愛のみちびき

 子供部屋から赤ん坊の泣き声が響いてくる。
 その声の大きさには未だに驚かされる。何しろあの小さなふくふくとした体からは想像もつかないほどの声なのだ。一体全体、フェリシアの腕にすっぽりおさまってしまうくらいの体のどこに、あれだけの声を発するパワーがあるというのだろう。日々成長する体に合わせて泣き声も大きくなるので、近頃はドラゴンの咆哮にもひけをとらないのではないかとフェリシアは睨んでいる。
 フェリシアはトンクス家の末っ子として育ったので、長いこと赤ん坊にはとんと縁がなかった。だから、初めて赤ん坊の泣き声を聞いたとき──これは我が子ではなく、テディが生まれたときのことだ──には、その力強い泣き方に心底驚いた。「赤ん坊が泣くのは元気な証拠」とアンドロメダが笑っていたから、なるほどそういうものなのか、と当時は思ったものだが、いざ自分が母親になってみると、なかなかそういう風にゆったりとは構えていられない。
 赤ん坊は言葉を持たない。不満も不安も、表明する手立ては泣き声ひとつだ。
 けれども、泣き声ひとつから正解を導きだすことは、フェリシアにはまだ難しい。母親が恋しいのか、お腹が空いたのか、おしめを換えてほしいのか。ひとつひとつ試してみても、そのどれでも無いこともある。そういうときフェリシアは、顔を真っ赤にしてわんわん泣いている赤ん坊が泣き疲れて眠るまで待つしかないのだ。
「そのうちなんとなく解るようになるわよ」とドーラは言う。さて、本当にそうなのかしら。少なくともフェリシアは、今聞こえている泣き声が何を求めているものなのか、よくわからなかった。
 ミルクは少し前にあげた。おしめも換えたばかり。
 泣き声を合図に杖を振る手を止めたフェリシアは、杖を握りしめたまま逡巡する。作りかけのミートパイは、あとは焼くだけの状態。──杖を振ろうか振るまいか。子供部屋へ行って赤ん坊をあやす間に焼いておけば、時間の有効活用にはなる。
 悩んだそのわずかな一瞬の間にも泣き声は激しさを増して、結局フェリシアは杖を振らずにキッチンを出た。子どもに気をとられている間にパイが炭に化けてしまっては元も子もない。
 さいわい、ベビーベッドでお待ちかねの赤ん坊は抱き上げてあやすとすぐに泣き止み、フェリシアはホッとした(今回は母親が恋しかったらしい。なるほど)。
 やがて、赤ん坊は再び寝息をたて始めた。つい、その寝顔に見いってしまう。泣き声に狼狽することはあっても、我が子は可愛いものだった。テディだって可愛いと思ったけれど、どうやら自分の子というものは別格に可愛く思えるらしい。
 フェリシアは赤ん坊をそっとベッドに寝かせなおした。寝かせた瞬間に泣き出したらどうしようと心配だったが、赤ん坊はわずかに身動ぎしただけで、変わらず穏やかな寝息をたてている。暫し寝顔を見つめた後、フェリシアは床の上をぴょこぴょこ跳ねながら行進していたぬいぐるみたちを杖の一振りで壁際に整列させ、足音を忍ばせて子供部屋を後にした。
 キッチンではミートパイが待っている。他に作らなければいけないのは、マッシュポテトとローストビーフ、ヨークシャー・プディング。デザートも忘れちゃいけない。
