「まさにここだったの。この小部屋で死んだのよ」 
 マートルは情感たっぷりに語り始めた。
 その日マートルはオリーブ・ホーンビーにメガネのことをからかわれ、この小部屋に隠れて泣いていた。すると、誰かが入ってきて何かを言った。おそらく外国語、何を言っていたかはわからない。それでも声から男の子だということが明らかだったので、マートルは凄く嫌な気分になった。
「だから、出ていけ、男子トイレを使えって言うつもりで鍵を開けて、そして──死んだの」
「どうやって?」
「わからない。覚えてるのは大きな黄色い目玉が二つ。体全体がギュッと金縛りにあったみたいで、それからふーっと浮いて……そして、また戻ってきたの──」
 その大きな黄色い目玉というのが、バジリスクの目玉のことなのだろう。マートルの話しぶりからはあまり苦しい最期ではなさそうだけれど、本当にただ目を見ただけで簡単に死んでしまうものらしい。何を見たのか、理解する間も与えられない。そんな恐ろしい怪物がずっとホグワーツに潜んでいたのだと思うと、改めてゾッとする。
 目玉をどこで見たのかハリーが尋ねると、「あのあたり」とマートルは小部屋の前の手洗い台のあたりを指差した。はっきりした場所はわからないようだ。
 一番近くにいたフェリシアが手洗い台を覗き込んだ。
「どうだい?」
 ハリーとロンも近寄ってきた。
「どうって言われても……」
 なんの変哲もない、ほかの女子トイレにあるものと変わりない手洗い台に見える。そりゃあもちろんフェリシアだって、隠し部屋の入り口が派手な見た目をしているとは思わないが、あまりにも普通の手洗い台だ。
 誰からともなく手洗い台を調べ始める。内側、外側、蛇口にパイプ──隅々まで調べ、やがてハリーの目が一箇所に釘付けになった。蛇口の脇に小さな引っ掻き傷のような跡がある。それはヘビのかたちをしていた。
 ハリーが蛇口を捻ろうとすると、マートルが言った。「その蛇口、壊れっぱなしよ」
 自分の死んだときのことを尋ねられたのがよほど嬉しかったのか、マートルはまだ上機嫌だ。
「ハリー、何か言ってみろよ。蛇語で」
「でも──」ハリーは戸惑った顔で言った。「開け」
 ロンとフェリシアは首を横に振った。
 ハリーはもう一度蛇口の蛇を見つめ、ロンとフェリシアがじっと様子を見守る。
 次にハリーの唇が動いたとき、漏れてきたのは声ではなく音だった。シューシューという奇妙で不気味な音。決闘クラブで聞いたあの音だ。
 途端に蛇口が白く光り輝いた。蛇口は誰も触れていないのに、蛇のとぐろが解けるように回り始め、手洗い台が沈み込む。大人一人が滑り込めるほど太いパイプが剥き出しになるのは、あっという間だった。
 恐怖か興奮か、心臓が早鐘を打っている。耳にも心臓があるんじゃないかと思うくらい、バクバクと騒がしい。
 この先に秘密の部屋があるなら──まだジニーを助けられるかもしれないなら。
「僕はここを降りていく」
 ハリーのきっぱりした言葉に、フェリシアもすぐさま声を上げた。
「私も」
「僕も行く」
 一瞬の空白のあと、
「さて、私はほとんど必要ないようですね」
 ロックハートが笑みのようなものを浮かべた。どうやらこの短時間で笑顔の作り方を忘却してしまったらしく、ナントカスマイル賞を自慢していたのも嘘だったのかと思うほどぎこちなく引き攣っている。
「私はこれで──」
 とドアの取手に手をかけたロックハートに、三人は同時に杖を向けた。
「『これで』、あなたのやることがはっきりしたじゃない」
「先に降りるんだ」
 ロンに凄まれたロックハートは顔面蒼白だった。杖もないまま、パイプの前へ進み出る。
「ねえ、君たち、それがいったい何の役に立つというんだね?」
 弱々しい声には誰も答えなかったが、フェリシアは、三頭犬(フラッフィー)が守っていた扉に飛び込んだときのことを思い出していた。あのときは真下に悪魔の罠があって、危うく全員絞め殺されるところだったのだ。
 今もこのパイプの先に何が潜んでいるかわからない。降りて早々、バジリスクがとぐろを巻いている可能性だってある。
