“ヒーロー”



 死柄木弔は眉をひそめた。イレイザーヘッドに馬乗りになっていた脳無が、不意に後ろに仰け反ったからだ。まるで胴体を何かに押し退けられているかのように、屈んでいたはずの上体を起こしていく。そのままついには半歩後ろへ後退った。
 “何か”がイレイザーヘッドへの接触を拒んでいるかのようにも見える。しかし、その“何か”がわからない。イレイザーヘッドの“個性”ではないことだけは明白だ。
 死柄木はちらと水辺を見遣った。少し前からそこに生徒がいることに気がついていた。

「増えてるな……うざ……」

 死柄木の見間違いでなければ、一人は水面の上に踞っている。どういう“個性”だか知らないが──と死柄木は考える。たとえばあいつが“反発”という個性で水面から浮いているのなら、イレイザーヘッドと脳無を反発させて脳無を押し退けることも可能だろう。
 ──邪魔だなぁ。
 脳無に視線を戻せば、“何か”を振り払うような素振りをして再びイレイザーヘッドに馬乗りになろうとしていた。先程まで妨害していた“何か”は消えたようで、脳無の体が押し返されることはない。なんだ、なんてことなかったな、と死柄木は鼻で笑った。
 とはいえ、たとえほんの僅かな間でも脳無の巨体を押し退けた“何か”だ。邪魔な“個性”には違いない。

「……まぁ、壊しておくか」

□□□

「護藤さん!? 大丈夫!?」

 すぐ隣で蹲って苦しそうに早い呼吸を繰り返している守璃を前に、緑谷は狼狽えた。すぐ近くに敵がいて、イレイザーヘッドが為す術なくやられているこの状況で、クラスメイトの急変。狼狽えているような暇などない状況だ。しかし、突きつけられている現実と “個性”使用の反動による痛みの中で素早い選択をするには、緑谷にはまだ経験も知識も足りなかった。

「過呼吸だわ。守璃ちゃん、落ち着いて」
「ご、ごめ……」
「大丈夫よ。息を止めて、それからゆっくり吐いて」

 蛙吹がつとめて冷静に声をかける。緑谷は蛙吹に場所を譲り、 守璃の様子と敵の様子とを交互に見遣った。
 そこには、透明な壁があった。緑谷たちの前に、相澤と敵の間に。目を凝らしてようやく見えるような透明な障壁だ。特に相澤と敵の間には幾層も重なっていて、敵の巨体を押し退けている。

「これって──」
「守璃ちゃんの“個性”ね」
「まじかよ! やるなァ護藤!」

 峰田が震えながら泣き笑いの体で拳を突き出したが、一方の守璃はまだ浅い呼吸のまま力なく首を横に振った。蛙吹が背を擦りながら「ゆっくり呼吸をして……吸いすぎないで」と声をかける。言われる通りの呼吸を試みているようだが、苦しそうな音が漏れるばかりで、見ている方まで苦しくなりそうだ。
 大丈夫よ、と再び蛙吹が言う。ここにいる四人ともがその言葉の空々しさを知っていたが、だからこそ、蛙吹は言い聞かせるように繰り返した。

「大丈夫よ」
 
□□□

 飯田は無事に演習場の外へ出られたのだろうか。
 呼吸が上手く出来ない。吸っても吸っても苦しいばかりで、目眩がする。
 なんとか蛙吹の言葉を拾い、言われた通りゆっくり呼吸をしようとするが、なかなか呼吸のリズムが整えられない。
 ──こんなことをしている場合じゃないのに。
 苦しさ、悔しさ、不甲斐なさと焦り、全部がない交ぜになって涙が滲んだ。思わず閉じた瞼の裏で、先程見た光景がフラッシュバックする。
 相澤が心配だ。今すぐ飛び出して行きたいけれど動けない。いや、動けたところで自分に何が出来るだろう。敵のど真ん中に一人飛び込んで行った相澤が何を思ってそうしたのかを考えれば、守璃がのこのこと出ていくべきではない。わかっている。わかっているけれど、だけど──
 完全に“個性”のコントロールを失い、障壁は守璃の意図に関係なく現れている。防衛本能が働くのか、得てして暴走しているときの方が障壁の強度は高いもので、強固な障壁は確かにその役目を果たしていた。
 踞る守璃には見えなかったが、恐らく壊されてもまた新たな障壁が現れているのだろう、限界が近いことを告げるように手足が重く、痺れてくる。

