マートルのトイレは相変わらず陰気で、大きな鏡はひび割れだらけの染みだらけ、石造りの手洗い台は縁があちこち欠けている。今日は床が水浸しになっていないだけ、マシなほうだろう。
 ハーマイオニーは指を唇に当て静かに入っていくと、一番奥の小部屋の前で「こんにちは、マートル。お元気?」と声をかけた。マートルが自分を嫌っていることを知っているフェリシアは、少し離れたところで見守ることにした。
「ここは女子のトイレよ」
 現れたマートルがロンとハリーを胡散臭そうに見た。
「この人たち、女じゃないわ」
「ええ、そうね」ハーマイオニーが相槌を打った。
「わたし、この人たちに、ちょっと見せたかったの。つまり──えーと──ここが素敵なところだってね」
「何か見なかったかって、聞いてみて」ハリーがハーマイオニーに耳打ちした。
「何をこそこそしてるの?」
「なんでもないよ。僕たち聞きたいことが……」
「みんな、わたしの陰口を言うのはやめて欲しいの」マートルが涙で声をつまらせた。
「わたし、たしかに死んでるけど、感情はちゃんとあるのよ」
「マートル、誰もあなたの気持ちを傷つけようなんて思ってないわ。ハリーはただ──」
「傷つけようと思ってないですって! ご冗談でしょう! その人が一緒にいるじゃない!」
「その人? その人って、フェリシアのこと?」
 ハリーがフェリシアを振り返った。
「ねえ、私、あなたを傷つけようとしたことなんてないよ。ただの、一度も」
 しかし、フェリシアの反論はマートルには届かなかったようだった。
「わたしの生きてる間の人生って、この学校で、悲惨そのものだった。今度はみんなが、死んだわたしの人生を台無しにしにやってくるのよ! その顔がどんなことを言ったか、わたし、忘れたことないわ──」
 マートルはフェリシアを指して喚いた。まるで、ずっと昔からフェリシアを知っているような言い方だ。頭の中で、何かがかちりとはまる音がした。マートルが生きていたのが今から何年前のことだか知らないが、彼女は人違いをしているのだ。フェリシアとそっくりな子どもが、少なくとも一人は、昔もホグワーツにいたのだから。
 けれど──とフェリシアは首を傾げた。いつも女子トイレにいるマートルと、明らかに女子ではないシリウス・ブラックに接点なんてあったのだろうか?
 フェリシアが考えている間に、ハーマイオニーは急いで聞いた。
「あなたが近頃何かおかしなものを見なかったかどうか、それを聞きたかったの。ちょうどあなたの玄関のドアの外で、ハロウィーンの日に、猫が襲われたものだから」
「あの夜、このあたりで誰か見かけなかった?」ハリーも聞いた。
「そんなこと、気にしていられなかったわ」マートルはいくらか落ち着いて、それでも興奮をはらんだ声色で応えた。
「ピーブズがあんまりひどいものだから、わたし、ここに入り込んで自殺しようとしたの。そしたら、当然だけど、急に思い出したの。わたしって──わたしって──」
「もう死んでた」ロンが助け船を出した。
 マートルは大きなすすり泣きと共に飛び上がって、真っ逆さまに便器の中に飛び込んだ。少し離れたところにいたフェリシアを除いて、三人は水飛沫の直撃を受けた。呆気に取られた顔の男の子二人を横目に、ハーマイオニーはやれやれという仕種をしながら、「まったく、あれでもマートルにしては機嫌がいい方なのよ……さあ、出ましょうか」
 便器の奥底から聞こえてくるマートルのくぐもったすすり泣きを背に、ぞろぞろとトイレを出ると、ハリーがトイレのドアを閉めるか閉めないかのうちに大きな声が聞こえた。
「ロン!」
 階段のてっぺんにパーシーがいた。ひどく打ちのめされた表情をしている。
「そこは女子トイレだ! 君たち男子が、いったい何を?」
「ちょっと探してただけだよ。ほら、手掛かりをね……」ロンが肩をすぼめて 、なんでもないという身ぶりをしたが、どうもそれは逆効果のように見えた。パーシーが怒りに体を膨らませて、大股で近づいてくる。
「そこ──から──とっとと──離れるんだ」
 あっという間にこちらにやって来たパーシーは、腕を振って四人をそこから追い立て始めた。
「人が見たらどう思うかわからないのか? みんなが夕食の席についているのに、またここに戻ってくるなんて……」
「なんで僕たちがここにいちゃいけないんだよ。いいかい。僕たち、あの猫に指一本触れてないんだぞ!」
「僕もジニーにそう言ってやったよ。だけどあの子は、それでも君たちが退学処分になると思ってる。あんなに心を痛めて、目を泣き腫らしてるジニーを見るのは初めてだ。少しはあの子のことも考えてやれ。一年生はみんな、この事件で神経をすり減らしてるんだ──」
「兄さんはジニーのことを心配してるんじゃない。兄さんが心配してるのは、首席になるチャンスを、僕が台無しにするってことなんだ」
「グリフィンドール、五点減点!」
 ロンの耳はすっかり真っ赤になっていて、パーシーの首筋もそれに負けず劣らず真っ赤だった。
