星の見えない夜のこと

 冬のホグワーツの空気は、どこもしんとして冴えきっている。城の外は一面銀世界。どこもかしこも雪に覆われ、薬草学が行われる温室に行くのは毎度一苦労だ。
 城の中に籠っていたとしても、廊下を歩けば吐き出す息はひやりと白くたちのぼる。そればかりか、鼻や頬、袖からはみ出した指先なんかが、 あっという間に氷のように冷たくなってしまうのだ。そんな風に悴んだ指先では、羽根ペンを持つのもままならない。おかげで、ここ最近フェリシアが書いたレポートのうちいくつかは、最初の数文字がいびつに歪んでいる。
 いましがた書き終えたレポートだって例外ではなかった。指先の温まらないうちに書いた文頭が、子どもの書いた文字のようにが目につく。
 ──まあ、読めないことはない。不恰好には違いないけれど。
 フェリシアは、羊皮紙が先生に言いつけられた長さに十分達していることを確かめると、机の上に広げた羽根ペンやインク瓶を片付け始めた。
 人気のない談話室では、ちょっとした物音も大袈裟なほど煩く聞こえる。瓶の蓋を閉めるカチャカチャという音、衣擦れ、羊皮紙の触れあう乾いた音。いつの間にか勢いも衰えた暖炉の火が、時折自分の役割を思い出したかのようにぱちぱちと鳴る。
 不意に、それらの音に混じって足音が聞こえた。誰かが階段を下りてくる。珍しい。こんな時間に人が来るなんて。自分のことを棚にあげ、フェリシアは首をかしげた。
 しばしばフェリシアは、みんなが寝室に引っ込んでしまった後にこうして談話室を独り占めする。普段、その時間に誰かがやって来ることは滅多にない。トレバーを探しにきたネビルや、何やら良からぬことを企んでいるらしい双子が来たことはあったが、それも一、二度だけ。
 フェリシアが羊皮紙と文房具とをすべて鞄に放り込んだとき、寝室に続く階段から足音の主が現れた。
「あぁ、ハリーだったの。こんな時間にどうしたの?」
「フェリシアこそ! 人がいるなんて思わなかったから、びっくりしたよ」
「私は案外よくこの時間まで談話室にいるのよ」
 フェリシアは笑って談話室の隅に積まれているクッションと毛布を呼び寄せ、 暖炉の近くのソファに移動した。二人で座ってもまだまだ余裕がある大きなソファだ。ハリーがゆっくりやって来て、隣に腰をおろした。
 暖炉の火はまた少し小さくなったが、それでもまだ明るく燃えて揺らめいている。
「眠れない?」
 訊いたのはハリーだった。
「そういう夜もある、って感じ」
「……回りくどい言い方をするけど、ついさっき『よくこの時間までいる』って言ったよね。要するに、多いんだね?」
「眠れないことだけが理由じゃないもの。……でも、最近は確かになかなか眠れないことが多いかな」
「いつから……」
「気がついたら」と、フェリシアは苦笑して毛布を引っ張りあげた。
 いつの頃からか、フェリシアの夜は長くなった。はじめは暑い頃だったような気がする。あの頃は、夏のせいだろうと思っていた。暑い夏が、フェリシアを寝苦しくさせるのだろうと。けれども、夏が過ぎて秋になり涼しくなっても、変わらなかった。その秋さえも終わって、空気が冷たく鋭くなっても、相変わらず。
 ベッドに入って目を閉じても、なかなか微睡むことができない日々。おかげで夜が長い。
 あまりに長いものだから、一人、談話室でより有意義に過ごすことにした。
「このこと、ハーマイオニーは知ってるの?」
「知らないと思う。言ってないから」
 みんながベッドに入るときには、フェリシアもベッドに入る。そうしてみんなの寝息が聞こえる頃に、そっと足音を忍ばせて寝室を抜け出す。ハーマイオニーがそれに気がついていて、知らない振りをしてくれているのでもなければ、きっと誰にも知られていないたろう。うっかり出くわしてしまったネビルや双子だって、その日のフェリシアがたまたま眠れなかっただけだと思ってくれている。
