気の滅入る出来事ばかりが続くせいで気がつかずにいたが、いつの間にかあたりの風景はすっかり夏のそれに変わっていた。空も湖も抜けるように鮮やかな青色で、陽光を浴びる木々のみずみずしい緑も目に眩しい。ホグワーツがこんな状況でなければ、ピクニックを楽しむ生徒も少なくなかっただろう。
 そんな明るい景色とは裏腹に、フェリシアの心はどんより翳っている。ハーマイオニーの姿もハグリッドの姿も見えないホグワーツは、奇妙で気の抜けた感じがした。たとえるなら、初めてマグルが現像した写真を見たときの気分に似ている。拭い去れない違和感があって、どうしても物足りなくて、なんだか落ち着かない。そのうえダンブルドアもいないとくれば、見かけだけよく似た別の城のようにも思えた。
 ダンブルドアがいなくなったことは、ホグワーツ全体に大きな影響を与えていた。恐怖感がこれまで以上に広がり、誰もがいつも心配そうな強張った顔をしている。話し声も笑い声もほとんど聞こえなくなり、代わりに聞こえるのは押し殺したひそひそ声だ。医務室は患者の安全のために面会謝絶、ハーマイオニーのお見舞いにいくこともできない。
 フェリシアは、日に日に神経がすり減っていく気分だった。
 ハリーたちには本を調べてみるとは言ったが、これといってめぼしい成果もなかった。そもそも、何から手をつければいいのかわからないのだ。図書館でいくつか本を借りてみたが、どうしてかページをめくる手がなかなか進まない。読んだはずの文章も頭に入ってこなくて、参ってしまう。ハーマイオニーならきっともう三冊くらいは読み終わっている頃だろうに、フェリシアはまだ一冊目の半分も読めていない。
 この分では、本を読むより、実際にクモを追いかけたほうがずっと早そうだった。ところが、いざ城の中でクモを探してみると、一匹も見つからない。ハリーやロンと手分けして──ロンは嫌々だったが──行く先々で探してみたが、それでもやっぱり見つからなかった。もっとも、移動時には他のグリフィンドール生も一緒だし、先生が次の教室まで引率する決まりになっているから、探せる範囲は限られている。引率の先生の目を掻い潜って他の廊下や空き教室を探しにいくのは、至難の業だ。
 心底、気が滅入る。
 憂鬱と焦燥に苛まれるフェリシアを、よりいっそう苛立たせる存在があった。ドラコ・マルフォイだ。ホグワーツが恐怖と猜疑心に包まれていても、マルフォイだけはむしろそれを楽しんでいるようだった。
「父上こそがダンブルドアを追い出す人だろうと、僕はずっとそう思っていた」
 ダンブルドアがいなくなって二週間ほど経った日の魔法薬学の授業で、マルフォイのそんな声が聞こえた。
「──たぶん今度はもっと適切な校長が来るだろう。『秘密の部屋』を閉じたりすることを望まない誰かが。マクゴナガルは長くは続かない。単なる穴埋めだから……」
 ただでさえ席が近いのに、マルフォイは声をひそめる素振りさえせずに話し続けるから、聞きたくもない得意げな声がはっきり聞こえてくる。最悪だ。スネイプが近くを通り過ぎたが、ハーマイオニーがいないことにもマルフォイのお喋りにも何も言わない。
「先生」マルフォイが大きな声でスネイプを呼び止めた。「先生が校長職に志願なさってはいかがですか?」
「これこれ、マルフォイ。ダンブルドア先生は、理事たちに停職させられただけだ。まもなく復職なさると思う」
「さぁ、どうでしょうね。先生が立候補なさるなら、父が支持投票すると思います」
 スネイプとマルフォイの表情を視界の端にも入れたくなくて、フェリシアはずっとそっぽを向いていたが、マルフォイが「僕が父にスネイプ先生がこの学校で最高の先生だと言いますから……」と続けたのを聞いて鼻で笑った。
 依怙贔屓ばかりの陰険蝙蝠のどこが最高なものか。万が一本当にスネイプが校長になったら、いの一番に自主退学してやる。
 フェリシアの反抗的態度にも、スネイプは何も触れなかった。気がつかなかったのか、それとも無視を決め込むことにしたのか。地下牢教室を悠々と闊歩する足音は、機嫌良さそうに聞こえる。
「『穢れた血』の連中がまだ荷物をまとめていないのにはまったく驚くね」
 マルフォイのお喋りは、なおも止まらない。
「次のは死ぬ。金貨で五ガリオン賭けてもいい。グレンジャーじゃなかったのが残念だ……」
 その瞬間ロンは勢いよく立ち上がり、フェリシアは杖を振り上げ、同時に終業のベルが鳴った。二人の行動はみんなが鞄や本をかき集める騒ぎにまぎれ、スネイプには見つからなかったが、果たされもしなかった。ハリーとディーンがロンを、シェーマスがフェリシアを引き止めたからだ。
「わかった、わかったってば。杖はしまうから放して。引っ叩いてくるから──」
