あの頃と、



 私の人生は──といってもまだ十五年ぽっちしか生きていないわけだけれど、それでも、短いなりにそこそこの波乱に満ちていたんじゃないかなあ、なんて。


 両親と私の三人家族。母は学校の先生、父はヒーロー。
 あの頃の私にとって父がヒーローであることはとても誇らしいことだったし、父をオールマイトと同じくらいかっこいいヒーローだと思っていたけれど、世間的にはマイナーなヒーローだったらしい。実を言うと父のことはあまりよく知らないのだ。ただ、ほとんど家にはいない人だったような覚えはある。マイナーとはいえヒーローはヒーローだから、仕事が忙しかったのだと思う。マイナーなりに仕事を選ばずいろんな地方を飛び回っていたのかもしれない。あるいは別の理由があったのかもしれない。未だにその真相は知らないままだ。私が知っていることといえば、父の“個性”が間違いなく自分に受け継がれていることくらいである。
 私が“個性”を発現したのは、四歳の誕生日の二か月ほど前になってからのことだった。同い年の友達のほとんどはとっくに“個性”を発現していたこともあって、母はきっと私が無個性なのではないかと心配していたのだろう。私が初めて“個性”を使ったときに母がほっとしたような表情を浮かべたことは、あれから十年以上経つ今でもはっきりと覚えている。それから、珍しくこのときは父も一緒にいて笑顔で抱きあげられたことも。

「まさかおれの“個性”のほうを継いでるなんてなあ」
「私のじゃなくてよかった」
「そんなことないだろ。お前の“個性”、おれは好きだけど」
「そういうことじゃなくって。守璃は女の子だし、あなたの“個性”なら護身に使えて安心でしょ。私の“個性”ほど、感情に左右されやすくないし」
「公共の場での“個性”の使用は……」
「そうだけど、身を守る為なら正当防衛で見逃してもらえるんじゃない?」
「まあ、場合によってはそうかもしれないな」
「頼もしい“個性”よね」
「……ありがとう。おれもこの“個性”は誇りだから、守璃が継いでくれて嬉しいよ」

 父がはにかむ顔を見たのはこのときが初めてだった。家にあまりいないこともあって父の一挙一動が物珍しく感じられるのはいつものことだったけれど、その表情はとりわけ珍しかった。

「なあ守璃、この“個性”はな、自分のことを守れるだけじゃなく、周りの誰かのことも守れる“個性”なんだ。おまえにヒーローになれとは言わないし、所かまわず“個性”を使えなんて言えないけど、いざって時にはそういうことができるような、優しくて勇気がある人になってほしいな。そしたら父さんはもっと嬉しい」
「ちょっと。この子にはまだ難しい話よ。それに私は、いざという時は何よりもまず自分の身を守ってほしい。ヒーローのあなたの前で言うことじゃないとは思うけど……他人の為にあなたやこの子が傷つくのは嫌よ、私」
「気持ちはわかるよ。でも、おれは──」


 その夜が、父と話をした最後だったと思う。
 もともと家にいることが少ない人だったから、父が帰って来ないことには慣れていた。とはいえ、その頃の私は父が帰ってくる日を今まで以上に心待ちにしていた。“個性”の発現から数か月が経つのに、なかなか上手く“個性”を扱えずにいたからだ。私の“個性”は父譲りなのだから、父に教えてもらうのが一番だと思っていた。

「おとうさん、いつ帰ってくる?」
「うーん。お母さんもわからないな。最近とても忙しいみたいだから……今度電話するときに聞いてみるね」

 そう答えた母は笑っていたけれど、今になって思えば、少し元気がなかったかもしれない。


 事件が起こったのはそんなある日のこと。
 母と二人でデパートに来ていた。たぶん、日曜日。たくさんの人で賑わっていた。

「守璃、走らないで。迷子にならないようにお母さんと手をつなごうね」
「はあい」

 差し出された母の手をとったとき、突然フロアに耳をつんざくような悲鳴が響いた。なんだなんだと買い物客が振り返る。ある方向から、怯えた表情のおとながたくさん走ってくる。ちいさな私から見えるのはその人たちの脚くらいのもので、いったい何が起きているのか、みんなが何から逃げているのか、ちっともわからなかった。それでも、ただならぬ空気は幼いながらも感じ取れた。なにかおそろしいことが起きている。わけのわからない恐怖が沸き上がってきて、母の手をぎゅっと握ると、母はしっかりと私を抱き上げた。

「大丈夫よ」


 ──それから起こったことを不鮮明にしか覚えていないのは、きっと幼い私の心が耐えきれなかったからなのだろう。
 ……そう、たぶん、私を抱えた母も何かから逃げたのだと思う。でも、逃げられなかった。

「大丈夫」

 私を抱きしめたままそう繰り返した母のからだから、力が抜けていく。母ごと冷たい床に倒れこむ。響く誰かの悲鳴。くずおれた母の肩越しに、私たちを囲む透明な壁を見た。私の“個性”だった。私と誰かを守れるはずの頼もしい“個性”は、私と、動かない母のからだを、ただ無意味に取り囲む。壁は幾層にも重なってどんどん分厚くなっていくけれど、私にはどうすることもできなかった。どうやってこの壁が分厚くなっているのかもわからなければ、どうやって消したらいいのかもわからない。ただおそろしい空気が流れているだけ。聞こえてくる音のすべてが、意味も分からずおそろしいだけ。なんにも大丈夫じゃない。私たちを隔てる透き通った壁の向こうで、母を刺した男が黒ずくめの人にのされて、白いなにかでぐるぐる巻きになって取り押さえられるのをぼんやりと見た。
 やがて壁の向こうからひとりの大人が声をかけてきた。

「お嬢ちゃん。これは、君の“個性”かな?」

 そのときようやく、悲鳴が聞こえなくなっていることに気が付いた。壁越しの声はくぐもっていたけれど、「そっちに行ってもいいかい?」と続いた。

「……これるの?」
「君がこれを消してくれたらね」

 コンコンと壁をノックしながら大人は答えた。「お願いできるかな」

 私は「できない」と「わかんないの」を繰り返すしかなかった。大人は困った顔をして、壁の向こうにいるほかの大人たちと顔を見合わせた。その間にも壁の層は厚みを増してしまう。私はどうしたらいいのかますますわからなくなった。困ったとき、わからないことがあるとき、聞けばいつだって答えてくれたお母さんは今は何も答えてくれないし、動くこともない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。そう思うほど、壁の層が厚くなる。

「“個性”が暴走してるみたいだ」
「参ったな……どこか通れそうな隙間があれば……」

 聞こえてくる会話すべてが私を追い詰める。すっかりパニック状態に陥っていた。どうしよう。どうしたらいい。“個性”のことも。お母さんのことも。どうしよう。どうしよう。
 誰か。
 瞬間、突然、すべての壁が消えた。
 大人たちが「おお!」と声を上げる。ところが数秒後、また壁ができる。そして消える。その繰り返しを数回。

「深呼吸だ」

 いつの間にか上から下まで真っ黒な男の人がすぐ目の前にいた。ついさっき、“犯人”を取り押さえた人だ。

「ゆっくり息をしてみろ。ほら」

 私の目の高さでしゃがみこんだその人はゴーグルに隠れていて顔がよく見えない。けれど、真っ直ぐに見られている。見えないのに、目が合った気がした。

「もう大丈夫だ」


 それがイレイザーヘッドとの出会いであり、私の人生の転機だったのである。
180410
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