 フェリシアは苦笑を引っ込めて、ハリーに問い返した。
「そういうハリーは? 眠れなくて下りてきたの?」
「うん、まあ……そう。考え事をしていたら、眠れなくて」
 ハリーは膝に載せたクッションの上で指を組んだりはずしたりした。指先が落ち着きなく宙をうろうろさ迷っている。
「フェリシアは……眠れないとき、どうしてる? まさかずっとこうして起きてるわけじゃないだろう?」
「うーん、そうね。レポートを仕上げたり、本を読んだり……。そのうち、いつの間にかソファで寝ちゃってることもあるけど」
 フェリシアは答えながら、もう一度杖を手に取った。
「ココア飲む?」
「ココア?」ハリーが怪訝な顔をした。「あるの? 談話室に?」
「まあね。でも皆には秘密よ。アクシオ、バスケット」
 呼び寄せたバスケットはもちろんフェリシアの私物だ。拡大呪文がかかっていて、見た目よりずっとたくさんのものを入れられる。おまけに保存呪文もかかっているので、食べ物や飲み物を入れておくと一週間は味が落ちない。
 数年前に貰い受けて以来、フェリシアはこのバスケットを重宝していた。特にこの数ヶ月は、厨房の屋敷しもべたちから分けてもらった食べ物を夜食用にストックしておくのに一役買っている。
 フェリシアはバスケットの中からマグカップとボトルを取り出した。
「……ワインボトル?」
「ちょうど良いボトルがこれしかなくて。でも中身はちゃんと、温かいココア──ああ、マグカップが一つしかないんだった。ジェミニオ」
 二つに増えたマグカップをテーブルに並べ、ココアを注ぐ。湯気がたちのぼるのを見て、ハリーが目を見はった。
「ボトルにも何か魔法がかかってる?」
「保存と保温の魔法がかけてあるの。いつでも温かいのが飲めるようにね」
 答えたフェリシアはマグカップを一つ差し出した。
「はい、どうぞ。冷めないうちに」
「ありがとう」
 フェリシアが自分のマグカップに口をつけると、ハリーもそれにならった。
 皆が眠りについたグリフィンドール塔はとても静かで、二人がたてる物音以外には、時折暖炉の火がはぜてたてる音しか聞こえない。その火とて勢いは然程無いから、たてる音もささやかなものだ。
 ふと窓の外に目をやれば、雪がちらついていた。
 外はすでに見渡す限り一面の銀世界。今窓を開けて外を眺めれば、おそらく雪明かりによって森の入り口辺りまで見ることができるだろう。
「フェリシアが眠れないのは──」
 はらはらと舞う雪を見つめていると、ふいにハリーが口を開いた。ハリーはココアからたちのぼる湯気が宙に溶けていくのを見つめていて、フェリシアを見てはいない。
 視線を合わせないままで、フェリシアは答えた。
「ハリーと同じ理由」
「同じ?」
「そう──考え事をしてしまうから」
「それって──」
「ストップ。これ以上は言わない」
 フェリシアがそう言って笑うと、ハリーは微妙な顔をした。
「僕には言えない──いや、言いたくないこと?」
 尋ねる声が硬い。
「そういうことじゃなくって」と、フェリシアは首を横に振った。「私だけが言うのはフェアじゃないような気がするだけ」
 いくら相手がハリーであっても、何もかも打ち明けられるかと言われれば答えはノーだ。
 ハリーだから言えること。ハリーだからこそ言えないこと。
 そのどちらもがフェリシアにはある。ハリーと出会った頃からそうだったから、いつの間にか、誤魔化して口をつぐむのが当たり前になってしまった。
「それに、今くらいは違うことを考えたいと思わない? せっかく話し相手がいるんだもの」
