医務室を出ると、三人はまっすぐグリフィンドール塔へ向かった。スネイプは宿題をたくさん出していて、すぐにでも取り掛からないと提出期限に間に合いそうにない。
「『髪を逆立てる薬』にネズミの尻尾を何本入れたらいいのかなんて、知る必要あるか? 僕、ホグワーツを卒業した後にこの薬を作る機会があるとは思えないよ」
「そうかもしれないけど、知識はいくらあっても困らないものだってフリットウィック先生が言ってたでしょう」
「不必要な知識を詰め込んだって頭でっかちになるだけだろ」
 ロンが不機嫌にそう言ったとき、上の階から怒鳴り声が聞こえてきた。フィルチの声だ。いったい何事だろう。──まさか、また誰かが襲われたのだろうか?
 三人は階段を駆け上がり、立ち止まって身を隠しながら耳を澄ませた。
「……また余計な仕事ができた! 一晩中モップをかけるなんて。これでもまだ働き足りんとでもいうのか……」
 フィルチの足音は、ヒステリックな彼の声とともに小さくなっていく。遠くの方からドアの閉まる音がしてから、三人は廊下の曲がり角から顔を出して辺りを確認した。
 そこはちょうど、ミセス・ノリスが襲われたあの場所だった。フィルチはまたも見張りをしていたのだろう。
 廊下は半分以上が水浸しになっていた。水の出所はやはりマートルのトイレのようで、今もまだトイレのドアの下から水が漏れだしている。フィルチの声がしなくなったことで、マートルの泣き叫ぶ声がトイレでわんわんと反響しているのが聞こえた。
「マートルにいったい何があったんだろう?」
「行ってみよう」
 ヒステリーを起こしてるときのマートルに近づくのは気乗りしなかったが、フェリシアはローブの裾をたくし上げてハリーの後に続いた。あまりに水浸しなので、まるで小川の中を歩いているかのようだった。靴の中にまでじんわりと水が染み込んでくる。
 故障中という張り紙を無視してトイレのドアを開けると、中では案の定マートルが大声で、床どころか壁までも濡らして泣き叫んでいた。いつもの泣き声も十分に大声だというのに、あれよりももっと大きな声が出たなんてと驚かされるほどだ。ひょっとすると、マンドレイクの泣き声ともいい勝負になるかもしれない。
 マートルはいつもの便器の中で泣いているようで、トイレの中に入ってもまだ姿が見えない。
「どうしたの? マートル」
 ハリーがゆっくり声をかける。フェリシアはマートルが姿を見せたとき彼女を刺激しないように、自分よりも背の高いロンの陰にそっと隠れた。
「誰なの? また何か、わたしに投げつけに来たの?」
「どうして僕が君に何かを投げつけたりすると思うの?」
「わたしに聞かないでよ!」
 マートルはそう叫んで、ごぼごぼと大量の水を零しながら姿を現した。ただでさえ水浸しの床がまた水を被る。水たまりを通り越して湖にでもなっていしまいそうだ。
「わたし、ここで誰にも迷惑をかけずに過ごしているのに、わたしに本を投げつけて面白がる人がいるのよ……」
「だけど、君に何かをぶつけても痛くないだろう? 君の体を通り抜けていくだけじゃないの?」
 ハリーの言い分はもっともだったが、それはマートルには禁句だ。ホグワーツの女子ならみんな知っている。フェリシアが、あ、と思ったときにはもうハリーがすっかり言い終わったあと、マートルが聞いてしまったあとだった。
「さあ、マートルに本をぶつけよう! 大丈夫、あいつは感じないんだから!」マートルは喚いた。「腹に命中すれば一〇点! 頭を通り抜ければ五〇点! なんて愉快なゲームだ──どこが愉快だって言うのよ!」
「いったい誰が投げつけたの?」
「知らないわ……U字溝のところに座って、死について考えていたの。そしたら頭のてっぺんを通って落ちてきたの。そこにあるわ。わたし、流し出してやった」
 マートルが指差した手洗い台の下を探すと、小さな薄い本が落ちていた。黒い表紙は水にぐっしょり濡れていることを差し引いてもボロボロで、年季が入っているらしいことが伺える。
「どうせあんたなんでしょう」
