兄妹



 相澤が着替えをする間、プレゼント・マイクと仕事の話をするというので、守璃は病室の外で待つことになった。リカバリーガールも着いてきて、白い壁に背を向けて肩を並べる。もっとも、リカバリーガールの肩は守璃よりも頭一つ低い位置にあったけれど。
 あの両腕では、着替えも時間がかかるだろう。本当に今日退院するのだろうか。無理はしないでほしいのに。守璃がぼんやり宙を見つめていると、リカバリーガールが口を開いた。

「知ってるかい? あんたのおかげで、今日退院できるくらいまで持っていける程度の怪我で済んだんだよ」
「え?」
「証言を元に状況を振り返るとね、あんたの“個性”がイレイザーヘッドの周りで働いていたってことがわかったのさ。もしそれがなかったら、イレイザーの怪我はもっと酷いことになっていたかもしれない」
「でも、あのとき私“個性”のコントロールできてなかったですし……結局兄さんは腕も顔も粉砕骨折ですよ」
「それでも命は助かった」
「……それ以上を望むのは、高望みなんでしょうか」
「怪我一つなく、ってことかい? ……そりゃあ少し、難しいだろうね。ヒーローっていうのは命懸けの職業だよ」
「……そう、ですよね」
「でもねえ、ヒーローだって怪我をしないに越したことはない。あんたがそう願うなら……あんたの“個性”なら、その為にやれることはたくさんあるさ」

 しっかりおし。その小さな手のどこにこんな力が、と思うほどの力強さで、リカバリーガールが守璃の背を叩いた。

「その為にもまず、今夜はちゃんと眠るんだよ」

□□□

 プレゼント・マイク──オフの姿だから山田と呼ぶべきだっただろうか──に自宅まで送り届けられた後、守璃は困ったような顔をして、ソファに座る相澤を立ったまま見下ろした。

「本当に退院して良かったの? その腕でどうやって生活するの?」

 相澤の腕は両腕とも肩から吊られていて、どちらもまともに使える状態ではない。せめて比較的軽度の骨折で済んだ左腕だけでも自由にしてくれれば良かったのだが、リカバリーガールが頑として首を縦に振らなかったのだ。

「処置が大袈裟なだけだ。なんとかなる」
「……授業は? 板書出来ないでしょ」
「なんとかする」
「なんとかって」

 相澤が答えるごとに守璃の眉がハの字に下がっていく。相澤はその顔を久し振りに見たような気がした。

「リカバリーガールに言われたよ、今無理するとすぐ骨にヒビ入るって。私に手伝えることはなんでもするから、出来る限り安静にしてほしい」
「……善処する」
「兄さん」

 答えが気に入らなかったらしい守璃はきゅっと眉を寄せた。昨日まではなかった目の下の隈と相俟って、いっそう悲劇的に見える。相澤はふと病室で見た涙を湛えた顔を思い出し、随分懐かれたものだなと思った。
 今では兄と呼ばれることにすっかり慣れてしまったものの、血の繋がりはないし、有り体に言って相澤はもう三十路を超えたおっさんである。身なりにあまり気を使わない為、小汚ないなどと言われることも少なくない。相澤が若く守璃が幼かった昔であればともかくも、年頃の娘が懐く相手として、自分のようなおっさんなど一般的には論外ではないかと思うのだが。
 刷り込みの一種だろう、と相澤は推測する。
 四歳の子どもにとって、親は世界そのものだ。そんな大きすぎるものを失い、拠り所をなくした時、そこに居合わせた大人が偶然自分だっただけ。
 ──では、柄にもなく“兄”をしている自分は。
 情がわいたのか。絆されたのか。
 いつから目の前の少女を、なんの違和感もなく“妹”と思うようになったのだったか。はっきりとした時期は思い出せそうもない。やはり自分の柄ではないなと、いっそ笑ってしまいそうだった。

「……余計なお世話かもしれないけどさ。心配したんだよ。今もしてる。ごめん」
「なんで謝るんだ」
「何て言うのかな、色々……自覚とか覚悟とか、足りてなかったって思って。私はヒーローの卵で、兄さんは私の兄さんである前に、プロヒーローなのにね」

 病室でリカバリーガールやプレゼント・マイクから昨日の顛末を聞いた際、守璃の様子についても聞かされた。おかげで、守璃の暗い表情や隈の理由が決して一つではないことには察しがつく。
 険しかった表情を不恰好に和らげようとするその顔の少し赤い目から、涙が零れないことをやはり柄にもなく願った。