 間に合うかしらと時計を見上げたちょうどそのとき、庭からバシンという音が聞こえた。少しおいて、呼び鈴が鳴る。
 赤ん坊が起きやしないかどきりとしたが、泣き声は聞こえてこない。フェリシアは胸を撫で下ろしながら玄関へ向かった。
 一体誰だろう。手伝いに来てくれる予定のアンドロメダだろうか。しかし、煙突飛行ではなく、庭へ姿現しをして呼び鈴を鳴らしたということは、正式な来客だ。
 ドアを開けてみると、そこには大きな包みを抱えたシリウスが立っていた。「やぁ、フェリシア」
「お父さん! どうしたの?」フェリシアは目を丸くした。「約束の時間にはまだ早いんじゃない?」
「思ったよりも早く用事が済んだから、少し早く来たんだ。入っても?」
「少しどころか、うんと早いと思うのだけど……?」
 フェリシアは苦笑しながらも、ドアを大きく開けてシリウスを招き入れた。
 シリウスの無実が証明されて早数年、逃亡する必要がなくなったシリウスは、今ではすっかり健康そのものの見た目をしている。かつての脱獄犯の面影は、最早どこにもない。
 シリウスは、娘のフェリシアから見てもハンサムな顔立ちに歳のわりには子どもっぽい表情を浮かべ、リビングのソファに包みを置きながら言う。
「調子はどうだ?」
「うーん、まあまあ、かな。慣れないことばかりで、ちょっと大変かも……紅茶でいい? それともコーヒー?」
「いや、気を遣わなくていい」
「そう?」
 本人がそう言うならと、フェリシアはカップを食器棚に戻した。そのまま杖を一振り、じゃがいもの皮を剥く。
「お父さんこそ、調子は? ちゃんと食事してる?」
「アンドロメダみたいなことを言うんだな。大丈夫さ、アンドロメダがしょっちゅうご馳走してくれるし、最近はハリーやリーマスも家に招いてくれる」
「そんなにお呼ばれしてるの?」
「昔から人気者なもんでね」
 シリウスはにやりと笑った。……その表情の様になっていることといったら。フェリシアは肩を竦めた。
「自宅にいるほうが少ないんじゃない?」
「いいんだ、これまでにもう一生分閉じこもったからな」
 今度もシリウスは笑ったが、先程と違って自嘲の響きが混ざっていた。
「毎日でも外出しなければ釣り合わないさ。それに、一人での食事ほど味気ないものもない」
 フェリシアはどんな表情で答えれば良いのかわからなかった。シリウスは同情を求めているわけではない。ひどく曖昧な微笑みを貼りつけて「それもそうね」と頷くと、シリウスは「そうだろう?」と嗤う。
 しかし、「ところで」と切り出す頃には、自嘲的な表情は消えていた。
「彼は? 仕事か」
「ええ。夕食までには帰ってくるわ」
「そうか。あの子は?」
「部屋で寝てる」
 ふむ、とぼやけた返事とともに頷いたシリウスの顔は、プレゼントを楽しみに待つ子どもを思い起こさせる。そわそわした空気を感じ取ったフェリシアには、シリウスの次の言葉が想像できた。
「様子を見てこよう」
 予想通りの言葉を残していそいそとリビングを出ていったシリウスは、先程ソファーに置いたばかりの包みをしっかりと抱えていた。


