一難去ってまた一難



 相澤の帰宅から一夜が明けたが、今日も守璃の表情は明るくない。昨夜のうちに相澤が、比較的軽度の骨折で済んだ左腕──そうはいっても酷い骨折だったことには違いないのだが──の固定を器用にも自力で外してしまったからである。もちろん、医者のすすめ等ではなく自己判断だ。左腕には痛みも違和感も無いし、何より、両腕とも固定されていては 食事どころか着替えも入浴も何もかも一人ではまともに出来ない、というのが相澤の主張だった。
 それくらいいくらでも補助するつもりでいた守璃としては、一人では出来ないままでも良いから、医者かリカバリーガールが許可するまで安静にしてほしかった。片腕を自由にしたことで、確かに相澤は守璃が懸念していたよりもずっと多くのことを自力で出来ていたが、素直に良かったねとは言えないのが守璃の本音である。
 普段はわざとずらしている登校時間を相澤に合わせ、強引に保健室へ付き添えば、出迎えたリカバリーガールは渋い顔をした。

「朝、保健室に来てもらうことにして正解だったね……まったく」

 リカバリーガールが小言を言いながら、淀みない手つきで再び相澤の両腕ををきっちり固定する。相澤は当分の間、毎朝リカバリーガールの診察と処置を受けるために保健室に来なければならない。不服そうにした相澤に、守璃はそっと溜め息を零した。
 これから毎晩、勝手に左腕の固定を外す相澤とそれを嗜める守璃の、ささやかながらも譲れない攻防戦が繰り広げられることになるのだが、二人はまだ知りようもない。

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 包帯だらけの相澤が教室に入ってくると、教室には驚きの声が上がった。「相澤先生復帰早えええ!!」

「素晴らしいプロ意識ですわね……しかしお体に障るのでは……」

 前の席からは八百万の呟き声が聞こえた。最後列の守璃は何も喋らなかったが、その目はじっとりとした半目である。
 当の相澤は生徒たちの反応には気にも止めず、いつものように教壇に立つと、「戦いはまだ終わってねえ」と告げた。

「雄英体育祭が迫ってる!」
「クソ学校っぽいの来たあああ!!」

 にわかに教室がざわめく中、「待って待って!」と慌てる声が上がった。「敵に侵入されたばっかなのに大丈夫なんですか!?」

「逆に開催することで雄英の危機管理体制が盤石だと示す…って考えらしい。警備は例年の五倍に強化するそうだ。何より雄英の体育祭は……最大のチャンス。敵ごときで中止していい催しじゃねえ」

 日本において、雄英体育祭はかつてのオリンピックに代わるビッグイベントだ。その様子は全国に生中継され、多くの国民が熱狂するだけでなく、スカウト目的のプロヒーローも注目する。
 ヒーロー科卒業後の進路としては、プロ事務所にサイドキック入りするのが定石だ。そこで数年経験を積んだ後独立するもよし、そのままサイドキックを続けるもよし。とにもかくにも、まずはプロヒーローにサイドキックとして雇って貰わなければならない。雄英体育祭は、その足掛かりになるのだ。

「当然、名のあるヒーロー事務所に入った方が経験値も話題性も高くなる。時間は有限。プロに見込まれれば、その場で将来が拓けるわけだ」

 体育祭は年に一回。計三回だけのチャンス。ヒーローを志すなら、絶対に外せないイベントなのである。

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 四限の終了とともに教室が騒がしくなるのはいつものことだが、今日はいつにも増して賑やかだ。話題に上るのは専ら体育祭のことである。
 いつでも朗らかで麗らかな麗日さえ、闘志に燃えた凄まじい表情をしている。その気迫たるや。
 思わず気圧されていると、「今日はお昼どっち?」と耳郎に声をかけられて、守璃は自分の空腹を思い出した。

「今日は食堂」
「一緒に行こ」
「俺もついてこー」
「あんたには声かけてないけど?」
「ひでぇ! いーじゃん別に」
「はは。今日は何食べよっかなー」

 今日も今日とて食堂は混雑していたが、この混みようにも少し慣れてきた気がする。
 カウンターで注文した天ぷらそばを受け取り、列から外れると、先に席を取っていた耳郎が手を振るのが見えた。さらには瀬呂、切島、尾白に葉隠もいる。

「おお、増えてんね」
「席探してるっぽかったから声かけた」
「お邪魔してまーす」
「守璃ちゃんの席確保してあるよー!」
「ありがとー」

 守璃が耳郎の前、葉隠の隣の空席に腰をおろしたとき、上鳴がやって来た。トレイに載っているのはカツ丼だ。少し早い験担ぎだろうか。

「アレッ、これ俺の席ある?」
「あるじゃん、ほら」

「そこ。端」と耳郎が指差した。切島の隣の、一番端の席だ。守璃たちは奇数なので、必然的にその正面には知らない人が座ることになる。

「ええ……俺おまえらと一緒に来たのになんか遠いな……?」
「ごめんな、俺らが座っちゃったから……」
「いや、こういうのは早い者勝ちだろ」
「くっそ、せっかく護藤の好きなもん聞き出すチャンスだと思ったのに」
「その話まだするんだ……」

