大蜘蛛たちは鋏をガチャガチャ鳴らしながら、何かを話している。ぞっとする鋏の音がうるさくてほとんど聞き取れないが、フェリシアはその中に何度も聞こえる言葉があることに気がついた。
「アラゴグ!」誰かに呼びかけるような調子で、大蜘蛛はそう言った。「アラゴグ!」
 すると、ドームのような蜘蛛の巣の真ん中から、ひときわ大きな蜘蛛が現れた。これほど大きければ、ゾウと並べても見劣りしないだろう。その巨体は、やはりびっしりと黒い毛に覆い尽くされている。しかしよく見れば、ところどころに白いものが混じっているようだった。高齢の個体なのかもしれない。八つの目はすべて白濁しており、昔見かけた盲目の老犬を思い起こさせた。
「何の用だ?」とその大蜘蛛が言った。どうやらアラゴグというのは、この大蜘蛛の名前らしい。
「人間です」
「ハグリッドか?」
「知らない人間です」
「殺せ」大蜘蛛たちの返事を聞いたアラゴグは、苛立ったように鋏を鳴らした。「眠っていたのに……」
「僕たち、ハグリッドの友達です!」
 ハリーが鋏の音に負けないくらいの大声で叫んだが、それを聞いた大蜘蛛たちは一斉に鋏を鳴らした。カシャッカシャッという嫌な音が幾重にも重なって、暗い窪地に反響する。
「ハグリッドは一度もこの窪地に人を寄越したことはない」
「ハグリッドが大変なんです。それで、僕たちが来たんです」
「大変? しかし、なぜおまえを寄越した?」
「学校のみんなは、ハグリッドがけしかけて──か、怪──何者かに、学生を襲わせたと思っているんです。ハグリッドを逮捕して、アズカバンに送りました」
 ハリーは恐怖で足が立たないのか、地べたに這ったまま、それでもつとめて冷静に話をしていた。
 アラゴグが怒り狂ったように鋏を鳴らすと、ほかの蜘蛛たちもそれにならってカシャカシャと音を立てる。さきほどよりもさらに激しい、総毛立つような音が窪地中にこだまして、フェリシアは身をすくめた。
「しかし、それは昔の話だ。何年も何年も前のことだ。よく覚えている。それでハグリッドは退学させられた。みんながわしのことを、いわゆる『秘密の部屋』の怪物だと信じ込んだ。ハグリッドが『部屋』を開けて、わしを自由にしたのだと考えた」
「それじゃ、あなたは……あなたが『秘密の部屋』から出てきたわけではないのですか?」
 ここが静かな夜の談話室だったら、フェリシアはすぐにハリーの声の小さな震えに気づいただろう。しかし今は窪地にこだまする大蜘蛛の鋏の音がうるさかったし、ゴーストのような顔色で凍りついているロンがちゃんと呼吸をしているか気がかりだったので、フェリシアはただ「やっぱりハリーは人より肝が据わっているんだな」と感心した。
 アクロマンチュラの群れを前に、フェリシアの手は情けなく震えている。せっかくハリーがアラゴグから重要な話を聞き出しているというのに、それについてよくよく考えるだけの余裕もない。
 これから一生、クモが苦手になりそうだった。もっともそれも、この場を無事に切り抜けられたらの話だけど──と考えて、かぶりを振る。ハリーが頑張っているのだ、フェリシアも弱気になっている場合ではない。
 再び怒りに鋏を打ち鳴らしたアラゴグは、自分が秘密の部屋から出てきたわけではないのだということをもう一度きっぱり否定すると、自身の生い立ちを語った。アラゴグはまだ卵だったときに、遠いところから旅人に運ばれてきた。その卵をハグリッドが譲り受けたのだという。
「ハグリッドはまだ少年だったが、わしの面倒を見てくれた。城の物置に隠し、食事の残り物を集めて食べさせてくれた。ハグリッドはわしの親友だ。いいやつだ」