 マートルがロンの肩ごしにフェリシアを睨みつけた。
「違うわ。私、マートルに何か投げつけたことも、投げつけようと思ったことも、一度だってない」
「嘘よ」
「嘘じゃない」
「真実薬を飲んでからも同じことが言える?」
「もちろん。一瓶飲み干したっていい」
「あぁイヤ、その自信ありげな澄まし顔」
 マートルが大袈裟に身を震わせて言った。
「あんたには一生かかったってわたしのみじめさを砂一粒分も理解できないんだわ」
「どうして急にそんな話になるの……」
 フェリシアは渋面になった。どうしてこうも嫌われているのか──そもそもマートルに好かれている生徒がいるのかについては議論の余地がありそうだが──胸に手を当てて考えてみたところでまったく覚えがない。「ねえマートル、あなたきっと誰かと勘違いしてる」
 溜息混じりにハリーのほうを見れば、ハリーはロンの制止を交わして本を拾い上げたところだった。ロンは、得体の知れない本をそんな簡単に拾うなんて信じられないと言いたげな表情をしている。確かに、呪いのかかった危険物はたいてい見かけによらない。一目には何の変哲もなく、ありふれた品に見えることがほとんどだいう。
「日記帳だ」ハリーは表紙をまじまじと見ていった。「五十年前のものみたいだ……」
「待って、ハリー」
「もしかして、フェリシアもロンと同じ意見?」
「ロンの言い分は聞いていなかったから知らないけど──」
「君ってそういうところあるよな」とロンが口を挟む。
「──呪われてから警戒したって遅いでしょう」
 フェリシアは杖を取り出した。こういうときはどんな呪文を使えばいいんだっけ──僅かに思案して、最初に思い浮かんだ呪文を唱える。「レベリオ!」
 ロンがやや離れたところで固唾を飲んで見守っていたが、何も変化はない。ボロボロの表紙から水が滴っただけだ。ハリーは少し呆れた顔をした。
「ほら、何も起きないよ。やっぱり開いて見てみないと」
「あっ」
 ハリーは教科書でも開くようにページをめくった。文字までは読み取れなかったが、滲んだインクで何かが書いてあるのがフェリシアにも見える。近寄って覗き込むと、やっと書かれている文字がわかった。『T・M・リドル』──名前のようだ。
「持ち主の名前?」
「この名前、知ってる」用心深く近づいてきたロンが、ハリーの肩越しに覗き込んで声を上げた。
「五十年前、学校から『特別功労賞』をもらったんだ」
「どうしてそんなことまで知ってるの?」
「だって、処罰を受けたとき、フィルチに五十回以上もこいつの盾を磨かされたんだ」
 ハリーは濡れたページをゆっくりとめくっていった。文字が書かれていたのは最初のページだけで、あとはどのページも白紙だった。走り書きの一つさえ見当たらず、何か書いてページを破りとったような跡もない。水に溶けて消える特殊なインクでも使ったのかとも思ったが、そうだとしても、ペンを走らせた細い跡くらい少しは残っているだろう。
「この人、日記に何にも書かなかったんだ」
「誰かさんは、どうしてこれをトイレに流してしまいたかったんだろう……?」
「ただ単にむしゃくしゃしていて、要らないものを適当に投げ込んだだけかも」
 ハリーが日記帳をひっくり返した。住所と店名らしきものが隅に小さく印字されている。ロンドンはわかるが、通りの名前も店の名前もフェリシアには馴染みがないものだった。
「この人はマグル出身に違いない。ボグゾール通りで日記を買ってるんだから……」ハリーが考え深げに言った。
「君が持ってても役に立ちそうにないよ」
 そう言ったあとで、ロンは声を低くした。「マートルの鼻に命中すれば五〇点」
 幸いにも、というべきか、マートルには聞こえなかったらしい。三人が入ってきたときより静かになったすすり泣きに変化はなかった。
 ハリーは日記をマートルに投げつけなかったが、自分のポケットに突っこんでトイレを後にした。

190601
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