辿り着いたハグリッドの小屋は、窓から明かりが漏れていないというだけで物悲しい雰囲気を帯びていた。ハリーが戸を開けると、三人の姿を見つけたファングが狂ったように喜んだ。ハグリッドがいなくなってひとりぼっちで心細く、寂しかったのだろう。
 しかし、もし大声で鳴かれたら、城の誰かが気がついてしまうかもしれない。フェリシアが飛びついてくるファングを撫でやる間に、ハリーとロンは暖炉の上の缶から糖蜜ヌガーを取り出し、ファングに食べさせた。すぐにファングの上下の歯がくっついて静かになる。
 ハリーは透明マントをハグリッドのテーブルの上に置くと、「ファング、おいで。散歩に行くよ」と自分の腿を叩いて合図した。ファングは全身で喜んで、飛び跳ねながら三人と一緒に小屋を出た。
 フェリシアは杖を取り出し、「ルーモス!」と唱えた。続いてハリーも、同じ呪文を唱える。二人の杖先に小さな灯りがともり、森の小道が照らし出される。あまり大きな灯りではないが、目立ちすぎてもいけないし、クモの痕跡を探すのにはこれくらいでも十分だろう。
 ほとんど間を置かず、ハリーが草むらを指さした。ちょうど小さなクモが二匹、光から逃れるように木の陰に隠れるところだった。
「オーケー」覚悟ができたのか、諦めたのか、ロンは溜息をついた。
「いいよ。行こう」
 それを合図に、三人は禁じられた森の中へと踏み込んだ。ファングは地面をくんくん嗅ぎながら、三人の周りを走り回ってついてくる。
 見つけたときは二匹だけだったクモはやがて群れとなり、ざわざわと蠢きながら森の奥へ奥へと移動していった。三人は二本分の杖灯りだけを頼りに、その群れを追っていく。誰も何も言わなかった。自分たちの足音、木の葉のこすれ合う音のほかに、何か物音が聞こえやしないかと耳をそばだてる。
 注意深く黙々と歩き続け、二十分は経とうかという頃、それまで小道に沿って移動していたクモの群れが、道を逸れた。
 三人はすでに、森の深いところまで来ている。森の外からの灯りは一切届かず、背の高い木々の葉が空を覆っているせいで、星々の小さな光さえ見えない。闇の中で光を放つものは、手元の杖だけ。杖灯りの先には、ただ黒々とした闇が広がるばかりだ。
 ハリーが立ち止まったので、フェリシアも足を止める。ファングの鼻息がよく聞こえた。
「どうする?」
「ここまで来てしまったんだもの」
 三人はクモの素早い影を追いかけて、茂みの中に入り込んだ。ただでさえ前も見えない暗闇で、伸びた枝や木の根、切り株に行く手を遮られて、なかなか思うように動けない。途中何度か立ち止まっては、ハリーが屈んでクモの群れを、フェリシアが腕を伸ばして見える範囲の障害物を確認し、やっとのことで進んでいった。
 道を外れてから、三十分ほど歩いたろうか。ローブが、低く突き出した枝や荊に引っかかるようになった。やがて、地面が下り坂に変わる。
 不意に、ファングが大きく吠える声がこだまし、三人は驚いて飛び上がった。
「なんだ?」ロンは大声をあげ、暗闇を見回し、ハリーとフェリシアの肘を掴んだ。
「向こうで何かが動いている……何か大きいものだ」
 息をひそめ、耳を澄ませる。物音は少し離れたところから聞こえてくる。近づいてくる。──三人が苦戦した枝々を、容易くばきばきと折りながら。
「もうだめだ」とロンが怯えた声をもらした。
「しーっ! 君の声が聞こえてしまう」
「僕の声? とっくに聞こえてるよ、ファングの声が!」
 凍りついて立ち竦むことしかできない三人の目には、やはり重い暗闇しか映らない。いったい何がそこにいて、何をしようとしているのか。どれだけ目を凝らしても、ほんの一端すら捉えることはできない。
 フェリシアは固唾を呑んだ。枝の折れる音が、ゴロゴロという雷のような音に変わる。そうして急に、静かになった。
「何をしているんだろう?」
「飛びかかる準備だろう」
「通りすぎたってことは?」
 金縛りにあったように身動きが取れないまま、三人は音の正体が動くのを待った。
「……ほんとに行っちゃったのかな?」
「さあ──」
 そのとき突然、右のほうで強烈な光が走った。ずっと深い暗闇の中にいたぶん、あまりの眩しさに目を開けていられない。まるで、真夏の太陽を見上げてしまったときみたいだ。慌てて杖を持っていない手で目を覆う。後ろからファングの鳴き声がした。
 かと思うと、「ハリー! フェリシア!」と、ロンが大きな声を出した。声の調子が先ほどとはがらりと違っている。
