四人が向きを変えるか変えないかのうちに、小男がテーブルの下から突然スイーッと現れて、四人の前で空中に浮かんだまま停止した。
「やあ、ピーブズ」
 ハリーが慎重に挨拶した。
 フェリシアは何も言わなかったが、ピーブズが視界に入った途端、たちまち心臓がバクバクと騒ぎだした。先日のやり取りが脳裏をよぎる。
 ピーブズは鮮やかなオレンジ色のパーティ用帽子をかぶり、くるくる回る蝶ネクタイをつけ、意地の悪そうな大きな顔いっぱいにニヤニヤ笑いを浮かべていた。いつその口から恐ろしい言葉が飛び出してくるかと気が気でないフェリシアをよそに、ピーブズは猫なで声で、深皿に入った黴だらけのピーナッツを差し出した。「おつまみはどう?」
「いらないわ」とハーマイオニーが答えた。
「おまえが可哀想なマートルのことを話してるの、聞いたぞ。おまえ、可哀想なマートルにひどいことを言ったなぁ」
 口調とは裏腹に、ピーブズの目は踊っている。どうやらピーブズは、フェリシアをからかうことより、マートルをからかうことのほうがずっと面白いと思ったようだった。
「オーイ! マートル!」
「あぁ、ピーブズ、だめ。わたしが言ったこと、あの子に言わないで。じゃないと、あの子とっても気を悪くするわ」
 ハーマイオニーは大慌てでささやいた。
「わたし、本気で言ったんじゃないのよ。わたし気にしてないわ。あの子が……あら、こんにちは、マートル」
 分厚いメガネをかけたずんぐりした女の子のゴーストがスルスルと近寄ってきて、ハーマイオニーは愛想笑いを浮かべた。マートルはいつも通り陰気臭い顔をしていて、フェリシアに気がつくと顔をしかめた。
「なんなの?」
「お元気?」ハーマイオニーが無理に明るい声を出した。
「トイレの外でお会いできて、嬉しいわ」
 マートルはフンと鼻を鳴らして、フェリシアをじっとりと見た。「どうせ、わたしのことをどう馬鹿にしてやろうかって、そう考えているんでしょう」
「私、あなたを馬鹿にしたことなんてない」
 この場所にいるだけで既にいっぱいいっぱいになっていたフェリシアは、明るい声を取り繕う気力も湧かず、少しうんざりとした声色で答えた。マートルが、フェリシアはマートルを蔑んでいると信じて疑わないのは、女子トイレで初めて彼女に会った時からである。何をした覚えもないのにマートルは泣き喚いて、最終的にトイレを水浸しにし、ついでにフェリシアのローブもびしょ濡れにしたのだ(『嘆きのマートル』について噂を聞いたのはそのあとのことで、それ以来、フェリシアはマートルがいるトイレには出来るだけ近づかないようにしている)。
「ミス・グレンジャーだよ、ミス・グレンジャーがたった今おまえのことを話してたよぅ……」
 ピーブズがいたずらっぽくマートルに耳打ちした。
「あなたのこと──ただ──今夜のあなたはとっても素敵って言ってただけよ」
 ハーマイオニーがピーブズを睨み付けながら言ったが、マートルは「嘘でしょう」と言いたげな目でハーマイオニーを睨んだ。「あなた、わたしのことからかってたんだわ」
 そういうなり、マートルの目から銀色の涙が溢れてきた。
「そうじゃない──ほんとよ──わたし、さっき、マートルが素敵だって言ってたわよね?」
「ああ、そうだとも」
「そう言ってた……」
「嘘言ってもダメ」
 マートルの涙はもはや滝のような勢いで頬を伝っている。ピーブズは面白くてたまらないらしく、声を上げて笑っていた。
「みんなが陰で、わたしのこと なんて呼んでるか、知らないとでも思ってるの? 太っちょマートル、ブスのマートル、惨め屋・うめき屋・ふさぎ屋マートル!」
「抜かしたよぅ、にきび面ってのを」
 追い討ちをかけるようにピーブズがマートルの耳元でヒソヒソ言うと、マートルは途端にしゃくりあげて地下牢から逃げるように出ていった。ピーブズは黴だらけのピーナッツをマートルに投げつけて、「にきび面! にきび面!」と叫びながらマートルを追いかけていった。
「なんとまあ」ハーマイオニーが悲しそうに言った。
「悲劇的ね」
