No.7
わたしがいなくなる日
 海だ。目の前いっぱいの、大海原。
 なんだって私はこんなところにいるのかと、考えたところで答えは出ない。はっきりしているのは、こうしていつまでも海に浮かんでいても、私を待つものは死だけだということ。このままでは、眩しいほどに青い空と 同じように青く澄みわたった海が、私の墓場になってしまう。考えようによってはロマンチックなのかもしれないけれど、私はまだ死にたくないし、どうせ死ぬにしても土左衛門として引き揚げられるのは出来れば避けたい。
 そんなことを考えていたら、一際大きな波が嘲笑うかのように私を飲み込んだ。


 気がついたとき、私はもう海を漂ってはいなかった。砂浜の上に投げ出された体は、動かすと節々が痛んだ。どうやら私は生きている。ゆっくり起き上がって、脚は投げ出したまま、ぐるりと辺りを見渡した。目の前は海、背後には岩壁。ここは、どこだ。日本のようには見えなかった。
 ──まさか、荒波で外国まで流されて? いやいや、そんな、まさか。
 そもそも何故自分が海を漂っていたのかも分からない。少なくとも自分で海に入った記憶はないし、私が住んでいたのは海から離れた内陸部のはずだった。これはどうもおかしいと首を捻っていると、後方がざわざわと騒がしくなった。振り返れば、数人の人影が見える。

「こっちです──」
「こっちに人が──」

 その人達の出で立ちを見て、私はここが日本ではないことを確信するしかなかった。日本では到底考えられない服装なのだ。まるでそう、どこかの国の兵士のような。しかし、それなら尚更おかしいことがある。ここが日本でないならば、どうして言葉を聞き取れたのだろう?
 やって来たのは全員男の人だった。中でも目立つのは白い──銀なのかもしれない──髪の人だ。一人だけ服装が違う。ゆったりとした袖の、裾の長い服に、緑色の帽子のような何かを被っている。色白の肌にそばかすが目立つ顔はまだ若そうで、私と目が合うとわずかに眉をひそめた。

「あなた──自分のことがわかりますか? ここがどこか、あなたが今どうしてここにいるか、わかります?」

 前者はともかくとして、後者については今まさに疑問に思っていたところだったから、私は小さく答える。流れ着くまでに海水を飲んでしまったからだろう、喉がヒリヒリした。

「私は、エルハームといいます。それしか、わかりません」
「……わからない」

 その人は静かに繰り返した。明らかに日本人ではなかったのに、聞こえてくるのは日本語だし、私が話した日本語も通じている。これは、一体どういうことなのだろう。
 そこにいる全員が、探るような目でじろじろと私を見ている。居心地の悪さに俯くと、少ししてからまたそばかすの人が口を開いた。

「……乗っていた船が難破した、と考えるのが無難でしょうか」

 それにしては船の残骸はどこにも見当たりませんが、と呟く声は警戒心の塊のようだった。

「ひとまずこちらで保護しましょう。それから、念のため難破船や他に海に投げ出された者がいないか、周辺を捜索するようヒナホホ殿に伝えてください」
「はい!」
「それでは……エルハームさん、でしたね? あなたは私に着いてきてください。立てますか?」

 よろよろと生まれたての子馬のように立ち上がると支えてくれるものの、そこに温かみのようなものは感じられない。別に拘束されちゃあいないけれど、捕獲された宇宙人のような気持ちだった。
 全く理解できない状況の中、ただ漠然と、大変なことになってしまったなあと思う。もっと混乱して喚いてもおかしくなさそうな状況なのに、案外私は落ち着いているらしい。ひょっとすると混乱しすぎて現実から逃げているだけなのかもしれなかったけれど、どちらにしろ打開策なんて見つかりそうにないのだ。
 さあ、腹を括れエルハーム。成るようにしか成らない。

***

「──ぼーっとするのは結構ですが、仕事が終わってからにしてくださいよ」
「すみません、ジャーファルさん」

 ちょっとここに来たときのことを思い出していて。そう言うと、ジャーファルさんがペンを走らせる手を止めてばつが悪そうに眉を下げる。

「もう二年前のことになりますか」
「はい。……なんだかあっという間でした」

 もう二年もここにいるのか、と驚く一方で、随分とここでの暮らしに馴染んだものだなあと思う。今思い出してみてもあからさま過ぎるほどジャーファルさんに警戒されていた私が、今では彼と同じ服を着て同じ場所で仕事をしているのだから、成るように成るとはよくいったものだと名も知らぬ先人を褒め称えたくなる。
 二年は決して短くはない。けれど、明らかに日本語ではない言葉が理解できたのもどうして私がここにいるのかも、何一つとして未だ解明されてはいなかったし、ましてや日本に帰る術など誰にも見当がつかなかった。
 生まれ育った国が、文化が、どこにも存在しないことを知ったとき、私はここに来て初めて絶望した。それまでの人生で一番深い絶望だった。そんな私に居場所を与えてくれたシンドバッド王にはいくら感謝しても足りない。

「私、怪しいところしかなかったのによく追い出されたり殺されたりしなかったなって思いますよ」
「そりゃあ……私も最初は疑いましたが、世間知らずで剣どころか重いものが持てない、魔法も使えない、挙げ句にいつでも隙だらけ。警戒するのが馬鹿馬鹿しくなりますよ」
「ちょっと、その言い様はどうなんですか?」
「飲み込みの速さは評価していますよ。あと神経の図太さも」
「…………それ、誉めてるんですか?」
「ええ勿論。まあ、ほかにも怪しさを補って余りある何かがあって、それが受け入れられたんです。だから今あなたはここにいる。……さて、それではお喋りはここまでです。いい加減手を動かしましょうか」

 「少なくとも今書いているそれとそれ──あとこれも、今日中に終わらせてもらいますよ」ジャーファルさんが指し示す紙の山に、思わず顔をしかめる。目敏く気がついたジャーファルさんはすぐに嗜めた。

「これでもいつもよりは少ないほうでしょう」

 息が詰まりそうになったけれど、不平を言っていてもどうしようもない。ジャーファルさんは私が羽根ペンを握り直したのを見届けてから、再び手元の羊皮紙に目を落とした。溜息を飲み込んで、私も山積した仕事を片付けるべく気合いを入れる。


 日本には、帰りたいと思う。それがいつになるかは分からなくても、いつかは。けれど、その『いつか』が来たとき諸手を挙げて喜べるか、今となっては分からなかった。この二年で、私にとってこの場所は大切になりすぎたのだ。
 ここへ来たときがそうであったように、その『いつか』も突然やって来るかもしれない。そのときまでに、この場所に別れを告げる覚悟が出来るのか、今の私には全く自信がなかったけれど、答えはきっとひとつなのだ。
 ──成るようにしか成らない。覚悟なんて関係なく、思いなんて関係なく、ただ成るように。

150709 / title by サンタナインの街角で
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