「僕たちの車だ!」
「えっ?」
「行こう!」
 いまだ目が眩んでいるフェリシアの腕を、ロンが引っ張る。躓いたりよろめいたりしながら光のほうに向かうと、ほどなくして開けた場所に出た。
 ヘッドライトをギラつかせた車がそこにあった。
「これは……?」
「パパのフォード・アングリアだよ!」
「それって、新学期初日に二人が乗ってきたっていう?」
 車は、近づいたロンにゆっくりと擦り寄ってくる。その様子は、大型犬が飼い主に甘えているところを連想させた。
「こいつ、ずっとここにいたんだ! ご覧よ、森の中で野生化しちゃってる……」
 トルコ石色の車はすっかり傷だらけで、泥だらけだった。おそらく、森の中を動き回る間にそうなったのだろう。
 ファングは車が怖いのか、ぴたりとハリーにくっついている。
「私、野生化した車って初めて見る……」フェリシアは杖をローブの中に収めながら、まじまじと車を眺めた。「燃料とか、どうしてるのかしら」
 嬉しそうに車の周りを歩き回っていたロンは車に寄りかかり、「僕たち、こいつが襲ってくると思ったのに!」と優しく車体を叩く。
「おまえはどこに行っちゃったのかって、ずっと気にしてたよ!」
 フェリシアとロンが車に気を取られている間も、ハリーはヘッドライトに照らされた地面を見回し、クモの痕跡を探していた。フェリシアも少し遅れて、地面を見やる。しかし、自然のものではない激しい光を嫌ったのか、クモは一匹も見当たらない。
「見失っちゃったね」ハリーが言った。「探しにいかなくちゃ」
 ロンは何も言わなかった。それどころか、ぴくりとも動かない。ライトに照らされた顔はひどく強張り、土気色に変わっていた。
「ロン?」
 声をかけるのとほぼ同時に、カシャッカシャッという大きな音を聞いた。長く毛むくじゃらな何かが視界の端を掠めたかと思うと、フェリシアは体を鷲掴みにされて宙吊りになった。
 声にならない悲鳴をあげ、反射的に、何かわからないそれから逃れようともがく。気づけばハリーもロンも、近くで逆さまに宙吊りになっていた。ファングの怯えた声があたりに反響している。
 次の瞬間、視界が暗くなった。明かりのない木立の中へ運びこまれているのだ。
 頭上に、長い長い毛むくじゃらの脚が見えた。フェリシアを掴んでいるのが二本──黒光りする一対の鋏がついている──そのほかに六本。全部で八本の脚があり、それが黒い巨体とくっついていた。
 怪物はフェリシアたちを、どこか同じ場所へ運ぼうとしているようだった。離れ離れにされるよりはずっとマシに思えたが、三人が揃っていたって逃げられそうもない。
 どれくらい、そうして運ばれていただろうか。暗闇が突然薄明るくなったかと思うと、生い茂る木の葉の上にクモがひしめいているのが見えた。
 どうやら窪地に辿り着いたらしい。だだっ広い窪地だ。ここだけ空にぽっかり穴が空いたように、木が切り払われ、星明かりが届く。──そのせいで、見えてしまった。
 おびただしい数のクモと、それらとはまったく比べものにならないような、これまで目にしたこともない、巨大なクモ。八つ目に八本脚、馬車馬のように大きく、黒々として毛むくじゃらの、大蜘蛛。一匹でもぞっとするそれが、数匹。
 葉の上にひしめくクモたちとはわけが違う。フェリシアは恐怖に凍りつきながらも、その生き物の名を思い出した。
 あれはおそらく、この間読んだ本に書かれていた「アクロマンチュラ」だ。ジャングルに生息するはずのアクロマンチュラがこんなところにいるなんて、にわかには信じがたいことだが、外見の特徴が一致している。
 思い出せば思い出すほど、血の気が引いていった。アクロマンチュラは危険度最高レベルの肉食性、人間だってやつらの獲物だ。
 三人と一匹を運んできた巨大蜘蛛たちは、窪地の真ん中にあるドーム型の巣に向かって、次々と傾斜を滑り降りた。仲間の巨大蜘蛛が興奮したように鋏をガチャガチャ鳴らしながら、その周りに集まってくる。
 急に、ハリーを掴んでいた巨大蜘蛛が鋏を放した。ハリーが地面に投げ出され、間髪いれず、フェリシアもその隣に落とされる。恐怖が上回っているせいか、落下の痛みは少しも感じない。ロンとファングも落ちてきたが、ファングはあまりの恐怖に鳴くこともできず、ロンは声にならない悲鳴をあげた顔のまま凍りついていた。

220619
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