あのこへ、

 赤ん坊の泣き声がする。

 グリフィンドールの寮憑きゴースト、ニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿──通称ほとんど首無しニックは、顔を真っ赤にして全身で泣いている赤ん坊の傍らを漂いながら、ただ狼狽えるしかなかった。赤ん坊をあやそうにも、彼がゴーストである以上、生命の象徴ともいうべき赤ん坊を抱き上げることはひっくり返ったってできやしない。
 タイミング悪く──あるいは狙いすましたかのように──どこかでピーブズが騒ぎを起こし、この部屋までけたたましい音が響いてくる。シャンデリアを落下させたのか、それとも甲冑でも引き倒したのか。赤ん坊の泣き声がまた一際激しくなり、ピーブズが起こす騒ぎの音と相俟って、今や廊下の肖像画たちが顔をしかめるほどの騒々しさである。
 ニックは赤ん坊の周りを右往左往しながら首をひねった。皮一枚で胴体とつながった頭がぐらり、わずかに傾ぐ。この城に留まり続けるニックが赤ん坊の泣き声を聞くのは──赤ん坊の姿を目にするのは、一体何百年ぶりのことになるだろうか。
 本来ならば、この城には赤ん坊などやって来ない。ホグワーツが十一歳を超えた子どもたちの為の学び舎であるからだ。
 赤ん坊が連れられてくることなど、ニックが知る限りただの一度もなかった。おそらくほかのゴーストに聞いても、皆同じことを言うだろう。こんなことは初めてだ、と。


 グリフィンドール寮憑き、ひいてはホグワーツ城に憑いているニックには、この城の外で起こっている出来事の全貌を知ることは叶わない。
 しかしそれでも、ゴーストにはゴーストのネットワークというものがあって、多少の情報は入ってくる。死人に口なしとはよく言うが、死人の中でもゴーストだけは例外で、生者と同じくお喋りなのだ。ましてやこのような時代である。迂闊なことを言って殺されても死なない分、むしろゴーストのほうが生者よりもお喋りであったかもしれない。
 ニックが城の内外から得た情報によれば、城の外では、闇の帝王ヴォルデモート卿がなんと一人の赤ん坊によって打ち倒され、魔法界にようやく平穏が戻りつつあるのだという。
 この話を聞いたとき、ニックは大いに驚いた。
 多くの命を奪った残忍な闇の魔法使いを退けることができる者がいるとすれば、それはダンブルドアであろうと思っていた。ニックだけでなく、誰もが思っていたはずである。事実、ヴォルデモートはダンブルドアのいるホグワーツにはついぞ手を出さなかった。
 しかし、ヴォルデモートを打ち倒したのは赤ん坊だった。世界でたった一人、わずか一歳の赤ん坊だけが、ヴォルデモートに狙われてなお生き残ったのだ。ニックは死んでからの長い長いゴースト人生の中で──それどころか、生きていた頃を含めても──これほど驚いたことはない。
 残った死喰い人たちも次々と闇祓いによって捕まり、あるいは我に返って(・・・・・)大人しくしているという話だ。
 とはいっても、中にはやはり逃亡を続けている死喰い人がいて、ニックの目の前に赤ん坊がいる理由にはどうやらそのあたりの問題が絡んでいるらしい。
 どこからともなく聞こえてきた話によれば、この赤ん坊の父親がまさに今逃亡中の凶悪な闇の魔法使いで、母親はその男の無実を信じて奔走している。幼い我が子を連れて行くことはできないから、世界で一番安全なこの城にこの子を預けていったのだ──と、お喋りな絵画たちが噂しているのを、ニックは小耳に挟んでいた。


 赤ん坊はまだ泣いている。
 子守歌を歌うオルゴールが沈黙してしまってから、ずっと泣いているのだ。なんとかしてやりたくとも、ゴーストのニックではオルゴールを巻き直せなかったし、ニックが歌う子守歌ではお気に召さないようだった。
 赤ん坊は泣きすぎて顔が真っ赤だった。雪のように白い肌にはこの子の黒髪と灰色の瞳が美しく映えるが、同じくらい頬の紅さも目立ってしまう。


 ニックはこの赤ん坊の両親を知っていた。尤も、二人のホグワーツ在学中に限った話にはなる。
 二人ともグリフィンドール寮の生徒で、とてもよく目立つ生徒だった。寮憑きゴーストとして数えきれないほど多くの若き魔女と魔法使いを見送ってきたニックにとっても、この二人は印象的な生徒だったことは間違いない。顔も名前も、よく覚えている。少なくとも、赤ん坊が父母のどちらに似ているのか一目見てわかる程度には。


