「なんだ、なんだ? 何事だ?」
 フィルチが人混みを押し分けてやってきた。そしてミセス・ノリスを見た途端、フィルチは顔を手でおおい、後ずさりでしながら金切り声で叫んだ。
「わたしの猫だ! わたしの猫だ! ミセス・ノリスに何が起こったというんだ?」
 フィルチの飛び出した目が、ハリーを見た。「おまえだな!」叫び声は続いて、次にフェリシアを見た。「それともおまえか!」
「ああ、そうに違いない、おまえだ、おまえなんだろう! おまえがミセス・ノリスを殺したんだ! 俺がおまえを殺してやる! 俺が……」
「アーガス!」
 ダンブルドアを数人の先生たちとともに現れた。ただそれだけで、フェリシアは幾らかほっとして肩の力が抜けるのを感じた。ダンブルドアは素早く四人の脇を通り抜け、ミセス・ノリスを腕木から外すと、「アーガス、一緒に来なさい。君たちもおいで」と呼び掛けた。
 ロックハートの申し出で、その場から一番近い彼の部屋へ移動することになった。
 明かりの消えた彼の部屋に入ると、壁面に飾られた何枚もの本人の写真が、あたふたと動き回って物陰に隠れるのが暗がりでもぼんやりと見えた。なんとも趣味の悪い部屋だ。
 本物のロックハートが机の蝋燭に火を灯して後ろに下がり、ダンブルドアがその机でミセス・ノリスを調べ始める。四人は緊張した面持ちで目を見交わし、明かりの届かないところでぐったりと椅子に座り込み、ダンブルドアとミセス・ノリスをじっと見つめていた。
 ミセス・ノリスをくまなく調べるダンブルドアと、同じように身を屈めて猫を見るマクゴナガル先生、暗がりに佇んで奇妙な表情を浮かべているスネイプ。少し前まで文字通りこの世のものとは思えない空間にいたせいなのか、何もかも現実離れして感じられた。
 ロックハートはといえば、みんなの周りをうろうろしながらあれやこれやと意見を述べ並べていたが(「猫を殺したのは呪いに違いありません──たぶん『異形変身拷問』の呪いでしょう──私がその場に居合わせなかったのはまことに残念──」)、それを聞いているのは額縁の中のロックハートたちくらいだった。しゃくりあげるフィルチの耳にも、きっとほとんど届いていないだろう。
 ダンブルドアは何やら呪文を唱えて杖でミセス・ノリスを軽く叩いたりしていたが、何も起こらない。やがて、ダンブルドアは屈めていた体を起こして優しく言った。
「アーガス、猫は死んでおらんよ」
「死んでない?」フィルチが声をつまらせ、指の間からミセス・ノリスを覗き見た。
「それじゃ、どうしてこんなに──こんなに固まって、冷たくなって?」
「石になっただけじゃ」
 ダンブルドアが答えると、すかさず「やっぱり! 私もそう思いました」とロックハートが言った(どの口が言うのだろう)。
「ただし、どうしてそうなったのか、わしには答えられん……」
「あいつに聞いてくれ!」
 涙に汚れ、まだらに赤くなった顔でフィルチがこちらを振り向いた。ハリーを見ているのか、フェリシアを見ているのか、はっきりとはわからないが、フィルチは憎々しげにこちらを睨んでいる。心臓が嫌な音を立てた。
「二年生がこんなことをできるはずがない。最も高度な闇の魔術をもってして初めて……」
「あいつがやったんだ。それとあいつだ! あいつならできてもおかしくない!」
 フィルチはハリーとフェリシアの両方を指差して、真っ赤な顔で吐き出すように言った。
「そんな事あるものですか」
 マクゴナガル先生が口を挟んだが、フィルチは止まらなかった。
「壁の文字を読んだでしょう! あいつは見たんだ──わたしの事務室で──あいつは知ってるんだ。わたしが……わたしが……わたしが出来損ないの『スクイブ』だって知ってるんだ!」
「僕たち、ミセス・ノリスに指一本触れていません!」ハリーが大声で言った。「それに、僕、スクイブがなんなのかも知りません」
「バカな! あいつはクイックスペルから来た手紙を見やがった!」フィルチは歯噛みをして、それからフェリシアに憎悪の目を向けた。「それなら、おまえか!」
「違います、私は何も」
 フェリシアはそう答えるのが精一杯だった。なぜここまで疑られるのか、その理由にもそろそろ察しがついていた。
 きっとフェリシアがフェリシア・ブラックだからだ。
 ブラック家は純血主義だったというし、実の父親は殺人の罪で投獄されている。実の母親の生家だって、悪い噂がある。そういう血筋だから、スクイブを馬鹿にするし、猫を呪いもするのだと言いたいのだろう。今のフィルチが冷静でないことをわかっていても、悔しくてしかたがなかった。
 しかし、狼狽えてはいけない。慣れなければいけないことなのだろう。これから先も、そういう目で見られることは少なくないのだろうから。
「親が親なら子も子なんだ! スクイブをちょっとからかってやろうと、軽い気持ちで呪いをかけたんだろう!」
「フェリシアはそんなことしません!」
 ハリーが声を張り上げた。つい目頭が熱くなって、同時に、隠し事をしている罪悪感がむくむくと大きくなる。
「校長、一言よろしいですかな」
 ずっと黙って立っていたスネイプが口を開いた。
「ポッターもその仲間も、単に間が悪くその場に居合わせただけかもしれませんな」
