No.1
ひかりのなかで手をつなごう
 エルおねえさーん、と元気な声が私を呼んだ。今ではすっかり耳慣れたあどけない声の主が、とたとたと廊下を駆けてくるのが分かる。振り向いたその瞬間勢いよく飛びついてきた可愛らしい少年をどうにか抱きとめて、思わず頬をゆるめた。

「こんにちは、アラジン」
「こんにちは、エルおねえさん!」

 遠慮もなしに胸元に顔を埋めるアラジンに末恐ろしさを感じつつも、まあこの子はまだ幼いのだしまだまだ甘えたい年頃なのだろうと思えば簡単に許せてしまうので、私も大概甘いなあと思う。最初はそんな私の代わりに怒っていたヤムライハも、最早呆れ返って何も言わない。唯一シンドバッドだけがやめるように未だ口を酸っぱくしているけれども、今の状況を鑑みるに、それは空しい努力だと言わざるを得ないだろう。
 それにしても、アラジンが一人でいるのは珍しい。大抵はアリババかモルジアナのどちらか、そうでなければ師匠であるヤムライハが一緒にいる。尤もこの時間なら、アリババとモルジアナはそれぞれの師匠に稽古をつけてもらっていることだろう。そして、いつもならアラジンもそうであるはずなのだ。しかしヤムライハの姿はどこにも見当たらない。アラジンが顔あげたところを見計らって、声をかけた。

「今日はヤムライハとの特訓はないの?」
「ううん、あったよ。さっきまでしていたんだけど、ヤムさんが急に何か閃いて……」
「……部屋に籠ってしまった?」
「うん、そうなんだ」
「それは……残念だけれど、今日は特訓はもう終わりね。しばらく出てこないと思うから」

 きっぱりと言い切ると、アラジンは落胆したように見えた──が一瞬のことで、さらに一瞬あとには早くも立ち直り、きらきらと目を輝かせて私を見た。何か期待が籠った眼差しだ。

「それじゃあ、エルさんが教えておくれよ!」
「え?」
「エルさんは凄いって、ヤムさんがよく言ってるんだ!」
「ええと……ごめんね。私はアラジンやヤムの足元にも及ばないから、きっと何も教えられないよ」

 それに今日の仕事もまだ残っている。そう告げると、今度こそアラジンががっくりと肩を落としたので、私は慌てて言葉をついだ。

「今から森に行くけれど、一緒に来る?」
「…行く!」

***

 森には思った通りマスルールとモルジアナがいた。あの小柄で細身の体で驚くほど力強く鋭い蹴りを繰り出すモルジアナもさることながら、それをびくともせず受け止めるマスルールもやはり凄い。ファナリスの手合わせに圧倒されたのは、隣のアラジンも同じだったようだ。「すごいねぇ」と零れた声に、つい私も「凄いねえ」と丸きり同じ言葉を返してしまった。マスルールがちらりとこちらを見たので、ひらひらと手を振ると、マスルールが何かを呟いて、背を向けていたモルジアナがぱっと振り返った。

「アラジン、エルハームさん」
「こんにちは。邪魔をしてしまったかな?」
「いえ! そんなことはありません」

 一見すると無表情のようでいて、しかしやや焦ったようにモルジアナが首を横に振る。頭の横で結われた赤毛が尻尾のように揺れた。
 こうして見ると、マスルールと兄妹ではないのが不思議なほどによく似ている。表情があまり変わらないところまでそっくりだ──それでも、マスルールに比べれば、モルジアナはずっと表情豊かといえるだろうけれども。
 じっと見つめられているのが居心地悪いのか、モルジアナはどことなく困ったような顔をした。

「あの、何か……?」
「なんでもないよ。マスルールとよく似ているけれど、マスルールよりずっと可愛いなあと思って」

 ぎょっとしたように後ずさったかと思うと、さっと顔を背けてしまった。アラジン曰く、照れているらしい。暫し微笑ましく見守っていたけれども、ふと森に来た目的を思い出した。私は薬草を取りに来たのだった。