「どっちもやめたほうがいい。落ち着けって」
 そう言われても、落ち着けるはずがなかった。あんな発言、たとえ冗談でも許されない。
 しかしシェーマスは、フェリシアの腕をがっちり掴んで離さない。
「急ぎたまえ。薬草学のクラスに引率していかねばならん」
 スネイプが生徒の頭越しに怒鳴った。みんなが列になり始めたので、フェリシアは渋々大人しくした。シェーマスが目に見えてほっとした顔をする。
 移動中、列の最後尾ではロンがハリーとディーンの手をどうにか振りほどこうともがいていた。シェーマスとフェリシアはその前を並んで歩いた。二人とも黙ったままだったが、シェーマスは落ち着かない様子で、ずっとフェリシアの様子をうかがっていた。フェリシアがロンに感化されて、再び杖を構えるのではないかと思っていたのかもしれない。
 ハッフルパフと合同の薬草学のクラスは、沈んだ雰囲気だった。ジャスティンとハーマイオニーの不在を、みんなが重く受け止めていたからだ。
 今日の授業内容はアビシニア無花果の大木の剪定で、黙々と作業するにはちょうどよかった。切り取る萎えた茎にマルフォイやスネイプへの苛立ちをぶつけながらハサミを動かしていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくるような気がする。
 いつの間にかかなりの量になっていた切り取った茎を堆肥用に積み上げようとしたとき、アーニー・マクミランの丁寧な声がした。
「ハリー、僕は君を一度でも疑ったことを、申し訳なく思っています」
 顔を上げると、アーニーとハリーがまっすぐ向き合っているのが見えた。
「君はハーマイオニー・グレンジャーを決して襲ったりしない。僕が今まで言ったことをお詫びします。僕たちは今、みんな同じ運命にあるんだ。だから──」
 アーニーはハリーと握手を交わし、今度はフェリシアを見た。
「フェリシア、君にもお詫びしたい。君はただ本当のことを言っていたのに、僕は心無いことを──」
「私にまでかしこまらなくていいわ。わかってくれたなら、それでいいから」
 確かにアーニーの言い草には腹が立っていたが、疑われたハリーが水に流すなら、フェリシアがとやかく言うことはもうない。ハリーとロンが何のことかと聞きたそうな顔をしてフェリシアを見たが、フェリシアはただ肩をすくめてアーニーと握手した。
 仲直りが済むと、アーニーとハンナが無花果の剪定を一緒にするためにやってきた。
「あのドラコ・マルフォイは、いったいどういう感覚をしてるんだろ」
 アーニーが刈った小枝を折りながら言った。マルフォイの名前を聞いたとたん、フェリシアの手元が狂って枝を余計に刈ってしまったが、アーニーは気がついていない。
「こんな状況になってるのを大いに楽しんでるみたいじゃないか? ねえ、僕、あいつがスリザリンの継承者じゃないかと思うんだ」
「まったく、いい勘してるよ。君は」とロンが皮肉っぽく言った。
「ハリー、君は、マルフォイだと思うかい?」
「いや」
 ハリーのきっぱりした答えが意外だったのだろう、アーニーとハンナが目を見張る。
「あいつがもしそうだったら、得意げに言いふらしてそうじゃない?」とフェリシアは誤魔化した。マルフォイではないと思う理由について、あまり追及されたくない。
 そのとき、突然ロンが大声を出した。「アイタッ!」
 驚いて振り返ると、ロンは手をさすりながら顔を引きつらせていた。その視線の先には──クモだ。大きなクモが数匹、温室の外へ向かって逃げていく。フェリシアは思わず声を出しそうになり、慌てて飲み込んだ。クモを見つけてこんなに気持ちが昂ったのは、生まれて初めてだった。きっと後にも先にもこれっきりだろう。
「今追いかけるわけにはいかないよ……」ロンが小さな声で言う。
「どこに向かってるのかしら」
 フェリシアはそう呟いてから、アーニーとハンナが聞き耳を立てていることに気がついた。二人とも、クモを注意深く見ているハリーの様子をそっとうかがっている。フェリシアは少し考えて、「ここだけの話ね」と二人に耳打ちした。
「フレッドとジョージが、次の悪戯にクモの卵を使いたいんだって」
「えっ?」
「あの二人から何か……たとえば食べ物を貰うようなことがあったら、気をつけたほうがいいと思うわ」
 もちろん大嘘だ。フレッドとジョージには悪いが、他にそういうことをやりかねない人物に心当たりがないのだからしかたがない。真に受けたアーニーとハンナがこくこく頷くのを見ながら、フェリシアはハリーの呟き声を聞いた。
「どうやら『禁じられた森』のほうに向かってる……」


220403
- ナノ -