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 赤ん坊を起こしてしまわないように、シリウスはそっと子供部屋のドアを押し開けた。以前、少し寝顔を見るつもりでドアを開けた途端に泣き出し、「せっかく寝たところだったのに」とフェリシアに叱られたことがあるため、細心の注意を払う。
 そーっと、そーっと部屋へ入ると、赤ん坊は寝息をたてていた。
 やわらかな黒い髪に、ふっくらとした白い肌。フェリシアが赤ん坊だった頃によく似ている。まぶたの向こうにある瞳の色が透き通ったグレーであることも含め、赤ん坊はフェリシアにそっくりだ。言い換えれば、シリウスによく似ているということでもある。
 自分になど似なくて良かったのにと顔を見るたびに思うのだが、フェリシアに似ているのだと考えると、にわかに微笑ましく思えてくるのがシリウスは不思議だった。
 シリウスは、家族というものに良い思い出がない。母親、父親、弟、おじ、おば、いとこにはとこ。親戚の名を連ねていけばヘドが出るほど多いが、そのなかで好きだった身内などたった数本の指で数えきれてしまう程度しかいなかった。
 そんな自分が親になること自体、当時は信じられない気持ちだったというのに。いまや孫がいる身とは、つくづく不思議である。
 規則的な寝息を聞きながら、シリウスは抱えてきた包みを静かに窓際に置いた。
 この子供部屋を構成しているものの三分の二は、シリウスが買ってきたものだった。壁沿いに整列しているぬいぐるみたち、草原を駆け回る小鹿たちの壁紙、ベッドメリーにベビーベッド。残りの三分の一が、アンドロメダやフェリシアの友人たち、赤ん坊の父親やその親族からの贈り物である(たとえば天井にかけられた星空の魔法はアンドロメダが施したものだし、天気によって美しく色を変えるカーテンはハーマイオニーから贈られたものだ)
 決して、父方の親戚や友人たちからの贈り物が少ないのではない。一部のハイセンス(・・・・・)ユーモアに富み過ぎている(・・・・・・・・・・・・)贈り物を、フェリシアとアンドロメダが選別して物置に閉じ込めている(・・・・・・・)上、シリウスのプレゼントの数や頻度がほかを上回っているだけだ。
 我が子の子育てをほとんどできなかったが故なのか、シリウスは自分でも笑ってしまいそうなほどに孫を可愛がっていた。
 すぴすぴというどこか間の抜けた寝息すらも可愛らしいと思えるのだから、可笑しなものである。目に入れても痛くない、というやつなのだろう。
 そっと頬に触れたシリウスの指先を、赤ん坊は眠ったままその小さな手で掴んだ。
 何も知らずに眠る赤ん坊はやはり可哀想なほどに自分に似ているが、さいわい、シリウスの両親とこの子の両親は似ても似つかない。この子は、アンドロメダをはじめとして気の良い身内に恵まれている。テディとは歳も近い。リーマスとドーラ(あのふたり)の子どもなのだから、テディはきっと心根の良い少年に育つだろう。
 それだけではない。友人にもきっと恵まれる。ハリーの子どもたち、ロンとハーマイオニーの子どもたち──この子には、素晴らしい友人との出会いがホグワーツに行くよりも前に訪れるのだから。
 この子に約束されている幸せが、シリウスにとってもこの上ない幸せに思えた。
 不意に風が窓を揺らし、ガラスが音を立てた。
 ガタガタという音で目を覚ましてしまった赤ん坊がむずかって、シリウスは慣れた手つきで抱き上げた。赤ん坊はシリウスの片腕にすっぽりとおさまってしまう。杖を振って窓ガラスを黙らせ、ぬいぐるみたちを踊らせた。ベッドメリーは優しい子守歌を奏で始める。
「よし、よし、良い子だ──」
 シリウスはふと、赤ん坊のフェリシアをあやしていた冬の日を思い出した。何をしても泣き止まず、自棄で犬の姿に変身してみれば、それが随分気に入ったらしいフェリシアはぴたりと泣き止んで喜んだのだ。──そういえばまだ、この子の前では変身してみたことがない。
 赤ん坊は、床を跳ねるぬいぐるみのフクロウで気が紛れたらしく、もう泣いていなかった。
 それじゃ、試すのは次だな──シリウスの小さな独り言は、赤ん坊のご機嫌な笑い声と混ざってベッドメリーのオルゴールの中に溶けていった。

181115 / title::ユリ柩 ribbon::よふかし

孫に接するシリウスを自分なりの解釈で書かせて頂きました。デレデレ成分少ないですねすみません……(そして半分くらい夢主のほうがメインになっているのは弁明のしようもありません…)拙宅シリウスは子育て殆どできないまま投獄されているので、最初は孫に戸惑いそうな気がするのですが、慣れてきたら色んな物をたくさん買い与えるし頻繁に会いに来るんじゃないかな〜と思いました。孫の年齢等指定がなかったので赤ちゃんにしてしまいましたが、おそらく4〜5歳くらいから悪知恵を授け始めるのではないかと……。色々と解釈違いでしたら申し訳ありません。リクエストありがとうございました!

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