 フェリシアはマグカップを持ち直し、今度はしっかりとハリーを見た。視線を感じたのか、ハリーもフェリシアのほうを振り返る。母親譲りらしい緑の瞳が、フェリシアを真っ直ぐに射抜いた。
 先に目をそらしたのはフェリシアのほうだ。そっと視線を外すと、ココアに口をつけた。
 ややあって、「それもそうだね」とハリーが頷く。
「でも改まって考えると話題が──」
「変身術のレポート、もう終わった?」
「えっ?」
 ハリーが面食らったような声をあげた。その声色には、よりにもよってそういう話題を選ぶなんて、というハリーの本音が滲んでいる。
「どうなの?」
「いや……あー……実はまだ一文字も書いてないんだ」
「あらら」
「そういうフェリシアはどう──いや、君ならとっくに終わってるね……」
「夜が長いから自然と捗るの」
「そうじゃなくても君は終わらせるのが早いじゃないか。要領が良いっていうのかな、いつもいつの間にか終わらせてる」
「褒められてる?」
「うーん、まあ、そうだね。どちらかというと褒めてるよ」
「どうせならはっきり褒めてほしいわ」
「フェリシアでもそういうこと言うんだ」
 ハリーが笑ったので、フェリシアも笑った。
「誰だって褒められたら嬉しいものでしょ」
「フェリシアでも?」
「ハリーは私のことをなんだと思ってるの」
「ロンがここにいても同じことを言うと思うよ」
「腑に落ちない……」
 フェリシアはふて腐れたふりをして肩を竦めた。ふりであることはハリーにもわかっている。笑い声がフェリシアの耳をくすぐった。
 気づけば暖炉の火は随分弱々しくなってしまっていた。さいわい談話室はまだ暖かいし、毛布もあるけれど、今夜はとても冷える。窓の外でちらついていた雪も先程より勢いを増して、風に吹かれながらあちらこちらへびゅんびゅん舞っている。フェリシアは暖炉に杖を向けた。
「そうだ、マシュマロがあるの。せっかくだから焼いて食べましょ」
「何でも出てくるね」
「なんならスコーンもあるわよ、あとジャムも。それから、マフィン、ソーセージ、ハムと──」
「フェリシアってそんなに食いしん坊だった?」
「だって……厨房の気の良い妖精たちがたくさんくれるんだもの」
「君が何度も貰いに行くから、きっとかなりの食いしん坊だと思われてるんだよ」
 ハリーはくすくす笑ったが、手を伸ばしてフェリシアが差し出したマシュマロを受け取った。
「ビスケットはある?」
「あるけど」
「挟んで食べよう。ついでにソーセージも焼く?」
 フェリシアは思わず吹き出した。どっちが食いしん坊だ。
「オーケー。いっそスコーンとジャムも出しちゃおうか?」
「いいね」
 眠りについている皆を起こさないようひそかに、静かに、それでも軽やかに弾けた二人分の笑い声にあわせて、暖炉の火が勢いよくはぜた。姿を見せない屋敷しもべが、気を利かせてくれたのかもしれない。
 今夜はきっと長く寒い夜になる。外はじきに吹雪に変わるだろう。けれどグリフィンドールの談話室は、たった二人の為だけにこんなにも暖かいのだ。

190118

ちょっと未来、をどれくらい先にするか悩んで、結局話のなかで明言することは避けて書かせていただきました。一応、現時点の本編よりもちょっと未来の1996年を想定していますが、それ以降ならいつ頃をイメージして頂いても大丈夫、なはずです(ちょっと未来=卒業後という意味でのリクエストだった可能性に今更気がつきましたがその場合は何卒ご容赦ください……)。本編ではハリーよりもロンとの軽口が多くなりがちなので、ハリーと夢主のみの会話を書くのは新鮮でした。ご期待にそうものになっているかわかりませんが、リクエストありがとうございました!

 
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