No.11
心臓に刺さる、これが愛でも
 エルハームが死にかけたあの事件から、早一ヶ月。前向きになったあいつはどんどん表情や雰囲気が柔らかくなり、シンドリアに馴染んでいった。
 恐らく最初に打ち解けただろうマスルールとは勿論、ヤムライハやピスティとは良い友人関係を築いていて時折街へ遊びに行くようであるし、シャルルカンと談笑する──というよりはシャルルカンのほうから一方的に絡んでいるのか──姿を見ることもある。ドラコーンは直接関わることは少なくとも、やはり思うところはあるらしく何かと気にかけているし、旅をしている頃からエルハームの名前だけは知っていたヒナホホなどまるで昔馴染みの如く気さくに接しているらしい。お陰でエルハームもヒナホホには早々に気を許したようだった、とはシャルルカンの談である。
 ピスティによれば、女性が不得手なスパルトスでさえも、すれ違えば立ち止まって挨拶程度ではあるが言葉を交わす仲らしい。気がかりだったジャーファルとの仲も、当初に比べれば随分とお互いに歩み寄り、今は良好といえた。
 それらは全て喜ぶべきことだった。王としても友としても、そして、義兄としても、エルハームがシンドリアで上手くやっているというのは朗報に違いない。だというのに、俺の心は全く晴れやかではなかった。なぜか。その理由などとうに気づいている。
 ──子供染みた嫉妬だ。
 あいつはシンドリアに馴染み、少しずつ交友関係を広げ、笑顔を見せるようになった。けれども、俺と一緒にいる時間は殆どない。二人だけの時間などはもっとないし、増える兆しもない。どうにかそういう時間を作っても、エルハームの表情は少し固いように見えた。俺の思い過ごしであればいいが、八人将のそれぞれと話す姿を見ると、気のせいとも言い切れないように思えてくる。そうして、俺が一番古い付き合いなのにどうして、などとみっともない感情が顔を出すのだ。離れ離れになっていた間に、お互い色々なものを見て、手に入れて、失って、知らないことがたくさん増えたはずなのに、それでもまだ俺はあいつのことを知っているつもりでいる。それが傲慢であることも分かっていて、今ではジャーファルやマスルールのほうがよく知っているのではないかと思うこともある程なのに、本心では認めたくないのだった。
 一際強く拭いた生ぬるい風が開け放した窓から入り込んで、机の上に山と積まれた羊皮紙を吹き飛ばしていこうとする。それを咄嗟に手で押さえながら、耳にはある声が届いていた。

「凄い風ね。…はい、帽子」
「ありがとう! エルさん、咄嗟によく取れたわね」
「偶々だよ。私のほうが風下にいたから」

 少し聞き取りにくいが、間違いなくエルハームとヤムライハの声だ。この部屋の真下にある中庭にいるようで、思わず耳を澄ませばほかの声も聞こえてくる。ピスティだろうか、高い声と、シャルルカンらしきやや低い声。かと思うと、ヤムライハの大きな声だ。どうやらシャルルカンとヤムライハのいつもの口喧嘩が始まったらしい。
 どんどん大きくなる二人の声に続いてピスティの笑い声が響く。
 俺は殆ど反射的に立ち上がって、窓から四人を見下ろした。騒ぐ二人と笑う一人の傍で口論を諌めるでもなく、呆れ気味に片手で顔を覆ったエルハームが見える。声をかけようと息を吸い込み、──声にする前に、エルハームがこちらを見上げた。向けられた視線に気づいたのだろう。不意を突かれたせいで、声は喉に引っ掛かったまま出てこない。じっと見つめていると、エルハームは少し首を傾げて口をぱくぱくと動かした。
『どうしたの』
 確かにそう動いている。どうしたの。……確かに俺はあいつを呼ぼうとしたが、何か用件という程のものがあるわけでもない。
 ──用件がなければ、俺はあいつと話も出来ないのか? それは可笑しな話だが、しかし、事実として、たった五文字の問いかけに答えられない。
 突っ立ったままの俺を妙に思ったのか、エルハームは未だ笑っているピスティに一言二言声をかけ、杖に飛び乗って一瞬で俺の目の前にやって来て、もう一度同じことを今度はしっかり声にして尋ねた。

「どうしたの」
「……いや、どうもしないんだが……お前たちの声が聴こえたから、気になってな」
「あ……、もしかして、煩かった? 仕事に差し支えるなら──」
「ち、違う! そうじゃない」
「それなら良いのだけど」

 そう言ってエルハームはちらりと下を見た。視線の先では、相変わらずヤムライハとシャルルカンが不毛な口論を続けている。

「なあ。とりあえず中に入らないか。あそこに戻るのも厄介だろう」
「……仕事の邪魔には」
「ならないさ。それに、時には息抜きも必要だ」
「その通りだとは思うけど……、ジャーファルさんがよくぼやいているの、知ってる?」

 そう言いながらも、窓から失礼と断ってエルハームは部屋の中に降り立った。俺の机の上を見ると眉を潜めたが、何も言わずに杖を窓際の壁に立て掛ける。
 俺はといえば、思いがけず二人の時間が作れたことに年甲斐もなく喜ぶ自分を押し隠すのに必死だった。おかしい。確かにエルハームのことはずっと大切に思ってきたが、この幼い独占欲には、初めて気がついた。

「ねえ、本当にどうしたの。疲れてる?」
「……そうかもしれない」

 衝動に任せて、華奢な体を抱き寄せる。腕の中にすっぽりと収まる温もりがただただ愛おしい。時々、この温もりが突然どこか遠くへ行ってしまいそうで不安になる。
 無意識に腕の力を強めると、身動ぎしたエルハームはゆっくりとその細腕を俺の背に回し、幼子をあやすかのように軽く撫でた。最初はややぎこちなかったが段々と優しさを増すそれに、 一瞬、考えていたことが伝わってしまったのかと焦る。しかし幸いにもそうではなかった。

「お疲れさま」

 シンは机に向かって何かするのが好きな質ではないものね。エルハームは静かな口調でそう言って、右手をあげて俺の髪を鋤く。少し体を離すと、表情がよく見えた。どこか困ったような、堪えるような表情だ。見覚えのあるそれに息が詰まった。

「無理はしないでね」

 微かに揺らいだ瞳は、あの日のそれと重なって見える。ぐらりと俺の中で何かが傾いだ。
 未だ髪を鋤く細く柔らかな右手を取って、その掌に口づける。それから指を絡めれば、困惑を隠しきれていないエルハームが名前を呼んだ。

「シン…?」

 ……何か、言わなければ。幾らそう思えど、反して声が出てこない。これまでずっと口が立つほうであると自負していたが、なんと情けないことだろう。どうしようもなくなって、もう一度強く抱き締めた。



 シンの考えていることが分からない。
 もう子供ではない私達は──いや、私は、どうも彼との距離感を掴みかねている。あの頃のようにように接するには、離れていた時間があまりにも長かったのだ。気恥ずかしさが勝るのは勿論のこと、何を話せばいいのかも分からない。余所余所しいのも寂しいけれども、自分から時間という溝を飛び越えていく勇気もない。
 きっと、新たに関係を築いていくべきなのだ。だって私がどう思おうと、あの頃にはもう戻れないのだから。そう心の声が囁いた。
 その一歩を踏み出すのはいつで、そして、どちらからか──何れにせよ、全ては運命が導くままに。

150507 / title by 夜途
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