野生化したあのフォード・アングリアが、猛スピードで斜面を走り下りてくる。先ほどの音は、車のクラクションだったのだ。
 強烈なヘッドライトが辺りを明るく照らし出す。車は蜘蛛を次々なぎ倒しながら三人の前まで来ると、甲高いブレーキ音を響かせて急停止し、パッとドアを開いた。
「ファングを!」
 ハリーが前の座席に飛び込みながら叫ぶ。
「私が!」
 叫び返したフェリシアはキャンキャン吠えているファングを抱きかかえて車に飛び込み、その勢いのまま転がるように後部座席に移動した。間髪入れず、ロンが運転席に飛び込んでくる。
 ドアは開いたときと同じようにひとりでに閉まり、獣のようにエンジンを唸らせ、人の助けを借りることなく急発進した。また何匹かの蜘蛛が引き倒されたが、さすが車は少しも臆することがない。凄まじいスピードで坂を駆け上がり、窪地を脱出し、そのまま鬱蒼とした森の中へ突っ込んだ。
 車は勝手に走り続けた。そこかしこから大ぶりの枝が突き出しているような道だったが、車は慣れたように突き進んでいく。
 心臓が痛いくらいに早鐘を打っていた。抱きかかえているファングからも、バクバクという鼓動が伝わってくる。「よしよし、ファング、怖かったね……」
「大丈夫かい?」と、誰にともなくハリーが言う。
「少なくとも、私もファングも、手足はちゃんとついてるみたい」とフェリシアは答えた。
 ロンは何も答えなかった。どうやら、まだ口がきけないらしい。
 車は森の草木もなぎ倒しながら突き進む。怯えて吠えるファングを宥めながら、フェリシアは後ろを振り返った。揺れたり折れたりしている枝が遠ざかるのが見えるばかりで、アクロマンチュラたちが追ってきている様子はない。
 凸凹する道を十分ほど走ると、木立はややまばらになった。茂みの隙間に、星の散らばる空が見える。
 やがて車は急停止し、フェリシアは反動で前の座席の背もたれにぶつかりそうになった。森の入口に辿り着いたのだ。ハリーがドアを開けると、ファングは尻尾を巻いたままハグリッドの小屋へ一目散に駆けていった。ファングには本当に可哀想なことをしてしまったと思いながら、フェリシアもハリーのあとに車を降りる。
 ロンはすっかり体が硬直してしまったのか、なかなか降りてこなかった。フェリシアはハリーとアイコンタクトを交わし、ファングの様子を見にハグリッドの小屋へ向かった。
 ファングは寝床のバスケットの中で、毛布にもぐり込んでいた。丸い膨らみがぶるぶる震えている。あんまりに不憫だったので、フェリシアはファングの餌皿を山盛りにした。それから、近くにハグリッドの毛布をおいてやって、小屋の外へ出る。ちょうど、ハリーとロンが並んでやって来るところだった。車はいなくなっている。森に戻ったのかもしれない。
 ロンの顔色はまだ最悪で、足取りも酔っ払いのようにふらふらしていた。
「ファングは?」
「寝床で震えてる」
「無理もないよ。……僕、透明マントを取ってくる」
「あ、ごめん。ついでに取ってくればよかったね」
「いいよ。気にしないで」
 ハリーとフェリシアが会話をしている間も、ロンは何も言わない。真っ青な顔で、よろよろとかぼちゃ畑に向かっていく。
 ハリーがハグリッドの小屋へ入ったあと、フェリシアは畑でかがみこんでいるロンの背中に声をかけた。
「大丈夫?」
「大丈夫なもんか……」
 弱々しい声ではあったが、返事があることにフェリシアは安心した。「口が利けるようになったんなら大丈夫ね」と言おうとし、顔色を見て言葉を飲み込む。こらえきれずに吐き出したロンの背中をさすっていると、ハリーが戻って来て気の毒そうな顔をした。
「クモの跡をつけろだって」ロンが袖で口元を拭いながら言った。「ハグリッドを許さないぞ。僕たち、生きてるのが不思議だよ」
「本当にね」とフェリシアも頷いた。「あの車が来てくれなかったらと思うと……」