 ニックは赤ん坊の泣き声を聞きながら、壁をすり抜けて廊下の様子をうかがった。近くの肖像画は空っぽになっている。騒ぎに辟易して、どこか別の絵画へと避難したのだろう。
 廊下の先からはガシャンガシャンと耳障りな音がする。赤ん坊とピーブズ、果たして宥めやすいのはどちらだろうか?
 永遠に答えが出ないかもしれない問いにニックが頭を悩ませていると、耳障りな音が突然ぴたりと止んだ。
 ややあって、マクゴナガルが角を曲がってやって来る。大方、マクゴナガルが杖の一振りか二振りで強引にピーブズを黙らせたのだろう。
 赤ん坊の泣き声だけ依然響いている。
「フェリシアはいったいどれくらい泣いているのですか?」
 マクゴナガルは表情ひとつ変えずに言った。
 ドアノブを捻ると、開かれたドアの隙間から一際大きな泣き声が廊下にもれだしてくる。
「五分……いえ、十分は経つでしょうか」
 部屋へ入ったマクゴナガルを追いかけて壁をすり抜けたニックは、首がずり落ちないようわずかに頭を下げた。
「いやはや、面目ない」
「いえ、貴方が気に病むことはありません」
 マクゴナガルはそう言うと、杖を振った。
 机の上に置かれていた羽根ペンとインク瓶が、見る間に小鳥の姿に変わる。生まれたての小鳥たちはピィピィ鳴きながら羽ばたいて、赤ん坊の周りを輪を描くように飛び回った。
 するとその動きに気をとられたのか、赤ん坊の泣き声はふっつりと途切れ、涙で濡れた目が飛びまわる小鳥を追いかけ始めた。小さくふくふくとした白い手は小鳥たちに向けて伸ばされる。その手を掻い潜るように小鳥が飛ぶと、赤ん坊は目をぱちくりさせた。
「お見事」
 と、ニックは半透明な手を叩いた。
 赤ん坊はちらとその動きをみとめて、けれどもまたすぐに小鳥たちを見る。
 マクゴナガルが杖をもう一振りすれば、今度はティーカップが歌を歌い始めた。小鳥たちは旋回をやめ、椅子の背凭れや窓枠、ランプの上などに降りたって、コーラスに加わる。ティースプーンが指揮をとるようにひゅんひゅん軽快に宙を踊れば、すっかり泣き止んだ赤ん坊が笑い声を上げた。どうやら即興の音楽会をお気に召したらしい。
 先程までとはうってかわって上機嫌な赤ん坊は、手を振りながら言葉にならない声でなにかを喋っている。
「一緒に歌っているつもりなのかもしれませんね」
 マクゴナガルがかすかに微笑んだのを、ニックは見逃さなかった。
 彼女はしばしば厳格さそのものが人間になったかのような人だと言われるが、決して冷たいわけではない。むしろ人情味に溢れている。ニックは、マクゴナガルが赤ん坊の母親──クロエの成長を時に親のような眼差しで見守ってきたことを知っていた。厳格かつ公正なマクゴナガルは表立った贔屓こそしないが、クロエにかける言葉やおくる眼差し、その端々に滲み出る優しさや温かさは、ぬくもりを肌で感じることのできないゴーストでもわかる。──それに似たものが、今、目の前の赤ん坊に向けられていることも。
 マクゴナガルは赤ん坊の顔をハンカチで優しく拭うと、その柔らかい黒髪をそっと撫でて抱き上げた。赤ん坊の小さなからだは、マクゴナガルの細い両腕にもすっぽりとおさまってしまう。そのままマクゴナガルがあやしていると、すぐにうとうとし始めた。
「泣き疲れたのでしょうね」ニックはマクゴナガルの頭上から赤ん坊を見下ろした。「あれだけ力一杯泣いていれば、無理もないことですが」
「そうですね」
 赤ん坊を起こしてしまわぬよう気を使ったのだろう、囁くような声音でマクゴナガルは答えた。
「とはいえ、すぐに目を覚ますでしょう。そろそろお腹も空く頃でしょうから」
「それでは私が、一足先にミルクの用意を頼みに行きましょうか?」
「いえ、マダム・ポンフリーが用意してくれているはずです。お気遣いありがとう、サー・ニコラス」
 赤ん坊が寝息をたて始めた。先程までの泣き声が嘘のようだった。よく見ると、マクゴナガルのローブを小さな手でしっかり握り締めている。
 マクゴナガルは赤ん坊を抱いたまま、部屋を後にした。即席のコーラス隊も口をつぐみ、辺りには久しぶりの静寂が戻ってくる。マクゴナガルに続いて部屋を出たニックが、最後にちらりと部屋を振りかえると、小鳥たちはありふれた羽根ペンとインク瓶に戻っていた。