 アラゴグが見つかり、女子生徒を殺した罪を着せられたときも、ハグリッドはアラゴグを守った。おそらく本当なら殺処分されるはずだったところを、ハグリッドがこっそりこの森に逃がしたのだろう。なにしろこれだけ深い森だ。人の立ち入りも禁止されている。アクロマンチュラほどの生き物なら、ほかの生き物に襲われる危険も少ないだろうし(むしろほかの生き物の身が危険なくらいだ)、森の外に出ない限り誰かに見つかる恐れもない。ある意味、安全な住処だ。
「ハグリッドは今でも時々訪ねて来てくれる。妻も探してきてくれた。モサグを。見ろ。わしらの家族はこんなに大きくなった。みんなハグリッドのおかげだ……」
「それじゃ、一度も──誰も襲ったことはないのですか?」
 ハリーが尋ねると、アラゴグはしわがれた声で答えた。「一度もない」
「襲うのはわしの本能だ。しかし、ハグリッドの名誉のために、わしは決して人間を傷つけなかった。殺された女の子の死体は、トイレで発見された。わしは自分の育った物置の中以外、城のほかの場所は見たことがない。わしらの仲間は、暗くて静かな場所を好む……」
「それなら……いったい何が女の子を殺したのか知りませんか? 何者であれ、そいつは今戻ってきて、またみんなを襲って──」
 途端に蜘蛛たちが鋏を打ち鳴らす大きな音と、何本もの長い脚が怒りでこすれ合う音が激しく沸き起こり、ハリーの言葉をかき消した。
 アラゴグも怒り、苛立ちながら、話を続けた。
「城に住むそのものは、わしら蜘蛛の仲間が何よりも恐れる、太古の生き物だ。その怪物が城の中を動き回っている気配を感じたとき、わしを外に出してくれとハグリッドにどんなに必死で頼んだか、よく覚えている」
 フェリシアは何か、記憶の片隅にひっかかるものがあるような気がした。アクロマンチュラが恐れる生き物。蜘蛛の天敵。
「いったいその生き物は?」
「わしらはその生き物の話をしない! わしらはその名前さえ口にしない! ハグリッドに何度も聞かれたが、わしはその恐ろしい生き物の名前を決して教えはしなかった」
 ハリーはそれ以上追及しなかった。できなかったのだ。大蜘蛛たちが、どんどんこちらに詰め寄ってきていた。アラゴグはドーム型の巣のほうへ戻っていこうとしているのに、ほかのアクロマンチュラたちはいっこうに遠ざかる気配がない。むしろ、獲物に跳びかかるタイミングを見計らっているかのように、じりじりと少しずつ距離を縮めてくる。
 事実、フェリシアたちはアクロマンチュラにとって格好の獲物なのだ。今襲われていないのが不思議なくらいで、本来なら、いつ襲いかかられてもおかしくない。フェリシアは震える手を、ローブに収めた杖へと伸ばした。
「それじゃ、僕たちは帰ります」とハリーが言った。
「帰る?」アラゴグがゆっくり繰り返した。「それはなるまい……」
「でも──でも──」
「わしの命令で、娘や息子たちはハグリッドを傷つけはしない。しかし、わしらの真っただ中に進んでのこのこ迷い込んできた新鮮な肉を、おあずけにはできまい。さらば、ハグリッドの友人よ」
 フェリシアたちの四方八方に、アクロマンチュラの群れが迫っている。黒光りする鋏を鳴らしながら、たくさんの目をギラギラさせて、こちらを狙っている。もしも彼らが獣のような口を持っていたら、舌なめずりをしていたに違いない。
 数、大きさ、状況、どこを見ても絶望的だったが、それでもフェリシアは、掴んだ杖の先を蜘蛛へ向けて叫んだ。
「レラシオ!」
 火花が噴き出したのとほとんど同時に、高らかな長い音とともに、まばゆい光が窪地に射し込んだ。

220626
- ナノ -