ロックハートの部屋は、廊下にまで物音が聞こえるほど騒がしかった。何やら慌ただしい足音も聞こえている。秘密の部屋に行くための準備に手間取っているのだろうか。
 物音はハリーがノックした途端に静かになり、ほんのわずかに開いたドアからロックハートの目が覗いた。来訪者が誰であるかわかると、ドアの隙間が少しだけ広くなった。
「私は今、少々取り込み中なので、急いでくれると……」
「僕たち、お知らせしたいことがあるんです」とハリーが言った。「先生のお役に立つと思うんです」
 かろうじて見えるロックハートの横顔は、心底迷惑そうだ。「今はあまり都合が」などとモゴモゴ言っていたが、「今だからこそお話ししたいことなんです」とフェリシアが言い募ってみると、ロックハートは渋々三人を招き入れた。
 ロックハートの部屋の中はがらんとしていた。荷物という荷物がほとんど片付けられている。机の上にはいくつかの箱、床には二つの大きなトランク。箱の中にはたくさんのロックハートの写真が押し込まれ、トランクの一つには色とりどりのローブ、もう一つには本が乱雑に放り込まれているのが見えた。
 これではまるで、引越しでもするかのようだ。
「どこかへ行かれるのですか?」
 ハリーが尋ねると、ロックハートはやはりモゴモゴと言葉にならない曖昧な声を出しながら、ドアの裏側に貼られていた等身大の自分のポスターを剥ぎ取った。
「緊急に呼び出されて……しかたなく……」
「緊急? 今ホグワーツで起きていることよりも緊急だっていうんですか?」
「それは……ええ……子どもには難しい話でしょう──とにかく、行かなければ」
「僕の妹はどうなるんですか?」
「そう、そのことだが──まったく気の毒なことだ」
 ロックハートは明らかに、三人の目を見ないようにしていた。「誰よりも私が一番残念に思っている──」そう言いながら、手は引き出しを開けて中のものを片っ端からバッグに突っ込んでいる。
 逃げるつもりだ。
 そう思った瞬間、フェリシアはカッと血が上るのを感じた。ロックハートがろくでもない教師だということはわかっていたが、まさか大人としても、ここまでのろくでなしだったなんて。この数ヶ月あれほど大口を叩いておきながら、肝心なときに生徒を見捨てて逃げようとするなんて!
「『闇の魔術に対する防衛術』の先生じゃありませんか!」ハリーが大きな声を上げた。「こんなときにここから出ていけないでしょう!」
 しかしロックハートはモゴモゴと、こんなことは職務内容になかった、予想だにしなかったと言い訳がましく続けるだけだ。
「先生、逃げ出すって仰るんですか? 本に書いてあるように、あんなに色々なことをなさった先生が?」
「本は誤解を招く」
「ご自分が書かれたのに!」
「まあまあ坊や」
 ロックハートは顔をしかめながら、宥めるように言った。
「ちょっと考えればわかることだ。私の本があんなに売れるのは、中に書かれていることを全部私がやったと思うからでね。もしアルメニアの醜い魔法戦士の話だったら、たとえ狼男から村を救ったのがその人でも、本は半分も売れなかったはずです──」
 それは要するに、ロックハートは正真正銘のペテン師であるという自白だった。
 他人の手柄を横取りし、あたかも自分がやり遂げたかのように見せかける──だけではない。
「仕事はしましたよ。まずそういう人たちを探し出す。どうやって仕事をやり遂げたのかを聞き出す。それから『忘却術』をかける──」
 フェリシアは知らず識らずのうちにロックハートを睨みつけていた。手柄を横取りするだけにとどまらず、自分の悪業が露見しないために記憶まで消し去るような魔法使いが、英雄面で魔女たちに愛想を振り撒き、教師としてホグワーツを闊歩していたのかと思うと、言い知れぬ不快感と失望が腹の底から迫り上がってくる。