□□□

 ヒーローとはなんたるかを知っていながら、ヒーローの兄に傷ついてほしくないと思った。立ち向かおうとしたクラスメイトに、止まってほしいと思った。
 もしも守璃がヒーロー志望でなかったなら、そう思うのも無理はないと自分自身を許せただろう。そうして、“個性”を暴走させるだけで何も出来なかった自分のことも、しかたなかったと思えたのかもしれない。
 しかし、守璃は紛れもなく、ヒーローを志した雄英高校ヒーロー科の一人なのだ。しかたないなんて言えるはずがない。

「おまえ、ヒーローに向いてないかもしれないって言ったって?」

 相澤が静かに言った。リカバリーガールから聞いたのだろう。守璃は素直に頷く。なんで私受かっちゃったんだろう。そう呟いてしまってから、しまったと思うが、一度口に出してしまった言葉は引っ込められない。
 ややあって、相澤がやはり静かに「言っておくが」と口を開いた。

「はなっからその見込みが無いなら、そもそも入試の時点で不合格だった。何かの間違いで受かったとしても俺が即除籍してる」

 そう言った相澤の表情は、すっかり包帯に隠されていてうかがい知ることが出来ない。
 言葉の意味を反芻するうちに、包帯の隙間から僅かに覗いた目を見ていられなくなって、守璃は顔を伏せた。

「……でも今回のことで、見込みゼロになったよね。“個性”の暴走に過呼吸なんて」
「そうだな。このまま改善できないようなら見込みがないと思う」
「……うん」
「だが今回は、俺はその瞬間を見てない。……よって今回の件で除籍とするには、判断材料が足りない」

 思いがけない言葉が聞こえて戸惑った。反射的に「でも、」と言葉が洩れる。
 しかし、相澤は淡々としていた。「良いから顔あげろ、守璃。聞け」

「少なくとも──いつもの暴走なら障壁が発生するのはおまえの周りだけだったのが、今回はそうじゃなかったんだろ」
「そ、だけど……」
「それはおまえが、おまえなりに人を守るために動いたってことだろう。教師(おれたち)が見ててやれなかったあの時に、今まで自分しか守れなかったおまえが」
「…………守れたって、言えるのかな」 
「おまえな……。少なくとも俺の怪我はいくらか軽く済んだんだ。プロとしちゃ情けない話だろうが、俺は守られたんだよ、おまえに」

 昨日の蛙吹の言葉と重なって、リフレインする。
 熱いものが込み上げてくるのを止められなかった。

「……ったく、泣くな」
「うん……うん、ごめん……」

 慌てて目を覆っても、涙は勝手に溢れてくる。頬を伝っていく滴を拭いながら、その場にしゃがみこんだ。
 ──守りきれなかったけれど、守れなかったわけじゃなかったんだ。
 もちろんそんなのは、あまりにも中途半端すぎて到底褒められることじゃない。私情にも振り回されすぎた。
 ヒーローは、守りきってこそヒーローだ。私情に左右されず、手の届く範囲、目の届く範囲の人を、護り抜いてこそ。
 ──自分がどんなヒーローになりたいか。

「私……兄さんが倒れてるの見たとき、凄く怖かった。兄さんが、死んじゃうんじゃないかって。緑谷くんが飛び出して行ったときも、緑谷くん死んじゃったらって、怖くて」
「……ああ」
「ヒーローって職業が“そういうもの”だって、解ってるつもりだった。でも私、やっぱり誰にも……ヒーローにも、怪我してほしくない。だから……ヒーローも含めた、そこにいる全員を護れるヒーローになりたい」
「ヒーローもか。甘くねえぞ」
「うん、でも……でもさ、私のこの“個性”で、身近な──一番近くにいる人すら護れないで、護るヒーローなんて名乗れない。だから、一般の人を護って、その上で……前線に出て戦うヒーローも……無傷は無理でも、少しでも怪我を減らせるように、なりたいって思う」

 膝を抱えてしゃがみこんだまま、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。相澤の表情を隠す包帯の白がやけに目について眩しい。
 包帯の隙間、かろうじて見える二つの目が瞬きをする。その様子を見ていると、病室で言い損ねた言葉が自然と零れ落ちた。

「兄さん、助かって良かった、ほんとに良かった」 
「そうだな。……おまえらも、無事で良かった」

 相澤が僅かに身動ぎをする。無意識に腕を動かそうとして、しかしすぐに、今の状態ではほとんど動かせないということを思い出したようだった。包帯の下でひっそりと浮かべられた苦々しい表情は、当然守璃には少しもわからなかった。
180518
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