心臓がいくつあっても足りない
※夢女子トリップ/特にオチはないです



 車に轢かれた。ドーンと。

 ……なんて軽く言ってはみたものの、実際全然軽い出来事じゃなかった。もちろん笑いごとでもない。全身がバラバラになるかと思うくらい痛かった。のに。
 車に轢かれたのに、生きていた。
 ぶつかった衝撃も、痛みも、耳をつんざくブレーキ音も、確かに覚えている。今だって全身が痛みに悲鳴をあげている。それなのに、私は息をしているし、間違いなく心臓も動いている。どういうことだろう。これが走馬燈ってやつなのだろうかと思ってみたりもしたものの、別に今までの思い出が脳裏を駆け巡っているわけでもなく、ただただ暗闇の中にぽつり、一人放りだされている。
 おそるおそる手を伸ばしてみると、岩肌のようなごつごつしたものに触れた。思えばここの空気はひんやりと冷たいし、まるで洞窟のようだ。あるいは、死後の世界とやらがこんなものなのだろうか。

「死んで異世界にトリップしました〜とか? ……いや、ないわ。うん。いくらなんでもないわ。そんな、ベタな夢小説じゃないんだから──」
「そこに誰かいるんですか?」

 聞こえるはずがないと思っていた人の声がした。この暗闇の向こうからだ。思わず飛び上がってしまったけれど、この暗さならばどうせ見えていないだろう。平静を装って「どちら様ですか?」と聞き返してみた。さすがに、「あなたも事故って死んだ方ですか?」とは聞けなかった。

「私は、この国の政務官です。あなた、もしかして昨日到着予定だった商船の乗り組み員の方では……」

 暗闇の先に、灯りがちらついている。

「嵐に巻き込まれたとの報せを受けて、このあたりを捜索していたんです。ああ、生き残った方がいてくれてよかった。この横穴のおかげですね」

 安堵した声が岩壁に反響して聞こえる。ざりざりと岩肌を踏む音も近づいてくる。
 私はこの声を知っている。きっと、この人を知っている。でも、有り得ない。ついさっき自分が否定したばかりの言葉がぐるぐると脳裏を駆け巡っているが、絶対に、有り得ない。だって、どんな理屈でこうなるというのだ。どこの夢小説だ。そりゃあトリップに憧れたことがないわけじゃない。もはや全夢女子のあこがれといっても過言ではないかもしれないけれど、でも、やっぱり有り得ない。正直に言って、事故からのトリップなんてありふれすぎていて、読むたびにまたコレかー王道だなーなんて鼻で笑っていた私である。もし今私が置かれている状況がそれに当てはまるというなら、あれらの夢小説はすべて真理だったのか。なんてことだ。もしや、あれらを書いていた人たちみんなこの状況の経験者だったのだろうか。私が空想だとばかり思っていた話は、彼女たちが本当に経験した夢のような出来事だった? まさかの実録?
 頭を抱える私をよそに、足音は近づいてくる。逃げたい。このよくわからない状況から、今すぐ全速力で逃げだしたい。
 けれど、残念ながら、この場所に逃げ場なんてなかった。後ろは岩壁、左右も岩壁、前には『彼』だ。
 近づいてきた灯りが私を照らす。ついでに、灯りを掲げる人物の姿もぼんやりと照らし出した。長い裾、長い袖、緑色のクーフィーヤ。思い描いていたよりもずっと白く透き通った肌にはそばかすが散っている。目をそらすことのできない現実がそこにあった。
 ……ああ、もう。
 完全にキャパシティーオーバーだ。体は痛いし頭も痛い。
 ぐるりと視界が回って、私は意識を手放した。


 次に目を覚ました時、目の前には見知らぬ天井が広がっていて、嗅いだことのない香りが部屋を満たしていた。ぱち、ぱち、ぱち。ゆっくりと三度瞬きをするうちに、記憶が蘇ってきた。──そうだ、ここは。
 跳ね起きると、体の痛みは嘘のようになくなっていた。きっとこの国の優秀な魔導士たちのおかげに違いない。部屋には私以外には誰もいなかった。好都合だ。
 そろりとベッドから降りて、見慣れない自分の装いに気が付いた。意識のない間に着替えさせられたらしい。もともと着ていたはずの服がどうなっているのかは気になるけれど、今は、あきらめよう。おそらく私のために用意されたのだろうシンプルな黒い靴をありがたく拝借し、部屋の重い扉を押し開ける。誰も、いない。よし。
 お礼も言わずに姿をくらますのは非常識で、礼儀知らずな行為だとは思うけれど、顔を合わせて平気でいられる気がしないのだ。勘だけを頼りに、大きな、どんなに焦がれても足を踏み入れることなどできなかったはずの王宮を駆ける。ああ、でも、ここからどこに行けばいいんだろう。行くあてなんかない。ちらと胸をかすめる不安を押し込めて、廊下を曲がったときだった。

「あ」

 目の前に、彼が。

「ちょっとあなた、なんでこんなところに──」

 直視できない! 最後まで聞いていられず大慌てで方向転換した私は、何を思ったか、手近な窓に手をかけた。
 ほら、本当にトリップなら、特典で何かスゴイ能力があるかもしれないし。
 ただの夢なら、覚めるかもしれないし。
 そもそも夢なら、怪我するはずもないのだし。
 混乱した頭であれやこれやと並べ立て、後ろから聞こえる声を必死で耳から追い出して、勢いよく飛んだ。思い切りよく、バンジージャンプのごとき勢いで飛んだ。

「……びっくりした」

 がっしりとたくましい腕が私を抱えていた。同時に聞こえてきた低い声にも、覚えがある。ああ、お願いだから誰か嘘だと言ってほしい。直に伝わってくる体温が、吐き出されたばかりの息が、間違いなく彼が生きてここに存在していることを証明している。

「あんた、なんで上から」

 抱えられたまま動けないでいると、不意に切れ長の赤い目が私の顔を覗き込んだ。本当に生きている。触れている。私に、声をかけている。
 これが本当の本当にトリップなのだとして、こっちに来て厳密にどれだけの時間が経ったのかわからないけれど、意識のあった時間だけで考えてこの短時間で早くも八人将の二人目に遭遇してしまった。理解が追いつかない。気持ちが全くついて来られていないのに、目まぐるしく『お話』だけが進んでいく。

「おーい、マスルール……ん? 誰だ、それ」
「何言ってんの、シャル。昨日ジャーファルさんが救助してきた人だよ。運び込まれるとこ見たじゃん! 目が覚めたんだねー」
「ああ、よかった、マスルールが受けとめてくれたんだね。私も今そっちに行きますから、そのまま待っていてくれますか」

 ……無理だ。こんなの、無理。

 心臓がいくつあっても足りない!

初出160929
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