夜よふたりの空虚をあやしておくれ
「こんな時間にこんなところで、一体何をしているんだ」

 ムーが訝しげに言うのも無理はなかった。真夜中、一人で屋敷の屋根に登って膝を抱えていれば、誰だってそう思うだろう。まして今夜の月は、決して明るいとはいえない。
 しかし、それはムーにも言えることだった。貴方こそこんな時間にこんなところに来て、一体どうしたの。そう問えば、屋根の下から私を見上げていたムーは表情を消して答えた。

「眠れなかったんだ。それで少し夜風にあたろうと思って外に出たら、向こうから君の姿が見えたから」
「そう、奇遇ね。私も眠れなかったの」
「だからって何も屋根に上がることはないだろう」
「大丈夫よ。落ちはしないわ」
「だとしてもだ。ほら、降りて来るんだ」

 夜目に、ムーが私に手を伸ばしたのがわかった。私がここから飛び降りたら、抱き止めてくれるつもりなのだろうか。それならば、その逞しい腕の中に思い切り飛び込んでみるのも悪くはないかもしれない。しかし、私はそうしなかった。魔法を心得てから二十年ともなれば、空の飛び方はとうにこの身に染み着いている。ふわりと彼の隣に降り立てば、ムーは肩を竦めて腕を下ろした。

「こんな夜に一人で外に出るのは感心しないな」

 心細くなるような痩せた月の光は、暗闇を照らすにはあまりも頼りない。時折流れていく雲はその僅かな光さえ遮る。そうなると、特別に夜目が利くのでもない私には隣にいる人間の顔も判然としない。ところが今に限っていえば、たとえ肉眼で見えずとも、彼の顔の作りも浮かんでいる表情もはっきりと分かった。それだけの長い月日を共に生きてきたからだ。
 そしてそれは、私達がシェヘラザード様のお傍で生きてきた年数に等しい。いや、等しかった。これからはもう、等しいとはいえなくなる。あの方の傍らで過ごす時間は二度と訪れることはないし、故にそんな月日を重ねていくこともない。私とムーが共にいる時間は、あの頃に比べれば少なくなるかもしれないけれども、それでも少しずつこれからも増えていく。増えていくことが出来る。永久に失われたものとの、そんな違いを考えていれば、どれだけ夜が更けても眠気は私を包んではくれなかった。

「少し、散歩をしない?」
「俺の話を聞いてなかったのか?」
「聴いていたわ。要は一人でなければ良いのよね。眠れない者同士、夜の散歩と洒落込みましょ」
「……分かった、分かったよ」

 ムーの隣りを歩くのは、随分と久しぶりのような気がする。彼が昔とはまるで違う歩幅を私に合わせてくれることは知っていたけれども、そんなことさえ懐かしく思えた。失った存在があまりにも大きいせいで、変わらないものがあるということが却って奇妙に感じられるのである。

「どうして眠れないのか訊いても良いかな」
「それはたぶん……貴方と同じだわ」
「……そうか」

 自分の真ん中にぽっかりと穴が空いてしまったような。埋めようのない空洞が出来て、その空洞がじわじわと私も飲み込んでいくような。
 ムーが同じことを考えていたかは本当のところ分かりやしない。それでも、シェヘラザード様のことが蟠りとなっているだろうことには違いなかった。シェヘラザード様はもういない。より正確にいうならば、いるけれどいない。シェヘラザード様と同じ色の髪を波打たせ、同じ色の瞳を輝かすあの少年は、シェヘラザード様であって、しかし結局はシェヘラザード様ではなかった。だから、私の空洞は埋まらない。
 そしてきっと、ムーも。
 不意にムーの足が止まって、つられるように私も歩みを止めた。

「唯一無二のひとだった」

 ぽつり、ムーが呟く。見上げた横顔は、空の頼りない月を向いている。

「そうね。優しくて、強くて、愛情深くて」

 目頭が熱くなる。たまらず私も痩せた月を見上げた。

「ねえ、ムー、」

 どうか、貴方はいなくならないで。  
 喉元まで出掛かった言葉を、伝える勇気はなかった。ムーは、シェヘラザード様と同じだけの月日を共に過ごした人だ。シェヘラザード様が唯一無二の存在であるように、彼もまた私にとっては唯一無二で、特別で、かけがえのないただ一人である。たとえ彼の瞳に私が映っていないとしても、私は、確かに隣りにいたのだ。

「なんだい?」
「……ごめんなさい。なんでもないの」
「俺にはなんでもないって顔じゃないように見える」

 はっとして振り向けばムーの目は既に月など見ておらず、私の方へ真っ直ぐに向けられていた。こうやって目を合わせたのは一体いつぶりだろうか。じわじわと水っぽくなる目など見せるわけにはいかないのに、まるで何かの魔法がかけられているかのように逸らすことができない。
 ゆっくりとムーの手が近づいてくる。硬く骨張った手が触れた。覚えている限りで最後にムーの手に触れたのは、今と違って彼の手も私の手もまだふくふくと柔らかかった頃のことだ。渇いた手が頬を撫でていく。気づけば抱擁されていて、それでも、彼が泣かないうちは私も泣くわけにはいかない。

「気のせいよ。ムーこそ、情けない顔をしているわ」
「そうかな。……そうかもしれないな」

 ムーの規則正しい鼓動が聞こえる。ということは、ムーには私の鼓動が聞こえているのだろう。懐かしいような泣きたいような気持ちになって、一度だけ鼻を啜った。頭を撫でる手がひどく優しいのには困ってしまう。

「もう少しこのままでも良いかい」
「どうぞ、気の済むまで──いつまでも」

 どうせ私達、眠れない者同士なんだもの。そう言うと、そうだったなと頭上で小さく笑う声がした。
 そんな私達の上で頼りなく浮かぶあの月は、まだ欠けていく。明日か明後日には全く見えなくなるだろう。それでも月は、いずれまた丸々とした姿になって世界中の夜を照らすのだ。

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