「これでお前には良い薬になるだろう。探偵ごっこはもうやめにしろ。さもないとママに手紙を書くぞ!」


 その夜、四人は談話室でできるだけパーシーから離れた場所を選んだ。ロンはまだ機嫌が直っていない。「妖精の魔法」の宿題にインク染みばかり作るわ、杖が発火して羊皮紙が燃え出すわ、踏んだり蹴ったりである。ロンがカッカして教科書を閉じると、驚いたことにハーマイオニーもそれにならった。
「だけどいったい何者かしら?」
 ハーマイオニーは落ち着いた声で、まるでそれまでの会話の続きのような自然さで言った。
「出来損ないのスクイブやマグル出身の子をホグワーツから追い出したいと願ってるのは誰?」
「それでは考えてみましょう」ロンはわざと首を捻って見せた。
「我々の知っている人の中で、マグル生まれはくずだ、と思っている人物は誰でしょう?」
 ロンとハーマイオニーはお互いの顔をみやった。
「もしかして、あなた、マルフォイのことを言ってるの──」
「その通り!」ロンが言った。
「あいつが言ったこと聞いたろう? 『次はお前たちだぞ、『穢れた血』め!』って。しっかりしろよ。あいつの腐ったネズミ顔を見ただけで、あいつだってわかりそうなもんだろ」
「マルフォイが、スリザリンの継承者?」
 ハーマイオニーが、それは疑わしいという顔をした。
「あいつの家族を見てくれよ」
 ハリーが教科書を閉じて会話に混ざる。フェリシアはずんと気が重くなって、教科書の文字を見つめた。
「あの家系は全部スリザリン出身だ。あいつ、いつもそれを自慢してる。あいつらならスリザリンの末裔だっておかしくはない。あいつの父親もどこから見ても悪玉だよ」
「あいつらなら、何世紀も『秘密の部屋』の鍵を預かっていたかもしれない。親から子へ代々伝えて……」
「でも、もしそうなら」フェリシアは目を伏せたまま、思ったことを呟いた。「どうして今なんだろう? もっと前に、『部屋』を開けていてもおかしくないと思わない? それこそ、ルシウス・マルフォイが学生だった頃、ヴォルデモートの全盛期だとか……」
「その名前を言うなって……」とロンがたしなめ、「それはそうね」とハーマイオニーが慎重に頷いた。
「だけど、マルフォイが継承者っていう可能性も、確かにあると思う……」
「どうやって証明する?」ハリーが顔を曇らせた。
「方法がないことはないわ」
 ハーマイオニーは声をひそめ、パーシーの様子を伺いながら続けた。
「もちろん、難しいの。それに危険だわ。とっても。学校の規則をざっと五十は破ることになるわね」
「あと一ヶ月くらいして、もし君が説明してもいいというお気持ちにおなりになったら、そのときは僕たちにご連絡くださいませ、だ」ロンはイライラしていた。
「承知しました、だ」ハーマイオニーが冷たく言った。
「何をやらなければならないかというとね、わたしたちがスリザリンの談話室に入り込んで、マルフォイに正体を気づかれずに、いくつか質問することなのよ」
「だけど、不可能だよ」
「いいえ、そんなことないわ。ポリジュース薬が少し必要なだけよ」
「えっ」思わずフェリシアが顔をあげ、「それ、なに?」ロンとハリーが同時に聞いた。
「校則を五十破る程度で済まないんじゃ……?」
 真面目なハーマイオニーの口から飛び出してきたにしては、随分とショッキングな提案だ。入学したばかりのハーマイオニーを思い返せば、本当に同一人物なのか疑わしくもなってくる。フェリシアがおそるおそる顔を見ると、ハーマイオニーは事も無げに言った。「じゃあ訂正するわ。一〇〇は破るかもしれないわね」
「ロンとハリーは、授業聞いてなかったの? 数週間前、スネイプが話してた──」
「魔法薬の授業中に、僕たちがスネイプの話を聞いてると思ってるの? もっとマシなことをやってるよ」ロンがぶつぶつ言った。
「自分以外の誰かに変身できる薬なの。考えてもみてよ! わたしたち四人で、スリザリンの誰か四人に変身するの。誰もわたしたちの正体を知らない。マルフォイはたぶん、なんでも話してくれるわ。今頃、スリザリン寮の談話室で、マルフォイがその自慢話の真っ最中かもしれない。それさえ聞ければ」
「でもそのポリなんとかって少し危なっかしいな。もし、元に戻れなくて、永久にスリザリンの誰かの姿のままだったらどうする?」
「しばらくすると効き目は切れるの。むしろ材料を手に入れるのがとっても難しい。『最も強力な薬』という本にそれが書いてあるって、スネイプがそう言ってたわ。その本、きっと図書館の『禁書』の棚にあるはずだわ」
「借りるとなると、誰か先生のサインがいるね」
「でも、薬を作るつもりはないけど、そんな本が読みたいって言ったら、そりゃ変だって思われるだろう?」
 ロンが言うと、ハーマイオニーは「たぶん」と続けた。「理論的な興味だけなんだって思い込ませれば、もしかしたら上手くいくかも……」
「なーに言ってるんだか。先生だってそんなに甘くないぜ。──でも……騙されるとしたら、よっぽど鈍い先生だな……」
 思い浮かぶ顔が、一つだけあった。

171103
- ナノ -