 スネイプはそう言いながら、自分はそうは思わないがと言いたげに口元を歪めた。
「とはいえ、一連の疑わしい状況が存在します。だいたい連中はなぜ三階の廊下にいたのか? なぜ四人はハロウィーンのパーティにいなかったのか?」
 四人はすかさず絶命日パーティのことを説明した。「……ゴーストが何百人もいましたから、わたしたちがそこにいたと、証言してくれるでしょう──」
「それでは、そのあとパーティに来なかったのはなぜかね?」
 スネイプの暗い目がギラリと輝いた。
「なぜあそこの廊下に行ったのかね?」
 これにはフェリシアたちは答えられなかった。ハリーを追いかけて行った、とは言えない。そのハリーが、ハリーにしか聞こえない声を追っていたというのは、もっと言えない。
「それは──つまり──僕たち疲れたので、ベッドに行きたかったものですから」ハリーはそう答えた。
「夕食も食べずにか? ゴーストのパーティで、生きた人間にふさわしい食べ物が出るとは思えんがね」
「僕たち、空腹ではありませんでした」
 ロンが大声で言った途端、腹の虫が元気よく鳴いて、スネイプが意地の悪い笑みを浮かべた。
「校長、ポッターたちが真っ正直に話しているとは言えないですな。すべてを正直に話してくれる気になるまで、権利を一部取り上げるのがよろしいかと存じます。我輩としては、彼が告白するまでグリフィンドールのクィディッチ・チームから外すのが適当かと思いますが」
「そうお思いですか、セブルス」マクゴナガル先生が鋭く割って入った。
「私には、この子がクィディッチをするのを止める理由が見当たりませんね。この猫は箒の柄で頭を打たれたわけでもありません。ポッターが悪いことをしたという証拠は何一つないのですよ。もちろんトンクスについてもです」
 ダンブルドアがフェリシアとハリーを交互に見た。明るいブルーの目はいつも通りキラキラと輝いていて、何もかも見透かしてしまえそうだった。
「疑わしきは罰せずじゃよ、セブルス」
「わたしの猫が石にされたんだ! 刑罰を受けさせなけりゃ収まらん!」
 フィルチが怒りの形相で叫ぶ。ダンブルドアはそれでも穏やかに、「アーガス、君の猫は治してあげられますぞ」と語りかけた。
「スプラウト先生が、最近やっとマンドレイクを手に入れられてな。十分に成長したら、すぐにもミセス・ノリスを蘇生させる薬を作らせましょうぞ」
「私がそれをお作りしましょう」
 何のつもりか突然ロックハートが口を挟んだ。
「私は何百回作ったかわからないぐらいですよ。『マンドレイク回復薬』なんて、眠ってたって作れます」
「おうかがいしますがね」スネイプが冷たく言った。
「この学校では、我輩が魔法薬の先生のはずだが」
 とても気まずい沈黙が流れた。
「帰ってよろしい」
 やがてダンブルドアがそう言ったので、四人はほとんど走り出す一歩手前の早足で、ロックハートの部屋を後にした。上の階まで上り、誰もいない教室に入ると、そっとドアを閉めた。
「あの声のこと、僕、みんなに話した方がよかったと思う?」
 ハリーの問いかけに、きっぱりと答えたのはロンだった。「いや」
「誰にも聞こえない声が聞こえるのは、魔法界でも狂気の始まりだって思われてる」
「そうじゃなきゃ、呪われてるか、変な薬を飲んだか……」
 フェリシアとロンは暗がりで顔を見合わせた。ハリーにはとても言えやしないが、あのとき、ハリーのことがひどく不気味に思えたのは確かだったのだ。
「君たちは僕のことを信じてくれてるよね?」
「もちろん、信じてるさ。だけど──君も、薄気味悪いって思うだろ……」
「たしかに気味悪いよ。何もかも気味の悪いことだらけだ。壁になんて書いてあった? 『部屋は開かれたり』……これ、どういう意味なんだろう?」
「ちょっと待って。なんだか思い出しそう」ロンが考えながら言った。
「誰かがそんな話をしてくれたことがある──ビルだったかもしれない。ホグワーツの秘密の部屋のこと」
「フェリシアは聞いたことない?」と訊かれたが、あいにくパッと思いつくものはなく、知識の豊富なハーマイオニーもすぐには何も思い浮かばないようだった。
「それに、出来損ないのスクイブっていったい何?」
 ハリーが再び問いかけると、ロンが喉の奥で笑いを噛み殺した。
「こら、笑うようなことじゃないでしょ」
「ごめんって。けど、まさかフィルチがそうだったなんてさ……。スクイブっていうのはね、魔法使いの家に生まれたのに魔力を持ってない人のことなんだ。マグルの家に生まれた魔法使いの逆かな。めったにいないけどね。もし、フィルチがクイックスペル・コースで魔法の勉強をしようとしてるなら、きっとスクイブだと思うな。これでいろんな謎が解けた。たとえば、どうして彼は生徒たちをあんなに憎んでいるか、なんてね」ロンは満足げに笑った。「妬ましいんだ」
 そのとき、どこかで時計の鐘が鳴った。午前零時を告げる鐘だ。
「早くベッドに行かなきゃ。スネイプがやってきて、別なことで僕たちを嵌めないうちにね」

170902
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