 そういえば以前訊かれたときに答えなかったっけな、と守璃は他人事のように思い出しながらそばをすすった。途端に、上鳴が声を大きくする。

「あっ、護藤もしかしてそば好きなん?」
「ん、まあ嫌いじゃないけど」
「じゃあさ、美味い店知ってるから今度一緒に行かね?」
「あはは、行かないかな」
「なんで!」
「食堂ので満足してるし……」

「そりゃそうだよな。ランチラッシュだし」と切島が納得顔で頷いた。耳郎は呆れ顔だ。
 やがて話題は再び体育祭のことになった。狙うは優勝だが、その為にはA組のツートップである轟と爆豪をどうにかしなければならないのは確実だ。未だ関わりのないB組の生徒ももちろん油断出来ない。競技内容も当日まで不明。攻略法やら何やらああだこうだと盛り上がる中、守璃の思考は少しずつ体育祭から逸れていく。
 たとえばそう、相澤はちゃんと昼食をとるだろうか、だとか。
 夕食と朝食は、勝手に固定を外した左腕を使ってどうにか自力で食べていたものの、今は両腕とも固定されている。一人での食事は無理だろう。とはいえ、今朝「昼休みご飯食べるの手伝いに行こうか」と言ってみたところ本気で拒否されてしまったし、腕の包帯がとれるまで弁当は要らないとまで言われている。やっぱりゼリーで済ますつもりなのだろうか、リカバリーガールとランチラッシュが何か手を打ってくれるといいなあ、もしくはプレゼント・マイクやミッドナイトが世話を焼いてくれれば、むしろそうしてくれるように予め頼んでおくべきだったのでは──

「守璃ちゃん!」
「わ! え、なに?」

 耳元で聞こえた葉隠の声に守璃は肩を揺らした。気づけば六対の目が自分を見ていて面食らう。この状況、既視感がある。

「早く食べないとおそばのびちゃうよ!」
「え……あ! やば」
「なんかすっごい顔してたけど」
「や、なんでもないなんでもない」

 守璃は笑いながら顔の前で手を振った。兄の食事が心配で上の空だったなんて、恥ずかしくて言えやしない。

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 放課後になると異変が起きた。教室の外に他のクラスの生徒たちが押し寄せていたのだ。まだ教室の後ろにいる守璃にもわかるくらいの人だかりが出来ている。皆が驚いたり戸惑ったりする中、爆豪は相変わらずの態度だった。「敵情視察だろ、ザコ」

「敵の襲撃を耐え抜いた連中だもんな。体育祭の前に見ときてえんだろ。意味ねえからどけモブ共」

 途端に、入り口付近にいた生徒たちの顔が強張るのが見えた。突然一方的にザコモブ呼ばわりされたら、そりゃあそんな顔にもなる。
 どうして爆豪はわざわざ敵を増やす物言いをするのだろう。もう少し人当たりが良ければ、ヒーローとしても申し分ないと思うのだが。
 もちろんそんな事を本人に言えば、待ち受けているのは余計なお世話だと怒鳴られるか爆破されるかのどちらかに違いないので、守璃は黙ったまま苦々しい表情を浮かべた。

「どんなもんかと思って見に来たが、ずいぶん偉そうだなぁ」と、爆豪とは対照的な落ち着いた声がした。
 どこかで聞いたような声だ。誰だっけ、どこで聞いたんだろう、と記憶を辿る。

「ヒーロー科に在籍する奴はみんなこんななのかい?」
「ああ!?」
「こういうの見るとちょっと幻滅するなぁ」

 声の主が人だかりを押しのけて現れる。ようやく姿の見えたその人物を見て守璃ははっとした。マスコミに囲まれた朝、人混みの中から引っ張り出してくれた男子生徒だった。
 あの朝以降見かけることがなかったが、どうやら同学年だったらしい。

「普通科とか他の科って、ヒーロー科落ちたから入ったって奴けっこういるんだ。知ってた?」
「?」
「体育祭のリザルトによっちゃ、ヒーロー科編入も考えてくれるんだって。その逆もまた然りらしいよ……」

 彼はまだ教室の奥の守璃には気がついていないようだった。まっすぐ爆豪と向き合って、静かに淡々と、不敵に語る。

「敵情視察? 少なくとも普通科(おれ)は、調子のってっと足元ゴッソリ掬っちゃうぞっつー宣戦布告しに来たつもり」

 思わず息を呑んだ。冗談の類いではないことは、その目を見ればわかる。
 すると彼のさらに後ろから、「隣のB組のもんだけどよぅ!」と声を張り上げる生徒が現れた。

「敵と戦ったっつうから話聞こうと思ってたんだがよぅ! エラく調子づいちゃってんなオイ! 本番で恥ずかしい事んなっぞ!!」

 これではA組はまるでヒールだ。
 主に爆豪の発言のせいだと思われたが、当の爆豪は歯牙にもかけない。強引に人だかりを押しのけて帰っていった。いわく、「上に上がりゃ関係ねえ」
 爆豪がいなくなると、普通科の彼も教室の奥にいる守璃に気がついたようだった。目が合って、彼は微かに目を見開いた。
 声をかけようか、どうしようか。迷った後に守璃は控えめに会釈をしたが、彼はふっと視線を逸らし、教室に背を向けて人だかりの中に消えていってしまった。
180523
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