「ぐぁ……!」

 周りの音などろくに聞き取れない中で、相澤の呻き声だけがはっきりと聞こえた。
 聞きたくない。見たくない。しかし、現実からは目を背けることが出来ない。
 敵の豪腕が相澤の頭を地面に叩きつける。その瞬間、守璃が乗っていた障壁が跡形もなく消え去った。キャパオーバーだ。守璃はそのまま飛沫をあげて水中に落ち、蛙吹に引き上げられる。体を支えられ、咳き込みながらも、必死に呼吸をした。
 守璃をここへ飛ばした黒いモヤの敵が、幾つもの手を張りつけた異様な姿の敵の側に現れた。会話をしているようだったが、今の守璃にはその内容を聞き取るだけの余裕がなかった。

「帰るっつったのか?」

 峰田がそう言ったのをかろうじて聞き取る。

「やっやったあ、助かるんだオイラたち!」
「ええ、でも…気味が悪いわ緑谷ちゃん」
「うん…これだけのことをしといて…あっさり引き下がるなんて…」

 ようやく普通の呼吸のリズムが戻ってきて、周りの様子を理解できるようになってきた。
 砂ぼこりに混じる鉄臭いにおい、濡れて肌に張りつく髪の毛の気持ち悪さ、「けどもその前に」と続いた敵の気だるげな声。

「平和の象徴としての矜持を少しでもへし折って帰ろう!」

 死柄木が伸ばした左右の手が、蛙吹と守璃の目前に迫っていた。
 誰も動くことができない。
 血の気のない指先が、かろうじて形成された薄っぺらな障壁に触れる。
 ──それだけだった。

「……本っ当かっこいいぜ、イレイザーヘッド」

 死柄木の背後、満身創痍の相澤が顔をあげていた。まだ意識があったことが不思議なくらいだというのに、ぼろぼろの体で、自身の“個性”で敵の“個性”を消している。死柄木はその姿に一瞥をくれ、守璃の蒼白い顔に向き直った。

「……で、おまえ。これが、おまえの“個性”なんだな?」

 再び相澤が地面に叩きつけられた音に、既に青い顔からますます血の気が引いていく。その様子に、死柄木は口の端を歪めた。
 一度離した指先を返し、その背で障壁を叩く。こつこつと軽い音が響いた。くるりと掌を返して再び五つの指の腹で触れれば、それは呆気なく静かに崩れていった。

「やっぱり大したことないな」

 後ろに身を引いた守璃が再び障壁の形成を試みるのと、拳を構えた緑谷が飛び出すのはほぼ同時だった。

「手っ…放せぇ!」
「脳無」

 真っ黒な巨体が、その体躯からは想像もつかぬ速さで死柄木と緑谷の間に躍り出た。オールマイトにも似た強烈な一撃は確かに決まったというのに、脳無の体はびくともしない。
 脳無が緑谷に掴みかかる。
 蛙吹が緑谷に舌を伸ばす。
 死柄木が再び両手を伸ばし、守璃の障壁が、造り出す瞬間から崩されていく。
 ──もう、駄目かもしれない。お願い、どうか、誰か、

 ──突如轟音が響いた。
 演習場のゲートが乱暴にぶち破られる音だった。

「もう大丈夫、私が来た」

 平和の象徴(オールマイト)がそこにいる。
 コンティニューだ、と呟く声を聞いた。
180512
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