 フェリシアはもうすっかり疲れきって、今すぐにでも地下牢を出ていきたい気持ちだった。ハロウィーンパーティにはもうきっと間に合わないだろうから、厨房に寄ってケーキでも貰って、談話室のふかふかの肘掛け椅子で寛ぐのはどうだろう──ここに居続けるより、ずっと素敵だ。
 しかし、マートルたちと入れ違いになるようにニックがやって来た。
「楽しんでいますか?」
「ええ」みんなで嘘をついた。
「随分集まってくれました。『めそめそ未亡人』ははるばるケントからやってきました……そろそろ私のスピーチの時間です。向こうに行ってオーケストラに準備させなければ……」
 ところが、その瞬間、オーケストラが演奏をやめた。地下牢にいた全員が、狩りの角笛が鳴り響く中、しんと静まり、興奮して周りを見回している。
「あぁ、始まった」先程までの誇らしげな様子から一転して、ニックが苦々しげに言った。
 一体何が始まったのだろう。そう思う間もなく、壁から十二騎の馬のゴーストが飛び出してきた。それぞれ首無しの騎手を乗せている。たちまち観衆からは熱狂的な拍手が沸き起こった。
 馬たちはダンス・フロアの真ん中で止まった。先頭にいた大柄なゴーストは、自分の首を小脇に抱えていた。先程から聞こえている角笛はその首が吹いているようだった。やがて大柄なゴーストは馬から飛び降り、首を高々と掲げた。観衆から笑い声が上がる。それから、ニックに大股で近づき、首を胴体に押し込むように戻した。
「ニック! 元気かね? 首はまだそこにぶら下がっておるのか?」
 ゴーストは思い切り高笑いをして、ニックの肩を叩いた。
「ようこそ、パトリック」ニックが冷たく言った。気の良いゴーストである彼がこんなにも冷たい声を出すところなど、少なくともフェリシアは今まで聞いたことがない。
 パトリック卿は四人を見つけると、「生きてる連中だ!」と驚いたふりをして大袈裟に飛び上がった。首が胴体から転げ落ちて、それを見た観衆が笑い転げる。ニックの顔はすっかり苦々しく染まっていた。
「まことに愉快ですな」
「ニックのことは、気にしたもうな!」床に落ちたままのパトリック卿の首が叫ぶ。「我々がニックを狩クラブに入れないことを、まだ気に病んでいる! しかし、要するに──彼を見れば──」
「あの──ニックはとっても──恐ろしくて、それで──あの……」
 ハリーがしどろもどろに切り出せば、「そう言えと彼に頼まれたな!」とパトリック卿はまた叫ぶ。
「みなさん、ご静粛に。ひとこと私からご挨拶を!」
 ニックが声を張り上げ、壇上に登った。ブルーのスポットライトを浴び、ゴーストたちの視線を集める。
「お集まりの、今は亡き、嘆かわしき閣下、紳士、淑女の皆様。ここに私、心からの悲しみを持ちまして……」
 残念なことに、そのあとは誰も聞いていなかった。パトリック卿と「首無し狩クラブ」のメンバーが首ホッケーを始め、パーティの客はみなそちらに目を奪われていたからだ。ニックが聴衆の注目を取り戻そうと躍起になったが、パトリック卿の首がニックの脇を飛んで行き、みんながワッと歓声をあげたので、すっかり諦めてしまった。
 気の毒ではあったが、四人はそろそろ限界だった。
「僕、もう我慢できないよ」とロンが呟いた。
 オーケストラが演奏を再開し、ゴーストたちがダンス・フロアに戻ってきたところで、ハリーが言った。「行こう」
 誰かと目が合うたびに会釈で誤魔化しながら、四人は後ずさりで出口に向かった。ほどなく、四人は黒い蝋燭の立ち並ぶ通路を、急いで元来た方へと歩いていた。
「デザートがまだ残っているかもしれない」
「えぇ、どうかな、直接厨房に行った方が──」
 そのとき突然ハリーが立ち止まって、石の壁にピタリとくっついた。
「ハリー、一体何を……」
「またあの声なんだ──ちょっと黙ってて──ほら、聞こえる!」
 ハリーが興奮気味に言った。フェリシアには、何も、聞こえない。ちらりとハーマイオニーとロンを見れば、二人は凍りついたようにハリーを見ていて、聞こえなかったのは二人も同じなのだとわかった。──ハリーには、一体何が聞こえているというんだろう?