「私が自慢できるものがあるとすれば、それは『忘却術』ですね」
 この厚顔な魔法使いは、たくさんの著書に綴られた栄光のうち、本当はどれ一つ成し遂げていないのだ。
「──有名になりたければ、倦まず弛まず、長く辛い道のりを歩む覚悟が要る」
 そうまでして有名になりたい気持ちが、フェリシアには少しも理解できなかった。何が『長く辛い道のり』だ、聞いて呆れる。
 そんなことに覚悟だなんて言葉を使ってほしくもない。それは去年、賢者の石を守るために立ち向かったハリーにこそ相応しい言葉だ。
 はじめからロックハートには期待していなかったのに、それでもフェリシアの胸には失意が広がっていく。
 ペテン師ではジニーを救えない。たぶん、マンドレイクよりも役に立たない。
 いったい、どうすればいいんだろう。
「さてと。これで全部でしょう。いや、一つだけ残っている」
 全てのトランクに鍵をかけたロックハートは杖を取り出し、杖先をまっすぐ三人に向ける。
「坊ちゃんたちには気の毒ですがね、『忘却術』をかけさせてもらいますよ。私の秘密を言いふらされたりしたら、本が一冊も売れなくなりますからね……」
 しかしロックハートが杖を振り上げるよりも、ハリーが大声で呪文を唱えるほうが速かった。
「エクスペリアームス!」
 その瞬間、勢いよくロックハートが吹っ飛んだ。杖はトランクの上に倒れたロックハートの手から離れ、空中に高く弧を描く。それをすかさずロンがキャッチし、窓から放り投げた。
「スネイプ先生にこの術を教えさせたのが、間違いでしたね」
 ハリーに杖を突きつけられたロックハートは、倒れた格好のまま、弱々しい表情を浮かべてハリーを見上げている。
 これまでの自信に満ちた姿を思い返せば哀れっぽく見えるが、だからといって、同情する気分には少しもならなかった。数十秒前にはロックハートのほうがフェリシアたちに杖を突きつけていたのだから、ロックハートだけが被害者面をするのはおかしい。
 ロックハートはフェリシアと目が合うと、とりなしてくれと言わんばかりの切なげな目をしてみせる。
 フェリシアは黙って鼻を鳴らした。
「……私に何をしろと言うのかね?」ロックハートはさらに弱りきった顔になった。「『秘密の部屋』がどこにあるかも知らない。私には何もできない」
「本当に呆れた……」
「でも、運のいい人だ」
 ハリーは杖を突きつけ、ロックハートを立たせながら言った。
「僕たちはそのありかを知っていると思う。中に何がいるのかも。さあ、行こう」
 ロックハートを追い立てるようにして部屋を出る。向かうのは、嘆きのマートルの女子トイレだ。
 ロックハートの部屋から一番近い階段を下りながら、フェリシアは視界に入る情けない後ろ姿を冷めた気持ちで見やった。いい大人が──仮にも教師が──、十二歳の男の子に追い立てられている。こんなロックハートをハーマイオニーが見たら、きっとひどくがっかりするだろう。この場にハーマイオニーがいないことは、唯一、不幸中の幸いなのかもしれない。
 マートルのトイレの入り口まで来ると、ハリーはまず、震えているロックハートを中に入らせた。その後にハリー、ロンの順で続き、フェリシアは最後に中へ入る。早々にマートルの機嫌を損ねてはまずいと考えたからだ。
 後ろ手にトイレのドアを閉めたとき、一番奥の小部屋にマートルの姿が見えた。こうして見る限り、今日の機嫌は悪くないようだ。
「君が死んだときの様子を聞きたいんだ」
 ハリーが単刀直入にそう言った瞬間、パッとマートルの顔つきが変わった。とても誇らしげで、いかにもゴーストらしい常に青白い顔が、不思議と明るく輝いて見える。今までに見たことのないマートルの様子に、フェリシアは思わず目を丸くした。

230310
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