 ロックハートを犠牲にしようというわけではないけれど、これくらい体を張ってもらってもバチは当たるまい。元はといえば、ロックハートが己を嘘で飾り立てるだけに飽き足らず、大口を叩き続けたのが悪い。身から出た錆というやつだ。
 ハリーに杖で背中を小突かれ、ロックハートはパイプに片足を入れる。
「手鏡は持っている?」とフェリシアは声をかけた。「なければ、目を閉じていたほうがいいかも」
「手鏡? いったい何を……ああ、私は本当に何の役にも」
 立たない、と言い切る前に、ロックハートは勢いよくパイプを滑り落ちていった。ロンが押したからだ。
 そのあとにハリーが続いた。ゆっくり慎重にパイプの中に入り込み、手を離す。目配せののち、ロンが続く。
 最後にパイプに入ろうとしたフェリシアに、突然マートルが口を開いた。
「あんたもこのパイプに入るの?」
「入ったらいけないの?」
「さあ、わたしに聞かないで。でも、あの女はきっと怒り狂って卒倒するわよ。それから、あんたをゴミを見る目で見るに決まってるわ」
「あの女?」
「しらばっくれても無駄よ」
 マートルは一瞬嫌なことでも思い出したみたいに顔をしかめたが、それでもすぐ嬉しそうな顔になって「あの女、とーっても嫌な顔するでしょうね」と続けた。「それであんたは、ものすごく叱られるのよ」
 フェリシアにはマートルが誰の話をしているのか、わかるようでわからなかった。マートルはいつも誰かの面影をフェリシアに重ねている。しかしその『誰か』は、どうやらシリウス・ブラックではないらしい──。
 二人きりの今なら、尋ねることはできる。
 ──でも、これ以上お喋りしている時間がない。
 フェリシアは嬉しそうなマートルを無視してパイプに飛び込んだ。
「わたし、わかってるんだから」マートルは得意げに言った。「あんたが高慢ちきのブラックの家の子だって──」
 声は追いかけては来なかった。パイプの中は暗く、ぬるぬるして、曲がりくねっていた。かなりの急勾配で、フェリシアの体はどこにも引っかからず勢いよく滑り落ちていく。それでいて急なカーブなんかもあるものだから、だんだん気分が悪くなってきた。これはなんというか、煙突飛行より駄目だ。
 ぬるぬるするのはヘドロか何かだろうか、なんだか変な匂いがするし、ローブからはみ出した脚にくっついて気持ち悪い。
 それにしても、いったいどこまで滑り落ちていけばいいのだろう。フェリシアが吐き気と戦い始めたとき、傾斜が急になくなって、平らになったパイプの出口から放り出された。
 落ちた先はぬるぬるしていないかわりに、じめじめしていた。石のトンネルのようなところだ。よろめきながら立ち上がると、先に滑っていった三人がフェリシアを待っていた。ハリーとロンはともかく、ロックハートは全身ベトベトになっている。フェリシアは内心、自分が最初に滑らなくて良かったと強く思った。
「大丈夫? 顔色が悪い気が……」
「大丈夫、ちょっと吐きそうなだけ」フェリシアはローブの裾を叩いた。汚れは少しも取れそうにない。「それよりここ、かなり下のほうよね」
「たぶん湖の下だ」とロンが言った。
 トンネルの先には真っ暗闇が続いている。ハリーの杖には灯りがともっているが、それだけでは心許ない。
「ルーモス!」
 杖灯りが二本になってもトンネルの闇は深かった。一本よりはマシと自分に言い聞かせ、フェリシアは杖を胸の前に構えた。
「行こう」
 ハリーが声をかけ、四人は歩き出した。
 湿った足音がトンネル内に大きく響くほかは、物音も生き物の気配もない。何かの気配がしたらすぐに目を瞑るように言い聞かせるハリーの声も、トンネルの暗闇に響くと不気味に聞こえた。
 そうして、ゆっくりと、周囲を警戒しながら進んでいくと、不意にバリンという音が響いた。慌てて杖灯りを向ける。ロンが何かの骨を踏んだらしかった。大きさからしてネズミだろうか。
 ハリーが灯りを近づけてみると、骨はそれだけではなかった。小動物のものと思われる骨が、あたりにいくつも散らばっている。
 嫌な想像をしそうになって、フェリシアはかぶりを振った。

230409
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