「きっと、アラゴグなら自分の友達を傷つけないと思ったんだよ」ハリーが言った。
 実際のところ、確かにアラゴグ自身はフェリシアたちを襲わなかったわけだが、その仲間たちはフェリシアを食べようとしたし、アラゴグもそれを止めなかった。ハグリッドが予想だにしなかったことだろうということはわかるものの、アクロマンチュラの生態について調べたことがあれば、容易に予想できる事態だったはずだ──とフェリシアは思う。
 渋い顔をしたフェリシアの隣で、ロンは「だからハグリッドってだめなんだ!」と小屋の壁を叩いた。
「怪物はどうしたって怪物なのに、みんなが、怪物にしてしまったんだと考えてる。そのつけがどうなったか! アズカバンの独房だ!」
 怒りなのか恐怖なのか、ガタガタ震えながらロンは続ける。
「僕たちをあんなところに追いやって、いったい何の意味があった? 何がわかった? 教えてもらいたいよ」
「ハグリッドが『秘密の部屋』を開けたんじゃないってことだ」
 ハリーが透明マントを広げ、ロンとフェリシアにかけながら言った。
「ハグリッドは無実だった」
 ロンは不服そうに鼻を鳴らした。アラゴグを密かに育てることのどこが無実なもんか──そんな心の声が聞こえてきそうだ。
 ハリーに促され、城へ向かって歩き出す。フェリシアはロンの肩にぶつからないよう気をつけながら、ぽつりと言った。
「『秘密の部屋』の怪物は、あいつらがあんなに嫌がる天敵ってことも、大きな手がかりだと思う」
「フェリシア、もしかして心当たりがあるの?」
「どこか……何かで、見たことがあるような気がするの」
「何かって」ロンが口を尖らせた。
「それが思い出せなくちゃ、話にならないって言いたいんでしょう。わかってるってば」
 城が近くに見えてくると、三人は口を噤んだ。ハリーが透明マントを引っ張って爪先まですっぽり覆い隠し、軋む扉をそっと半開きにした。玄関ホールをこっそり横切り、足音を立てないように階段を上り、息を殺して廊下を進む。
 ようやくグリフィンドールの談話室まで辿り着いて、フェリシアはやっと人心地ついた気がした。三人ともくたくたで、透明マントを脱ぐと何も言わずそれぞれの寝室に続く階段を上った。
 四人部屋の寝室では、ラベンダーとパーバティが眠っている。フェリシアは二人を起こさないようにそっと寝室に滑り込むと、自分のベッドに横たわった。
 服を着替えなければと思うのに、体を動かしたくない。かといって、眠いわけでもない。むしろ目は冴えていた。あんなことがあったばかりで、まだ気持ちが落ち着いていないからだろう。
 体を横たえたまま、フェリシアはアラゴグの話したことを思い返した。あのときは余裕がなくて言葉を聞くのがやっとだったが、今ならもう少し、考えることができる。
 アラゴグは秘密の部屋の怪物ではない。ハグリッドは秘密の部屋を開けていない。秘密の部屋の怪物は別にいる。あの凶悪な大蜘蛛が、名前を口にしたがらないほど恐れる怪物。──だからクモたちは、城の外に逃げるのだ。城に潜む怪物を恐れて。
 フェリシアは寝返りを打った。空っぽのベッドが見える。
 アクロマンチュラが恐れた怪物は、女子生徒を殺した。その女子生徒は、トイレで見つかった。たぶん、トイレで襲われた。──トイレ。
 フェリシアははっと息を呑んだ。もしもその子が、今もまだそこにいるのだとしたら。それは、フェリシアたちも知っている女の子(ゴースト)かもしれない。
 ハリーとロンも気がついただろうか? フェリシアはすぐにでも二人と話をしたくなったが、まさかこんな時間に男子寮に飛び込めるはずもない。
 今はただ、朝が来るのを待つしかない。もどかしい気持ちを誤魔化すように、寝返りを打った。

220626
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