「マスルール、アラジンとモルジアナをよろしくね」
「エルは帰るのか」
「ううん、もう少し奥に行って採集してくる」
「そうか。……迷わないように気をつけろ」
「大丈夫だよ。でも、もし迷っても、マスルールが見つけてくれるでしょう?」
「……さあな」

 返ってきたのは素っ気ない返事だったけれども、いざというとき頼りになるのは間違いない。私は笑って森の奥へ足を進めた。

***

 無事迷うことなく戻ってくると、マスルールは座ったまま寝ていて、モルジアナとアラジンが仲良くお喋りしていた。といっても話しているのは殆どアラジンのほうで、モルジアナは相槌を打つだけだ。表情を見るに楽しんではいるようだ。

「ただいま」
「おかえりなさい!」
「ご無事で良かったです」

 もう少し経っても戻ってこなければ自分が捜しに行くつもりだったとモルジアナが言うので、思わず頭を撫でてしまった。今更私がこの森で迷子になることはきっと有り得ないけれども、モルジアナが捜しに来てくれるならば敢えて迷ったふりをしてみるのも良いかもしれない。……いや、こんな良い子に心配をかけては申し訳ないからやはりやめておこう。
 マスルールを起こして(これがなかなか大変だった)王宮に戻ると、見計らったように終業の鐘が鳴った。きっとアリババの修行も終わったことだろう。シャルルカンは残業をしないので確信を持って子供たちに告げると、二人とも嬉しそうに表情を綻ばせた。

「アリババくんのところに行こう!」

 急かすように私とモルジアナの手を引いてアラジンが走るものだから、つられて私たちも早足になった。マスルールは相変わらず興味が無さそうなくせに後ろをゆっくりついてくる。
 二つほど廊下を曲がったところで丁度良くアリババとシャルルカンに出くわした。二人とも、こちらに気づくと揃って目を丸くする。今日も散々しごかれたようで、少年の顔には疲労の色がありありと見てとれた。あとで疲労回復によく効くお茶を淹れてあげよう。

「あれっ、アラジン、モルジアナ! エルハームさんにマスルールさんも!?」
「アリババくん、お疲れさま!」
「なんでみんな一緒に?」
「実はね、」

 アラジンが説明するけれども、手を離してくれない。アリババが気になって仕方ないと言わんばかりにちらちらとその手を見た。実のところ、私に抱きつくアラジンに対するシンドバッドの小言は、アラジンよりもアリババに大きな影響を与えていた。よほど彼の小言が恐ろしいと見え、アリババは私を見かけてもそそくさとどこかへ行ってしまう。二人で話すと怒られるとでも思っているのか、アラジンやモルジアナがいないときには決して声を掛けてこないのだ。
 「なあ、アラジン」ぼそぼそとアリババが言った。

「手、離したほうが良いんじゃないか? またシンドバッドさんに怒られる……」
「アリババ、お前びびりすぎ」
「笑い事じゃないですよ、師匠!」
「本当に大丈夫だよ、アリババくん」
「エルハームさんまで…!」
「だって、誰と仲良くしようと私の勝手だからね。私はシンの所有物じゃないのだし、あまりとやかく言うようなら私がシンを怒っておくよ」

 肩を竦めた私を、アリババは恐々見つめる。

「俺、お二人の関係がよくわかりません…… 」
「そうだなあ……友人であり、家族であり、……少なくとも主従ではないよ」
「……恋人なんじゃ」
「違うよ」

 アリババがまるで信じられないものを見るような目をしたので、私はもう一度肩を竦めた。

「まあ、私は彼の部下じゃないってことだけ分かってくれればいいかな」
「は、はあ……」
「じゃあ、疲れているだろうし立ち話は終わりにしようか。みんな部屋に戻るの?」
「大人組は飲みに行こうぜ!」
「先輩一人で勝手に行ってください」
「えっ」
「私も行かないよ」

 シャルルカンを適当にあしらって、子供たちを部屋まで送っていく。それぞれ今日のことを教えあう様子は本当に微笑ましくて、あたたかい。
 こんな毎日がいつまでも続けばいい、なんて高望みだと知っている。だから私は、ほんの少しでも長く続くことを祈るのだ。たとえそれがささやかな休息にしかならないとしても、救いではあるはずだと信じて。

150627 / title by サンタナインの街角で
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