
 教室での口田の生き物ボイスによる指示は「もと居たところにお帰り」というようなものだった。その指示に突き動かされて戻ってきたのは、あの生徒とぶつかった廊下だ。自宅まで戻ることになったらどうしようかと思っていたが、どうやら元が人間なので、口田の“個性”が効力を発揮するのにも限度があるらしい。“猫として最初に居たところ”に戻った時点で、効力が切れたようだ。
 そのあとは例の生徒を探して学校を巡り、見つけられずに今に至る。つい先程、教室から流れ出て来た見知らぬ生徒たちの中に猫っぽい“個性”の人を見かけたので「ニャーァ」と話しかけてみたが、「えっ、なんか猫いるんだけど! かわい〜」と友人同士できゃっきゃされただけで終わってしまった。薄々そうなる予感はしていたが、普通に落ち込んだ。
 昼休みになっても戻らない守璃を、クラスメイトが心配しているかもしれない。そろそろ、守璃が保健室にもいないということが発覚していてもおかしくない頃だ。荷物は教室に置きっぱなしになっているから、家に帰ったとも思わないだろう。
 誰か、守璃を探してくれているだろうか。
 けれど、たとえ見つけてもらったとしても、今の守璃の言葉は誰にも伝わらない。
 歩き疲れたし、お腹も空いたし、喉も渇いた。
 木陰に入って丸くなる。一生このままということにはならないだろうが、いつ元に戻れるのか全く見当もつかないというのはなかなか堪える。
 ──せめて誰かが守璃の言葉を解ってくれたなら。

「あ、いた」

 不意に聞き覚えのある落ち着いた声が耳に届いた。ゆっくりと土を踏む音が近づいてくる。
 顔を上げると、心操が静かにしゃがみ込むところだった。

「猫がいるって噂になってたの、おまえだろ。ノラ……にしては綺麗だな。どこから来たんだ?」
「ニャオン」
「返事してくれてるのか、賢いな。この近所?」
「ニャッ、ニャオ」
「迷い猫?」
「ニャーア」
「……うん、ダメだわからない」
「ニャ……」
「そんな残念そうな鳴き方するなよ……」

 心操が手を伸ばしてきた。首まわりから顎の下、耳の後ろと絶妙な力加減で撫でられる。──猫歴が短い守璃にでもわかる。これは、手慣れている。自然と喉がゴロゴロ鳴って、見ていた心操の口元がゆるんだ。

「人懐こいな、おまえ」
「ニャ」
「飼い猫なら飼い主のところに帰してやりたいけど……」

 心操は、撫でる手はそのままに考え込む。表情は真剣そのものだ。
 守璃の喉の音だけがゴロゴロと響く時間が数十秒。そして、突然心操が動いた。

「…よし。おいで」

 身構える間もなくひょいと抱き上げられて、守璃は硬直した。同い年の男の子に抱き上げられた経験なんて皆無なのに、いきなりこれは刺激が強い。心操は猫を抱っこしただけのつもりでも、守璃の精神は十六歳の女子高生のままなのだ。この距離感に、平常心でいろというのは難しい話である。
 心操の腕の中で守璃が石のように身を固くしている間に、心操は校舎の中に入っていた。猫を抱えた心操を振り返る生徒は少なくない。それらの視線に対して気まずさを感じたからなのかどうかはわからないが、心操の歩みは早かった。
 足早に廊下を進んだ心操は、真っ直ぐに職員室までやって来ると、まず守璃(ねこ)を落とさないように片腕でしっかりと抱え直した。それから、ドアをノックする。
 心操と一緒に職員室に入ると、職員室はいつもよりも少し騒がしかった。相澤とプレゼント・マイク、ミッドナイトに13号が集まって、何やら話し込んでいるのが見える。しかしそれでも、心操が入ってくると相澤は顔を上げ──心操の腕の中に猫がいることに気がついて目を見張った。

「なんだその猫」
「中庭にいたんです。綺麗だし、人に慣れてるのでたぶん迷子だと──俺、放課後に飼い主探してみるんで、それまでの間保護していてもらえませんか」
「……職員室で?」

「大人しいので悪戯はしないと思います」と心操が守璃(ねこ)の顔を相澤に見せた。渋い顔をした相澤と対照的に、マイクは「へー、可愛いな!」と朗らかに言う。

「いいんじゃねえ? おまえ猫好きじゃん」
「それとこれとは別だろ」
「そうですね、僕たちが勝手に許可できることじゃないですよ」
「校長の許可がいるわね。私は許可してあげたいけど」
「校長って猫大丈夫だっけ?」
「知らん」

 相澤は疲れた顔で頭をかいた。その目がもう一度守璃を見て、それからまた心操に戻る。やはり、気づいてはもらえない。

「そうだ、心操」
「はい?」
「おまえ、どこかで守璃──護藤を見てないか」
「え? 見てないですけど……護藤さん、どうかしたんですか」
「いなくなった」

 端的な返答に心操が一瞬わずかに言葉を詰まらせる。「……早退したとかじゃなく?」

「そういう連絡はなかったし保健室にも行ってないらしい。荷物は教室に置いたまま──」
「ニャーオ!」

 もしも気づいてもらえるとしたら、きっと今しかない。
 守璃はひときわ大きく鳴き声をあげたが、猫が急に鳴いたくらいでは、二人の注意をひきつけられなかった。せいぜい一瞬こちらを見る程度。生徒が失踪したかもしれない話と猫の一声、どちらに より緊急性があるかを考えれば無理もないことではある。
 けれども、守璃も諦めるわけにはいかなかった。このままでは、学校が警察に守璃の捜索願いを出すようなことにもなりかねない。
 根気強く、会話を遮るように鳴き続けていると、不意に心操の足元から声がした。

「それは災難だったね!」
「ニャアオ……!」
「いったいどうしたんですか校長」
「どうやらその猫が、護藤さん本人らしいのさ!」
「は?」
「え?」
「えっ!?」
「ニャ〜……」

 ──かくして、守璃は心操の腕から解放され、捜索願いを出されることも免れて、職員室で保護されることになった。
 日暮れと共に元の姿に戻ることができた守璃が真っ先に口した言葉が、校長への感謝であったことは言うまでもない。

190513

校長が動物の言葉をどの程度理解できるのかよく分からないのですが、ハイスペックゆえに一瞬で解読(?)できるのではないか(むしろしてほしい)ということで最後は校長先生に出てきてもらいました。夢主が動物になる話は、夢書き歴○年のなかで初めて書いた気がします。
リクエストありがとうございました!

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