 ハリーは暗い天井をじっと見上げている。かと思えば、急に「こっちだ」と叫んで駆け出した。フェリシアたち三人には何がなんだかわからない。お互い困惑した目配せを送りあって、ハリーの後を追いかけた。そうして階段を駆け上がって、玄関ホールに出る。大広間の喧騒がホールまで響いていて、ハロウィーン・パーティがまだ続いていることがわかった。ロンが言った通り、今ならまだデザートにありつけるかもしれない。しかし、ハリーは全速力で階段を駆け上がった。三人もハリーを 追いかけて二階に出た。
「ハリー、いったい僕たち何を……」
「シーッ!」
 ハリーはじっとして、上を見上げながら耳をそばだてている。
「誰かを殺すつもりだ!」
 言うが早いかまた駆け出していく。ハリーには何が聞こえているのか、そして何を追いかけているのか、全くわからない。
「ハリー、一体どうしちゃったんだろう!」
「わからない、とにかく今は追いかけるしか……」
 階段を駆け上がって三階へ上がると、ハリーは廊下を駆け回っていた。そのあとをついてまわり、角を曲がって、最後の誰もいない廊下に出たとき、ハリーはようやく動くのをやめた。
「ハリー、いったいこれはどういうことだい?」ロンが額の汗を拭いながら聞いた。
「僕にはなんにも聞こえなかった……」
「私も。いったい何が……」
「見て!」突然ハーマイオニーが廊下の隅を指差した。
 指差された先、壁に何かが光っていた。暗がりに目を凝らしながら、そっと近づいていく。松明のチラチラと揺れる灯りで、窓と窓の間の壁に、文字が塗りつけられているのが見えた。

秘密の部屋は開かれたり
継承者の敵よ、気をつけよ

「なんだろう──下にぶら下がっているのは?」ロンの声はかすかに震えていた。
 じりじりと壁に近寄りながら、ハリーが足を滑らせた。床に大きな水溜まりができていたらしい。マートルのいる女子トイレでもあるまいに、どうしてこんなところに水溜まりがあるのか、ちっとも見当がつかない。壁の文字の意味も、だ。言い様のない不安感がちりちりと胸を擽った。少しずつ、少しずつ文字に近づきながら、その下の暗い影に目を凝らす。一瞬にして、それがなんなのか四人ともわかった。ぱっとのけ反るように飛び退き、跳ね上がった水溜まりの水がローブの裾を濡らした。
 フィルチの飼い猫、ミセス・ノリスだったのだ。松明の腕木に尻尾を絡ませ、ぶら下がっている。目をカッと見開いたまま、石像のように動かない。
 しばらくの間、四人は動かなかった。硬直したミセス・ノリスと同じように、ぴくりとも動けずに文字と猫を見つめていた。
 どれくらいそうしていただろう。やおら、ロンが言った。
「ここを離れよう」
「助けてあげるべきじゃないかな……」ハリーが戸惑いながら言う。
「僕の言う通りにして」ロンははっきりと言い切った。「ここにいるところを見られない方がいい」
 しかし、既に遅かった。明るいざわめきが近づいてくる。パーティが終わったらしい。四人がいる廊下の両側から、何百という足音が楽しげなおしゃべりとともに聞こえてくる。次の瞬間、生徒たちが廊下にワッと現れた。
 前の方にいた生徒がぶら下がった猫を見つけた途端、すべてのざわめきが一瞬にして消えた。前方の生徒がおぞましい光景に足を止める一方で、後方の生徒は何があったのかと首をかしげ、よく見ようと押し合いをしている。
 そんな中、突然、静けさを破る誰かの声が響いた。
「継承者の敵よ、気をつけよ! 次はおまえたちの番だぞ、『穢れた血』め!」
 ドラコ・マルフォイだった。人垣を押し退けて最前列に進み出たマルフォイは、その光景を前にして興奮しているように見えた。いつもは血の気のない頬に赤みがさしている。ぶら下がったままぴくりともしない猫を見て、怯えるでもなく、息を呑むでもなく、愉快そうに口の端をつり上げた。

170902
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