 医務室ではマダム・ポンフリーが色とりどりの薬瓶を棚にしまっていた。
 なんでもつい先程まで、小競り合いをしたグリフィンドール生とスリザリン生がやって来ていたらしい。マダム・ポンフリーはひどく憤慨した様子で、マクゴナガルに捲し立てた。
「一人はおできだらけ、別の子は鱗だらけ。毛むくじゃらの子や鼻がかぼちゃのように膨らんでいる子もいたんですよ! まったく、いったいどれだけ呪いをかけたんだか!」
「私からも釘を刺しておきましょう」
「ええ、ええ、是非そうしてくださいな! 先生からきつく言って頂くのが一番ですわ。私が何度言ったってわからないんですから」
 そう言う間さえもマダム・ポンフリーは動き回っている。しかし、赤ん坊がふにゃふにゃした泣き声をあげると、さっと近寄ってきて顔を覗きこんだ。「おしめ? ミルク? それともどちらも?」
「マクゴナガル先生、フェリシアを私に。先生はそろそろ授業の時間でしょう? この子はこのまま医務室で預かります」
「いつもありがとうございます。あなたやポモーナたちのおかげで、私は教師を続けたままこの子を預かっていられます。一人ではきっと無理でしたよ」
「お礼を言われるようなことじゃありませんわ。そもそも子育ては、一人でするものではありませんから」
 マダム・ポンフリーは手近なベッドに赤ん坊を寝かせると、すっかり慣れた様子でおしめを取り替え始めた。
 赤ん坊はぐずってこそいるものの、先程までの大爆発のような泣き方に比べればまだまだ大人しいものである。
 それでもマクゴナガルは杖を振り、側にあった花瓶を愛くるしいテディベアに変えた。テディベアはころりと転がるようにして、サイドテーブルから赤ん坊のいるベッドに降りてくる。赤ん坊はすぐにくりくりとした目をそちらに向けた。赤ん坊の手にテディベアのもこもこした腕が触れると、赤ん坊はぎゅっと掴んで引っ張った。自分の身の丈と同じくらいのテディベアを抱き締めて、機嫌が良さそうだ。
 微笑みを浮かべたマクゴナガルが赤ん坊の黒髪を指先でそっとすいた。
「クロエは今どこにいるのでしょうね」
 マダム・ポンフリーがミルクを用意しながら言った。
「彼女から連絡はないのですか?」
「……残念ながら、今のところは何も」
 マクゴナガルはつとめて平静に答える。“最悪”を想像していないわけではないが、進んで考えたいことでもない。何より、闇の帝王が去った今、その“最悪”が起こる可能性は以前よりずっと低いものになっているはずだ。
「きっともうじき戻って来るでしょう。クロエは、母親に置いていかれる子の気持ちをよく知っていますから」
 可愛い一人娘には同じ思いをさせまいとするだろう。マクゴナガルが知るクロエは、そういう魔女だ。
 祈りにも似た気持ちで、マクゴナガルは赤ん坊に囁いた。
「早くクロエが帰って来ると良いですね」
 ──早く戻って来て、この子を、私たちを、安心させてほしい。
 マダム・ポンフリーが静かに頷いた。言葉はない。
 何も知らない赤ん坊はただ無邪気に笑っている。その無垢な笑顔が、やけにまぶしく見えた。

190208 / title::シュロ

マクゴナガル先生は絶対に外せないとして、他に誰を出そうか、ニックは出したいしハグリッドも他の先生も〜と考えていたはずがマダム・ポンフリーとニック(とピーブズ)しか出せませんでした。当時のホグワーツ内部の事情がよくわからないので全体的にふわっとしてしまいましたが、夢主母関連の話題と絡めてマクゴナガル先生を書くのが好きなので、とても嬉しいリクエストでした。この辺りの話は追々本編でも触れていければなと思っています。
リクエストありがとうございました!

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